tsuckysのブログ

詩ともポエムとも迷言ともつかぬ言葉のつらなり

あわいの宴

 花は白、小鳥は緑、夜は黒。

 だんだん互いに色めき合って、遠くの眩しさに目を細める。

 言葉はいつになく自由で、私を縛りつけるものなど何もない。

 空は青、鼓動はオレンジ、道は金。

 いいえ、これは何でもない。

 詩でも歌でも音でもない。

 本当のところというものは、私の裏側に隠れている。

 いつだってそう、真実なんて隠されていなきゃ気づけない。

 

 

 目の端に私から出たひとはじきの酔いが溜まって、疲れていることを自覚した。

 論文を追う目が空滑りしているともう何時間も前から知っていたにもかかわらず、私はいっそ最後まで滑り降りてしまおうと、ウワバミの羅列のような文字からひとときも目を離さなかった。

 目頭を軽く揉み一息つくが、論文集の隣に放置してあった手紙に指先が触れ、さながら押麦の間の黄色い縦線のような現実に突きあたった。

 

 花は白、小鳥は緑、夜は黒。

 

 何が言いたいのか、さっぱりわからない。緑の小鳥、インコだろうか。

 この奇妙な手紙を私がもらったのは、昨日の夕方のことだった。瞬く間に暮れなずむ空に少しばかりの郷愁を刺激されつつ、大学の南門から帰路についた私は見事な夕陽に向かって歩いていた。

「せんせい」

 平仮名が一人歩きしているような厚みのない声に歩みを止め振り返った。大きな瞳とそれを縁取る不自然にひん曲げられた睫毛が印象的な女が私を見上げ小首を傾げていた。

「何か、用ですか」

 女の茶色い頭皮を見下ろしながら私は言った。

女は私が受け持っている講座で、よく一番前に座り過剰なほどノートにメモをしている学生だった。ぬいぐるみにしか見えない、と言うかほとんどぬいぐるみでしかないであろう馬鹿でかい筆入れを机の右側に置き、左側にはコーヒーのカップを置いて、教壇に立つ私をじっとりと見つめてくる。私は女の粘ついた視線と、コーヒーのパッケージの緑色のマークを必ずこちらにに向けて配置する偏った律儀さに、神経をすり減らしていた。

「おてがみあげます。よんでくださいね」

 平仮名はどこまでも歩いて行き、他の者が辿り着けない地まで到達したらしい。私はああ、とも、おお、ともつかぬ返事をしたのち、丁寧に両手で差し出された真っ白い封筒を静々と受け取ったのだった。

 女はこの不可思議な文章の束を、手紙と言った。詩でも何でもないと書いておきながら、これはある種の詩ではないのか。直接的な感情が込められていないように見せかけて、その実、奥底深く深くに私への思慕などが埋め込まれているのだとしたら。私はぶるると身震いをした。

 手紙を封筒にしまい、もう二度と読まないつもりの至極つまらなかった小説の間に挟んだ。分厚い小説は便箋一枚の薄い手紙を飲み込んだところで、その佇まいも趣きも何一つ変わらなかった。

 椅子に浅く腰かけ、背もたれに寄りかかる。私は私の身体を貫く重厚な寂寞の正体を突き止めようと、悪戯に両手の指を絡ませた。考え事に耽るような素振りはできても、それは単なるポーズでしかなく、私の思考は冷めた鉄瓶のごとくしんと静まるばかりだった。

 思考が深みにはまるとき、私はこの上ない幸福感に包まれる。私は思索の中でしか呼吸をすることができず、思索から解き放たれた現実世界ではかりそめの呼吸しかしていない。えら呼吸の魚が陸上では生きられないように、私も深淵なる思索の海の中で怠惰に過ごしたいと願う。

 迫り来る現実の波は、いつのときも私にわずかばかりの厳しさを運んでくる。甘い蜜でも吸いたいという私の希望は厳正に却下され、遥か昔の記憶をかき回すような塩辛い海水が喉の奥に引っかかる。

 ガタ、とリビングから珍妙な音が聞こえた。私は複雑に組んだ指をほどき、椅子から立ち上がった。

 廊下を進み不透明なガラスの引き戸を開ける。広がった光景に思わず声が漏れる。

 母親が転がっていた。リビングの真ん中に。

 仰向けになり手と足をピンと伸ばした状態で天井をぼんやりと見つめている母親の姿は、まな板の上にしっぽりと乗った鶏肉のようだった。

「母さん」

 声が裏返った。母親はごろりと頭を動かし、こちらを向いた。

「こうして寝っ転がっているとね、色んな人が目の前を横切って行くの。面白いの」

 母親はガラガラと痰の詰まったような声でそう言った。

「裕之もやってごらんなさい」

 私の名は裕之ではない。父親の名前でもなければ、母親の兄弟の名でもない。裕之はどこにも存在しない。いや、母親の中には居るのだろう。私が知らないだけで、母親には母親の生きてきた過去の世界が無限に点在しているのだ。

 私はソファを少しずらし、母親の隣に寝転がった。天井を見上げる。照明がある。どこから侵入したのだろう、小さな虫の影が九つばかり照明カバーの内側に散っていた。それ以外は何もない。天井の壁紙は全体的に黄ばんでいるが、特に目立った模様も染みもない。

「面白いの」

 再び母親がそう言った。うっとりとした目は焦点が合っていない。

面白さを共有できないことは後ろめたくもあったが、私は私の感性で床に転がっているのだから仕方がないとも思った。けれど、それをあえて母親に伝えることはしない。かと言って、話を合わせるわけでもない。私は私の感性を尊重し育もうとしているのだから。

 五分ほどそうして過ごしたのち、私は起き上がった。股関節が外れるような痛みが走ったが、いつものことなので気にしない。三十七にもなれば、体のどこかに不調の一つや二つあるものだ。

母親は私には目もくれず、ひたすら天井を眺めている。邪魔するのも悪いと思い、声はかけずにブランケットをそっとかけてやった。母親は何も言わない。半開きの口元は時折楽しそうに震えるだけだった。

 自室に戻り、椅子に座る。今度は深く腰かけ、論文の続きを読もうと背筋を伸ばした。

 明け方見た夢が記憶の大半を支配していた。私は何もない、黒いだけの空間を浮遊している。右を見ても左を見ても、奥行きのある黒が多方面に伸び広がっている。他にもさまざまな色があるということを忘れてしまいそうなほど、どこまでも漆黒に包まれていた。

 無重力空間なのか、内臓が皮膚を破って出てくるような浮力を感じる。腕はいくら伸ばしても何も掴まない。足はいくら動かしても何も蹴らない。私はもどかしくなり、腕と足を同時に動かした。その拍子に体がでんぐり返しのように一回転し、同じスピードでいつまでも回り続けた。そんなよるべもない夢だった。

 またしても、集中力を別の思考に根こそぎ奪われてしまった。私のなけなしの集中力は一体いつになれば私に定着するのだろうか。

 昔は、とりわけ学生の頃は、こんな状態になることはなかった。いつ如何なるときも目の前のやるべきことに集中できたし、どんな場所でも、例え真横で女子高生の黄色い噂話が繰り広げられようとも騒音レベル九十デシベルの工事音を延々と聞かされようとも、私の集中力にはまったく影響がなかった。

 それに比べて、最近はどうだ。小さな虫の羽音でさえ、私の静寂の糸を断つ不快な騒音になってしまっている。気づけば関係のない考えで脳がフル回転してしまう。いい加減にしてほしいと思うが、関係のないことを考えてしまうのもまた私なのであって、自分自身を非難するという負の螺旋階段を一人ぐるぐると降りて行っても仕方がない。

 デスクに頬杖をつき長いため息を吐き出したところでリビングから、ドンガラ、と奇天烈な音がした。私は重い腰を上げ、再び母親の様子を見に行った。

 母親はさっきと同じ体勢で、今度は目を閉じていた。母さん、と声をかけるが反応しない。胸が上下しているから、寝ているだけなのだろうと推測する。よくもこんな硬い床で寝られるものだ。一応母親の横に膝をつき呼気を確かめる。換気の行き届いていない羊小屋のような匂いの生温かい息が、私の鼻をついた。口腔ケアをもっと入念にしてやらなければ、と思った。

 先程の大きな音は母親でないとしたら何だったのだろうと、私は十二畳のリビングを見渡した。

 ああ、奴らか。

 私は浅く納得した。窓側の日のよく当たるところ、レースのカーテン越しに差し込む光がリビングの隅に透明な影を作るところに、得体の知れない生き物たちがピラミッドのように折り重なっていた。

彼らの生体は甚だ不明だ。大学の頃生物学を専攻し今や学生たちに教える立場となった私であっても、彼らについては何も知らないという有り様だ。私の知るところ、それは彼らは恐らく私にしか見えておらず、この世界のどんな生物にも属さないということだけである。

 離れて暮らしていた母親を私の住む家に引き取ってから、彼らの姿が見えるようになった。最初はそれこそレースのカーテンのように曖昧な色彩でリビング中をうろうろと歩き回っていたが、日が経つにつれ徐々に実体を持つようになり、今では体のほんの一部が透けているだけのほぼ完全な姿になっている。触れたことは一度もないが、きっとしっとり柔らかいのだろうと想像できる。

 そんな見た目の彼らだが、立てる音は人一倍やかましい。バウムクーヘンのような肌触りであろう彼らのどこから、ドンガラなどという奇怪な音が出てくるのだろう。今にも崩れそうなピラミッドを見て、そう思う。

 母親に目を移す。気持ちよさそうでも辛そうでもない寝顔に、ベッドに運ぶかどうか逡巡する。結局、風邪を引くといけないという結論に達し、母親を抱きかかえリビングの隣の和室に運んだ。和室は引き戸一枚でリビングに繋がっており、昼間はいつも開け放っている。昇降式ベッドと鏡台があるだけの質素な空間だ。

 母親はベッドに横たえても起きる気配を見せなかった。羊小屋臭い息を吐いて安らかに眠っている。肩まで布団をかけてやり、寝やすい位置にベッドを調節して部屋を出た。リビングを一瞥すると、生き物たちは傾いたピラミッドのまま日向ぼっこをしていた。彼らの糸みたいに細く閉じた目と母親の寝顔が重なる。もはや彼らは生活を共にする家族になりつつある。そのことに不快感はなかった。

 自室に戻るが、もう何もする気は起きなかった。読みかけの論文集の左端をめくっては閉じ、まためくっては閉じて無意味な時間を過ごす。

 休日に仕事をするものではないのかもしれない。休日は休むのが仕事であって、普段の仕事を休日にやるという行為は、むしろだらけているのかもしれない。もっと要領よく生きなければ。休日は好きなことに時間を使うべきだ。私は分厚い論文集をデスクの奥に放った。大きく伸びをしてから、気づく。私には好きなことなどなかった。

 結局、私は放り投げたばかりの論文集を手元に引き寄せ、集中力の欠けた頭に内容を無理矢理詰め込んだ。貴重な休日がこうして過ぎ去ってゆく。私は自宅にいるより大学の研究室にこもっているほうが数倍ましな自分でいられる気がする。つまりは仕事中のほうが私の精神はピンと均衡を保ったシーソーのように安定方面に整うのである。

 日が傾き始めた頃、私は母親の夕食の準備をするため自室をあとにした。読んだ枚数は、数えてみるとたった二ページだった。これだけの枚数のために何時間かかったのだろうと頭を抱えながら台所に立った。

 

 

 朝は陽の光がカーテンの隙間を縫って私の顔に降り注ぐ。太陽の光を浴びると体内でビタミンDが生成されて健康にいい、手のひらに浴びるだけでも効果があると聞くが、私はそれを顔面でやってのける。意図しているわけではないが。まだ染みなどはできていないけれど、油断はできない。いつまでも白いむきたまご肌でいられるわけではない。メラニンは私の皮膚の奥で確実に息をしているのだろう。

 ベッドから起き上がり、軽く肩を回す。最近よく起き抜けに肩が凝っている。枕が合わないのかもしれない。十分に睡眠をとっているはずなのに疲れが私の肩にぶら下がり、腰にまとわりつき、足首を掴んでいる。朝からため息など吐きたくもないのに、唇の間から漏れ出てしまう。

 顔と口を洗い、仕事へ行く支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。上はセーターを着ていたが下はトランクスのままだった。これではいけないと急いでスラックスを履く。

 玄関のドアを開けると、まず黄色いニット帽の先についたポンポンが目に飛び込んできた。

「おはようございます」

 ニット帽の下に真弓さんの朗らかな笑顔があった。四十には見えない童顔な彼女は、笑うとさらに無邪気な小学生のように見える。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 私はそう言って彼女を家の中に招き入れた。

 真弓さんは私が仕事へ行っている間、母親の身の回りの世話をしてくれるヘルパーだ。週五日、一日八時間が彼女との契約になっている。母親は彼女のことを大変気に入っており、真弓さん真弓さん、と小動物のように彼女の後ろをついて歩く。母親は日常生活動作は自立しているので、彼女と一緒であれば食事を作ったり掃除をしたりすることができた。

「あら、またカーテンも開けないで。陽の光を浴びると体が元気になるんですよ」

 リビングに入るなり、真弓さんは閉じたままになっていたカーテンをドラマティックにざざっと開けた。そして、隣の和室を覗き、

「みーさん、おはよう」

 と母親に声をかけた。

 ベッドの淵に腰かけぼんやりとした目で宙を見つめていた母親は素早く立ち上がり、飛び出したイカのような速さで真弓さんの元へ駆け寄った。こんな機敏な動きができるのかと、私は昨日リビングに寝転がっていた母親の姿を思い浮かべ、妙に感心してしまった。

「学さん、仕事に遅れちゃいますよ」

 真弓さんが顔だけこちらを向いて言った。私の心配までしてくれるとは、まったく頭が下がる。彼女に再度よろしくお願いしますと言い、私は自室に戻って支度の続きに取りかかった。

 家を出るとき、真弓さんが見送ってくれた。毎朝のことだが、誰かに見送られるというのは案外嬉しいものだ。母親は私が仕事に行こうとしても家から出てこないことが多い。真弓さんが、

「ほら、みーさん、息子さんに行ってらっしゃいしましょうよ」

 と誘っても、

「わたし、お洗濯があるから」

 とか、

「今日はお部屋にいる日なの」

 などと理由をつけて出てこない。外が嫌いなわけでもないのだが、私が出勤するときは頑なに玄関に来ようとしない。私も私で母親に見送られるのはどこかこっ恥ずかしい気持ちがあるので特段気にしてはいない。

 曲がり角のところでちらりと家を振り返る。真弓さんはもういない。さすがに角を曲がるまで見送るのは出過ぎた真似だとわきまえているのか、単に雇い主にそこまでする必要がないと思っているのか、彼女の胸中はわからない。

 街路樹も枯れ果てた殺風景な通勤途中の道に、うっすらと積もった雪がわずかな彩りを添えていた。白は他のどんな色より華やかでたおやかな色だと私は思っている。雪の降り初めは殊にそう思う。一瞬にして異世界に連れて行くだけの引力があるのに、やさしくやさしく、丁重に空から降りてくる白は冷たさなどない、私の目にはただただあたたかい色に映る。

 息を吸うと肺の細胞がパキパキと一つずつ凍っていくような痛みを感じる。鼻の奥もツンと痛む。春にも夏にも秋にも感じることのできない、冬だけの特別な感覚が私は好きだった。この痛みを辿ることで私は生きていく上で必要な気力だとか精神力を補っているのだと思う。冬の間に蓄えたそれらを、冬以外の季節に少しずつ使う。まるで冬眠する動物たちと真逆のことをしているなと、自嘲気味な笑みが溢れた。

 道路の端の真新しい雪を踏み踏み歩いていると、地下鉄の入り口に着いた。雪の上の無数の足跡が大きな怪物の口のように変形し、階段へと続くタイルが灰色に湿っていた。私は取り残された穴のごとくぽっかりと空いた入り口を下って行く。

 改札を抜け、ホームに降り立つ。生足をべろりと出したブレザー姿の少女たちが壁際にペンギンの群れのようにかたまっていた。寒さをものともしない、それとも平気そうな表情に隠した内心は今にも凍えそうになっているのか、彼女たちのむちむちとした太ももからふくらはぎのラインが眩しかった。

 掲示板が赤く光り、三十秒もしないうちに電車が滑り込んでくる。突風が吹き、少女たちの短いスカートを巻き上げる。こんなとき、チャンスとばかりに目を見開いて凝視するような下卑た私ではない。目をそらしてやる。どうせ学校指定の芋くさい短パンでも穿いているのだ。

 降りる人を待って電車へ乗り込む。後ろからぎゅうぎゅうと押される。混雑しているので仕方がないとは言え、他人と体を密着させるのはどうにも不快だ。私の体から半径二メートル以内も私に含まれる。自我を持っているのだ。その自我が他人の鞄や妙な匂いのする頭やダウンコートの毛皮つきフードなどに侵されている。絶対的領域である私の体でさえ、足は踏まれ、腕は動かすこともできず、鳩尾には前に立つ背の低い女の鋭利な髪飾りがぐいぐいと突き刺さってくる。

 生温かい空気も苦痛だった。何か体に悪い物質でも含んでいそうな温風が鼻の辺りを漂っている。深く息を吸ってはいけない。浅い呼吸を意識する。

 三つの路線が交差する駅で塊になってごっそり人が降りて行った。途端に息苦しさから解放される。むしろ足場が急にひらけたためよろめいてしまった。誤魔化すように空いていた端の席に座る。次の駅で降りるのだが。

 地下鉄を降り、地上へ出た。再び刺すような空気が私を包む。やっと満足に呼吸ができる。私は思いきり冷たい息を吸い込んだ。もっと凍りつけ。もっと痛め。全身を凍てつく冬の空気で満たせ。駆け巡る血も凍るほどに。

 駅から大学までは徒歩十分もかからない。交差点を渡ってから裏通りに入ればあとはずっと一本道だ。民家同士が背を向け合っている、車がすれ違えるかどうかの細い道を歩いて行くと、大学の南門が見えてくる。門を越えるとオオモミジの大木が迎えてくれる。秋には高い空に映える見事な紅葉ぶりを見せてくれるが、今はすっかり葉も落ちている。私には寂しくなった枝を粉雪が飾り立てているように見え、その健気な様子に頬が緩むのだった。

 私の研究室は南門からさらに五分程北に歩いたところにある。理学部棟の二階の一番手前の部屋だ。ドアを開けて左側には天井まである本棚とデスク、窓際には物置代わりになっている小さめの机とプリンター、中央が通り道になっており、右側には応接用のテーブルとソファ、その横には左と対になる天井までの本棚。このほぼ真四角の部屋で私は日々研究を重ね、論文を読み、講義のためのパワーポイントを作成している。

冬の朝は外気よりほんの少しましな程度に冷えている。私は出勤するとまず深呼吸して部屋の冷たさと、本にまみれた空間特有の熱がこもったようなぶ厚い空気を体内に染み込ませる。そして、デスクの上や本棚の中にある適当な本を引っ張り出して、手触りとその温度を確かめる。暖房をつけるのはそのあとだ。

 応接セットの奥にある洗面台で手を洗い、湯沸かし器に水を入れる。沸騰したらコーヒーを飲むのだ。二つ隣の部屋の同僚は、コーヒーは豆から挽く派だと言っていたが、私はインスタントで十分だ。コーヒーは好きで飲んでいるわけではない。眠気を払うために飲んでいるのだから味や香りなどどうでもいいし、深みやコクなどもわからない。じんわりと暖かくなってきた部屋で湯沸かし器のぐつぐつする音を聞きながら、私は二限目にある講義の準備に取りかかった。

 

 

 講義は予定通りのペースで滞りなく進んだ。教壇に立ちレーザーの赤い光を指し棒代わりにパワーポイントに沿って説明を加えていく。

今年の一年生は大人しいと言うか、自己主張が少ない。毎年、講義十五分前になると我先にと教室に飛び込んできて、一番前の真ん中の席に瞬く間に座り、手を耳の横にぴたりとつけて垂直に挙げ、「質問いいでしょうか!」と唾を散らしながら叫ぶ学生が最低一人はいるのだが、この講義ではそういう者は一人もいない。

真面目さに羽が生えて今にも飛び立っていきそうな学生というのは面倒ではあるが、教える身からすれば可愛げがあり扱いやすくもある。講義中は寝ているくせにテスト前になると友人間を渡り歩きノートを借りて落第ぎりぎりの成績で滑り込み合格する、要領のいい学生が私は一番嫌いだった。この度の一年生はそういうタイプが多い印象だ。

「今日はここまでにしますが、何か質問はありますか」

 案の定、誰も手を挙げない。講義後にわざわざ質問に来る者もいないだろう。いつもそうなのだ。

 学生たちには最初に配ったプリントに講義の感想を書くように指示し、使ったノートパソコンを閉じる。書き終えた者からぞろぞろと行列を作り、教壇の空いているスペースにプリントを置いて去って行く。

どうせ今日も大した内容は書かれていないのだろう。一言でもいいからと言ってはいるものの、本当に一言だけ書いていく奴が多すぎる。「ためになった」だの「興味深かった」だの。「眠かった」と書いた奴もいた。ここまでくると怒りも湧かない。そうか眠かったかなら家に帰って存分に寝るといいそしてもう大学にはクルナ。

 一人また一人と学生が教室を出ていく。がらんとした扇型の室内を見渡すと、二段目の右端の席にビニール傘が置かれていた。誰かの忘れ物だろうが、教務に持っていくのも面倒くさい。気づかないふりをして荷物を持ち、教室を出ようとする。

「せんせい」

 平べったい声が私を呼び止めた。私は心底驚いた。肩が跳ね上がる。振り向くと昨日私に手紙を渡してきた女子学生がマフラーに顔を埋めながら立っていた。いつの間に後ろにいたのだろう。

「何か」

「しつもんがあります」

 パンに塗ったバターのようにどこまでも平らな口調で女は言った。

「おてがみよみましたか」

 私は失望した。質問と言うのだから講義に対するものかと思ったが、至極個人的な、私にとってはどうでもいい内容だった。女はジャングルにでも生えていそうな植物じみた睫毛を伏せ、もじもじと体をくねらせた。

「ああ、読みましたよ」

 読んでないと言ったほうが話が早く済んだかもしれないが、私は正直に答えた。変なところで嘘をつきたくないのだ。

「どうでしたか」

「どう、とは」

「かんそうです」

 感想。手紙とは果たして読んだあとに感想を求められるものだったか。

「えーと、あれは詩か何かだったのかな」

「いいえ、おてがみです」

「返事を書いたほうがいいですか」

「いいえ、いまここで、かんそうをください」

 返事はいらない感想を言え、と迫ってくる女の意図が読めず、困った私は時間稼ぎに一つ咳払いをした。

「せんせいは、どのようなおきもちで、おてがみをよみましたか」

「気持ち……」

「たのしいきもちでしたか、それともくるしいきもちでしたか」

「うーん、楽しくはなかったですが、かと言って苦しくもありませんでしたね」

「そうですか」

 女は急に満足したように頷き、再びマフラーに顔を埋めた。前髪とマフラーの間の目が一瞬細くなる。笑ったのだろうか。

「ではまた」

 白く華奢な手をコートの袖からはみ出させ、女は手を振った。

とうに荷物はまとめてあったが、すぐに教室から出ると女とまた鉢合わせる可能性があるため、無意味に教壇の前を二、三歩うろうろしてから外へ出た。研究室に戻る際窓の外に目をやると、雪が静かに降っていた。このまま何十センチも積もりそうだ。もっと降ればいい、積もればいい。鮮やかな白で無情な日常を覆い隠してしまえばいい。そんなことを考えながら、私は自分の研究室のドアノブを回した。静電気が駆け抜けて行った。

 

 午後からは副担当をしているゼミの四年生の女子学生二人が、研究室へやって来た。私に用があるのは丸眼鏡の背の高い学生、佐藤だけらしい。もう一人の小柄でやけにカラフルなニットを着た斉藤は、手持ち無沙汰に本棚に並んだ専門書を眺めていた。

 佐藤に論文の章立てについて少し指導をする。彼女はメモを取りながらはい、はい、と真剣な表情で聴いていた。しかし、そのメモはスマホにチャカチャカと打ちつけているものだから、どうしても誰かとメッセージ交換でもしながら聴いているようにしか見えない。

この子は社会に出ても、上司や先輩の言葉をスマホに打ちつけるのだろうか。今のうちに忠告しておくべきかとしばし逡巡するが、考えるうちに、スマホにメモすることの何がそんなにいけないのだろうかと思い始めた。深みにはまり抜け出せなくなる前に、もういいと切り上げる。いずれ誰かに指摘されるだろう。私はその役目ではない。

 私が佐藤に指導している間、斉藤は本棚を勝手に物色していた。目の前をちらちらと斉藤の派手なニットが横切るので気が散る。佐藤の顔を見ながら話しているつもりでも、気づけば斉藤のニットに目がいってしまう。何という柄なのだろう。日本で売っている品物ではないのかもしれない。

 加えて、斉藤は気まぐれに、

「せんせえー、この本借りてもいいすか?」

「せんせえ、小説なんて読むんすねー」

「きちっと本揃ってんなあ、せんせえめっちゃ几帳面だね」

 などと声をかけてくるので、私はその度にいちいち言葉を返さなければならなかった。

 一時間程で彼女たちは部屋から出て行った。佐藤はスマホをいじりながら、斉藤は本棚から抜き取った三冊の本を脇に抱え、私の顔も見ないで、

「失礼しましたー」

 と言った。

 ドアが閉まって一分もしないうちに、再びノックの音がした。忘れ物でもしたのかと開いたドアに向かって、どうした、と声をかけると、顔を覗かせたのは二つ隣の研究室にいる同僚、小向だった。

「いやあ、清野先生モテますねえ」

 まったく心当たりのないことを言いながら勝手に部屋に入ってくる。

「モテる? 私がですか」

「清野先生はカッコイイから、女子にモテモテですよ」

 俗っぽいこと甚だしい。指導が終わって佐藤と斉藤が部屋を出ていったところを見られたのだとしたら、いい勘違いだ。

「さっきの学生たちのことでしたら、論文の話をしていただけですよ」

「まあそうでしょうけどねえ」

 小向は含みを持った言い方をして、これまた勝手に洗面所で手を洗い始めた。タオルが目の前に下がっているというのに、手を振って水気を飛ばす。応接ソファーや本棚に水滴が散っていくのを、私は黙って見ていた。

 小向は長い方のソファーにどっかりと座ると、まだ半分濡れている手を座面で拭いた。べらべらと業務に関係のないことを喋り出すが、私はリネン地のソファーに水滴が染み込んでいく様が気になり、彼の話は耳に入ってこなかった。

「あ、清野先生、コーヒー飲んでもいいですか?」

 思いついたように小向が言う。ああどうぞ、と言ってもにこにことしながら座ったままなので、私が用意するのかとバレないようにため息をついて立ち上がった。

「この部屋にはコーヒー豆とミルはないんですもんねえ」

「ないですね」

「いいんですいいんです、インスタントで構いませんよ」

「はあ、すみません」

 謝ってから、どうして私が下手に出なければならないのだと憤りを感じた。

 お湯を沸かし、適当なマグカップにコーヒーの粉を入れる。ミルクと砂糖はどうするのか聞こうと思ったが、余計なコミュニケーションを取りたくないので、シュガースティックとコーヒーミルクを一緒に机の上に置くことにする。

「僕はコーヒーはブラック派なんですよ」

 小向にそう言われ、私は無言でマグカップだけを机に置いた。確かこの前、カフェオレにはまっていると言っていなかったか。彼の嗜好はころころと変わるらしい。

 小向はコーヒーの匂いを嗅ぎながら、

「うーん、やっぱり豆から挽くより香りが劣りますねえ」

 と言った。名もない苛立ちに似た感情が私の全身を駆け巡った。猫であれば、毛を逆立てていただろう。

「それで、小向先生。私に何かご用事でしたか」

 さっさと用件を聞き出し、速やかに帰ってもらいたい。けれど、小向はコーヒーをずず、と一口飲み、ゆったりとした口調で、

「別に用事はありませんよ。仕事が一段落したから遊びに来たんです」

 と言った。ただでさえ細い目を溶けてなくなりそうなほど細めて、私を見ている。

 はあ? と言いそうになるのを必死に堪える。私の仕事はまだ終わっていない。と言うか、いちいち邪魔が入るせいで集中できない。学生の指導は仕事のうちなので邪魔とは思わないが、お前の相手をするのは明らかに業務外だ。

 どんな顔をしているのか自分ではわからないが、よほどひどい顔をしていたのだろう。小向は取り繕うように、

「冗談ですよ、清野先生。用事、ちゃんとありますよ」

 と多少慌てた様子で言った。

「今日仕事終わりに一杯どうですか」

「え?」

「ちゃんと清野先生とサシで飲みに行ったことなかったから、今日あたりどうかなって」

 小向はおちょこをくいっとやる真似をして、にへらと笑う。

「夜は母親の世話があるので遠慮しておきます。残念ですが」

 大して残念でもないが、一応礼儀としてそう言っておいた。小向はええーっと大袈裟にのけ反り、不満げな表情をした。

「すみません」

「わかりました、また今度にしましょう」

 渋々という様子で小向は頷いた。

 その後も彼は無駄口を叩きながら部屋に居座り、三杯もコーヒーを飲んで腹をたぷたぷ言わせながら帰って行った。

 夕暮れが迫っていた。母親がいるので、帰りが遅くなるわけにはいかない。早く帰って真弓さんと交代しなくては。結局自分の研究は何一つ進まなかったが、今日はもう切り上げるしかない。いつにも増して盛大なため息をつき、私は帰り支度を始めた。

 

 玄関の鍵を開け家の中へ入ると、ちょうど真弓さんが廊下を走ってくるところだった。私には目もくれず、トイレの前に立って叫んだ。

「みーさん! みーさん!」

 トイレのドアは開いており、電気がついている。

「みーさん、ほら、リビングに行きましょうね、みーさん」

 何事かと思い、靴を脱いで真弓さんのそばへ行った。開いたドアの間からトイレの様子を覗く。

「ああ……」

 情けない声が出た。持っていた通勤鞄を床に落としてしまう。自分がこんなに漫画やドラマでありがちなリアクションを取れるなんて意外だった。

「あ、学さん、お帰りなさい」

 真弓さんが私に気づき、事のついでのような口調でそう言った。それからすぐにトイレの中に向かって、

「みーさん、学さん、帰ってきましたよ。さあ、もうそのへんでお終いにしましょう」

 と声をかけた。

私は真弓さんに退くように言い、トイレの中へ一歩足を踏み入れた。そこには一心に便器をかき回す母親の姿があった。

 背中を丸め、時折水の中から何かを掬い上げるように両手を動かしている母親は、得体の知れない獣のようでありながらどこまでも小さく儚い胎児のようでもあった。その薄く乾ききった唇の間からは声一つ漏れてこない。皺が深く走った両手の間からは水に溶けきれず細切れになった便がぼたぼたと落ちるだけだった。

 母親とは、こんな生き物だったか。わからなくなり、私は膝から崩れ落ちた。

「学さん!」

 真弓さんの声が遠く聞こえる。立たないといけない。ここで負けてはいけない。途方もなく大きな敵は、きっとこれからだって現れる。幾度も幾度も姿形を変え、私の前に立ちはだかるのだ。

 幼い頃、母親にゲームを買ってもらえず、友達の家しかプレイできなかった壮大なバトルゲームが、何故か今脳内に蘇ってきた。

 私は震える膝を何とか黙らせ立ち上がった。

「母さん」

 声をかけるが、反応はない。取り憑かれたように必死な形相で茶色く濁った水をかき回している。

「母さん、何を探しているんだ? 私も手伝うよ」

 母親の横顔に頬を寄せて、囁くように言った。すると、母親が突然くるりと振り向いた。

「指輪がないの。落としたのかもしれない」

「指輪? トイレの中に?」

「川の中」

 そう言って、母親は便器の中に顔を突っ込もうとした。こればかりは慌てて止める。母親は私に腕を掴まれた状態で身を捩った。

「直接顔をつけたほうが早いもの」

「危ないよ、流されたら大変だろう」

「でも」

「私が探しておくよ。泳ぎは得意なんだ。ちゃんと見つけ出すから、指輪の特徴を教えてくれるかい」

 私は何とか母親の気を便器からそらそうとした。背中をさすりながらゆっくりと問いかける。

「桃色の、小さな貝殻がついた指輪よ。大事なものなの。ねえ、裕之、絶対見つけてよ」

「もちろん。任せてよ、母さん」

 母親は安心したように、ようやく便器から手を出した。

「服が濡れてるからとりあえず拭こう。風邪をひいてしまう」

 真弓さんが気を利かせて持ってきてくれたタオルでまず母親の手を拭き、糞尿まみれの服を脱がせた。綺麗なバスタオルで体をくるみ、真弓さんが母親を風呂場へ連れて行く。

私はトイレットペーパーで床に飛び散った水分を吸い取り、便器の中の汚水と一緒に流した。トイレクリーナーで便器と床を拭き、汚れた便座シートは丸めて捨てた。

 入浴を終え、母親に服を着せている真弓さんに、ありがとうございますと礼を言った。

「すいません、こんな遅くまで。時間外の分は残業代ということでちゃんと払いますので」

「いえいえ、お気にせず。それにしても学さん、神対応でしたね。わたしのほうが慌てちゃった。見習わなきゃ」

 真弓さんは鼻の付け根に皺を寄せて笑った。

 彼女が帰ったあと、一人で夕飯を食べながら長い息を吐いた。母親は私が帰宅する前に真弓さんと食べ終わっていた。今はソファーに座ってテレビを観ている。

 リビングの得体の知れない生き物たちは、皆母親の足元で丸くなっている。母親の足を囲むように半円になり、折り重なって眠っている。まるでドミノが倒れたようだ。私の足元にはちっとも寄ってこない。きっと母親のいるところには床暖が入っていてあたたかいからだろうと、勝手に理由を考えてみる。

 母親は風呂に入ると、けろりと指輪のことは忘れたようだった。便器の中をかき回していたことなんてすっかり忘れて、

「今日はお風呂早いのねえ」

 などと呑気な様子で言っていた。

 母親は色々なことを徐々に忘れていく。すでに息子である私の名前もわからないようだ。学、と自分でつけた名前を呼ぶことは最近ではもうない。何かを唐突に思い出して、そしてしばらくすると忘れるの繰り返しだ。

 私は母親の横顔と得体の知れない生き物たちを交互に見比べた。どちらも穏やかな表情をしている。ふいに込み上げるものがあって、私は目頭を強く押さえた。賑やかなテレビの音とともに夜が更けていった。

 

 

 翌朝、一段と積もった雪を踏み締め、私は大学へ続く細道を歩いていた。塀の上のかまぼこ形の雪は、手で触れるとさらさらとコートにかかった。黒いコートに真っ白い雪が散らばって、まるで宇宙に浮かぶ無数の星のような模様になった。その雪もすぐに溶け、後には水晶の玉のような小さな水滴が残った。手で払うと水滴は四方に弾けていった。

 指先が燃えるように熱かった。雪は火と同じ性質を持っている。こんなことを言ったら、物理学を教えている小向に馬鹿にされてしまうだろう。

「清野先生、妙なことを言いますねえ。雪と火が同じ性質を持つのは文学の世界だけですよ。詩人ですねえ、清野先生」

 だとか何とか。小向の下の歯茎を突き出す笑い方を思い出し、眉をひそめた。

 南門を抜けると、オオモミジの木にも雪が積もっていた。重たそうに枝をしならせている。立ち止まって木のてっぺんを見上げていると、後ろで平たい声がした。

「せんせい」

 振り向くと、手紙の女がしきりに長い髪の毛先をいじりながら立っていた。毛先を束にしてくるくるとねじりながら指先に巻きつけている。白く細い人差し指に目がいく。

「おはようございます、せいのせんせい」

「ああ、おはようございます」

「せんせいにおてがみあげます。よんでくださいね」

 女は肩にかけたトートバッグの中をごそごそとまさぐり、一通の白い封筒を取り出した。

「ええと、また私に手紙をくれるんですか」

 また、の部分を強調して言ったつもりだった。わけのわからない手紙をまた書いてきたのかという、うんざりした気持ちを表そうと思った。だが、あまりにも露骨に表現するとこの女を無闇に傷つけてしまいかねないので、あくまでも滲ませる程度に、表情は穏やかに保ちながら言った。

「はい、たくさんかきます。おのぞみならば」

 間違っても望んでなどいないのだが、女は嬉しそうに口角を上げた。両頬にくっきりとえくぼができる。

「ありがとう」

 そう言って封筒を受け取った。女は深々と頭を下げると、校舎とは反対の南門のほうへ歩き出した。一限から授業があるわけではないのだろうか。女が私に手紙を渡すためだけにこの時間に大学へ来たのだと思うと鳥肌が立った。

 理学部棟に入り、自分の研究室の鍵を開ける。外ほどではないものの、ピンと張り詰めた寒冷の糸が私の体を分断しようとする。上等だ。私は冬の冷たい空気になら八つ裂きにされてもいい。切断された四肢を眺めるとき、私はどんな気持ちになるのだろう。

 暖房を一番低い温度に設定し、手洗いとうがいをしてコーヒーを淹れる。暖房も私一人なら本当はつけなくてもいいのだが、学生がいつ訪問してくるかわからないから、彼らのために一応つけている。以前、冷え切った部屋で悠々と仕事をしていると学生が質問に来て、

「先生、部屋さみいよ! 南極に住んでんじゃねえの!」

 と怒られたことがある。そのときの彼の怒気がこもった大きな目があまりにも恐ろしくて、私は研究室では二度と自分の快適さを優先させることはしなくなった。彼が卒業するまでは、暖房は常にマックスの温度にしていた。

 マグカップを片手に、椅子に座る。コーヒーを一口啜り、先ほど女からもらった封筒をデスクの上に置いた。到底読む気にはなれないが、また感想を求められるかもしれない。私は左目をこすり、意を決して封を切った。

 

 

 そこはかとなくゆれるカーテンの

 そのはしっこをつかんで

 窓の外はいろいろで

 わたしはもういっぱいいっぱいで

 レースのカーテンから透ける光を

 所在無げにながめていた

 わたしはわたしを言い切る強さがほしい

 それを踏み台にして

 街へ繰り出す勇気が欲しい

 半透明で液体のようにほとばしるわたしを

 背中が熱くて切り出せない

 何ものも目を通させない

 人の眼差しで生きることを濾過する

わたしを

 

 

 これは詩だろう。少なくとも私には詩に見える。上手なのか下手なのかはよくわからない。あいにく私には文芸に関する素養がない。だが、彼女の詩は私の胸を打たない。そもそも彼女の詩に感動したところで、私には返事を書くことも評価することも、ましてや同じように詩を書いて贈ることもできないのだ。

 彼女が私に何を求めているのかわからなくて不気味だった。恋文とも思えない、けれど蔑ろにするわけにもいかない、扱いに困る代物を渡してこないでほしい。

 便箋を封筒にしまい、ひどく稚拙な内容だった啓発本の間に挟んだ。これももう二度と読むことはない。つまり、彼女の詩も読み返すことはない。

 読みかけの論文集を手に取る。いつまで経っても読み終わらない、読もうとすると必ず邪魔が入る、いや学生の訪問は邪魔とは思わないが、でも本当は少し疎ましいけれど、とにかくこれを読まないことには私の研究が進まないのだ。

 それなのに、今日も読めない。あの女の詩が脳内にちらついて気が散る。半透明で液体のようにほとばしるわたし? 何だそれは。ちっとも心の琴線に触れはしないのに、私の集中力を奪うだけの力はある。しかも強力だ。

 胸をかきむしりたい衝動に駆られた。論文集をデスクの上に叩きつけ、拳を突き立てる。

「私は生物学者だ」

 腹の底から低い声を出してそう言うが、今この場面で言うべき言葉なのかは甚だ不明だった。自分でも何をしているのかわからなくなってきた。吐き出した声がほの寒い部屋の中を旋回し、隠れ場所を探しているようだった。

 

 二限目の講義が終わり、学食で昼食を摂った後、研究室に戻ろうとした私は小走りでやって来た小向に引き止められた。突き出た腹がたぷんたぷんと揺れている。そこまでして私にどんな用があると言うのだろうと思うほど、額に玉のような汗を浮かべていた。

「清野先生、やっと見つけた。研究室にいないから」

「講義の後そのまま学食に行っていたんですよ」

「ああ、そうでしたか。なるほどなるほど」

「私に何か用事でしたか、小向先生」

 小向は研究室に入りたそうにちらちらと把手に目を向け、もじもじと体をくねらせている。そうはさせるかとばかりに、私はあえて小向の位置から把手が隠れるように立ちはだかった。ここは何としても立ち話で済ませる。奴を部屋に入れようものなら、延々と無駄話に付き合わされる羽目になる。

「清野先生、どうですか、今日あたり一杯行きませんか」

 何かと思えば、また飲みの誘いか。夜は母親の世話をするから無理だとこの間断ったことをもう忘れたのだろうか。

「すいません、夜はちょっと。母親を看なくてはならないんで」

「そうは言いますけどねえ、清野先生。たまには息抜きも必要ですよ。先生は真面目だから、つい根を詰めすぎちゃうでしょ。いけませんよ。潰れてしまいます」

 まったくの正論なのだが、何故だろう、どこかがおかしい。そうか、私の気持ちが置いて行かれているのだ。

「でも、私の帰りが遅くなるとヘルパーさんに迷惑がかかりますし」

「ヘルパーがいるんですか。じゃあちょうどいい。遅くなると連絡を入れればいいじゃないですか。一時間くらいだからそんなに迷惑でもないでしょ」

 この男には話が通じない。断っても断っても、勇敢な騎士のごとく引き退らない。ある意味これは勇気なのかもしれない。他人の畑を耕そうと躍起になって鍬をふるう、トンチンカンな奴だ。諭すだけ無駄だろう。

「わかりました。では一時間だけ。ヘルパーさんに迷惑がかかるので、本当に一時間だけですよ」

 おそらく一時間では済まないと思うが、少しでも気に留めてもらいたくて念を押した。小向はあからさまに嬉しそうな顔をして、

「いいですいいです、一時間でいいです! 今夜! 仕事終わり! 行きましょう!」

 と叫んだ。今にも踊り出しそうな勢いだ。

「早く仕事終わらせちゃいましょう! 先生の研究室に迎えに行きますね!」

 そう言いながら自分の研究室まで、生まれて初めて草原を前にした小ヤギのように駆けて行った。

 たかが私と一杯飲むことがそんなに嬉しいものなのかと訝しむが、あんなに無邪気な反応を見せられては悪い気はしない。正直なところ小向と飲みに行くのは憂鬱であったが、誰かを喜ばせることができたという事実だけを見れば、私の自己肯定感を高めるには十分だった。たとえその誰かが小向であっても。

 私は満更でもない気持ちで、真弓さんに連絡を入れた。最初、仕事が終わりそうにないのでと打ったが、酒を飲んで帰ったらさすがに嘘がばれると思い正直に、飲んで帰るのでと打ち直した。

 真弓さんからは数分後に返信があり、たまには息抜きしてきてください、とのことだった。奇しくも息抜きというワードが小向の言葉と重なり、私は思わず文面を二度見した。

自分では気づかないだけで、実は私は息抜きが必要な状態なのかもしれない。昨夜母親が掻き回したトイレの匂いを思い出し、ため息とともに首を振った。

 

 どうしてこうなったと、私は天に問いたい。いや、一番問いたいのは目の前の男にだ。

「要するにねえ、清野先生は人見知りが過ぎるんですよ。誰でも彼でも愛想よくしろって言ってるんじゃありませんよ。でもねえ、せめて僕には笑った顔を見せてくれてもいいんじゃないですかねえ。せっかく同じ理学部で教えてるんですから。研究室も近いし、年も近いし。清野先生には気を許せる友達っていますか? きっといないでしょうねえ。清野先生はハンサムだけどちょっと冷たい感じがしますからねえ。達観しているというか、何でも本質をついてやるぞって目をしてる。いや、僕はいいと思いますよ。僕はいいんだけど周りがね。どう思うかですよねえ。清野先生だって嫌われたくはないですよねえ。だからね、何が言いたいのかっていうと、あれ、何でしたっけ。あはは、忘れちゃいました。まああれです、清野先生。仲良くやりましょうってことですよ。そんな豆食った鳩みたいな顔してると幸せが飛んでいきますよおお」

 小向の行きつけだという駅前の居酒屋に入って三十分。秒速で出来上がってしまった小向は日本酒のお猪口をぷらぷら揺らしながら、説教だか何だかよくわからない戯言を私に向かって延々と垂れている。個室なのをいいことに、小向の声は三段跳びのごとく大きさを増していく。

 注文しただし巻き卵やエイヒレの炙り、たこわさなどに秩序なく箸をつけ散々に食い散らかす小向は、口に物を入れながらも喋るのをやめない。奴の唾がふんだんにかかった料理には手をつける気にならない。私は小向に箸でつつかれているたこわさを見つめながら、来るんじゃなかったと深く後悔した。

 これでは息抜きになるはずもない。こうしている間にも小向の声は叫んでいるかのように大きくなる一方で、私は個室とはいえ周りの客に迷惑ではないかと気が気ではなかった。やはりこの男と飲んでもろくなことにはならないと確信した夜だった。

 一時間経っても、小向は私を解放してくれなかった。

「僕の時計ではあと十分ですねえ」

 などと寝ぼけたことを言い、私はふつふつと業を煮やした。

 店に来てから二時間が過ぎた頃、ついに小向が潰れた。テーブルに突っ伏したままいびきをかいている。絵に描いたような酔い方をする奴だ。このまま放置して帰りたいと思ったが、そういうわけにもいかない。タクシーを呼び、運転手に手伝ってもらって小向を後ろの座席に押し込む。

「清野せんせええ、楽しかったですねええ。また行きましょおおねええ」

 呂律が回っていない口調で小向は呑気に手を振った。手がタクシーの天井にぶつかっているがお構いなしだ。ドンドンと突き上げながら気が狂ったように手を振っている。

 タクシーが発車して、眩しい街の明かりの中に消えていく。まるで嵐のようだった。私は急いでスマホを見た。時間を大幅に過ぎてしまったため真弓さんから電話やラインが入っているかと思ったが、通知は一件もなかった。気を利かせてくれたのだろうか。申し訳なく思い、私は地下鉄乗り場まで走った。冷たい風が私の頬を切るように吹きつけてくる。いっそ微塵切りにでもしれくれ、跡形も残らないほどに。

 

 家に着いたのは二十一時過ぎだった。玄関のドアを開けると、リビングから明かりが漏れていた。急いで靴を脱ぎ、中へ入る。

「真弓さん、すみません。遅くなってしまって」

 真弓さんは食卓に座って文庫本を読んでいた。私の顔を見ると唇に人差し指を当て、

「しぃ。みーさんもう寝てるんですよ」

 と小声で言った。和室に目をやると、襖が閉まっていた。

「みーさん、今日はご飯よく食べてましたよ。ぶり大根、お好きなんですね。学さんの分もあるから、明日の朝にでも食べてくださいね」

「ありがとうございます。遅くなって、本当に申し訳ありません」

「いいんですよ。たまには羽を伸ばしてください。それで、今日は楽しく飲めましたか?」

 真弓さんは柔らかい笑顔で訊ねてくる。散々だったとは言えず、私は曖昧にええまあ、と答えた。

 真弓さんを玄関先まで見送り、再びリビングに戻ってようやく一息ついた。コンロの上には赤い鍋が置いてある。蓋を開け中を覗くと、出汁のきいたぶり大根の匂いがほわりと香った。

 そう言えば、小向が箸で料理をつつき回していたせいで、ほとんど何も食べられなかった。腹に手を当ててみれば、ぐうと小さく鳴った。

 ぶりと大根を二切れずつ深皿に盛り、おたまで汁を入れてレンジにかけた。戸棚にしまってあった日本酒の瓶を取り出し、一人で晩酌をする。

 ほろほろとしたぶりの身と味の染みた大根が、私のささくれた心を癒してくれた。母親は真弓さんの介添えのもと昼食や夕食を作っている。昔から日常的にやってきたことは体が覚えているのだろう。物事を忘れていくとは言え、体で覚えたことは考えるより先に動けるのかもしれない。母親は料理が上手だった。

 リビングの生き物たちは重なり合って私に尻を向け、ピサの斜塔のように傾いて眠ってる。夢でも見ているのだろうか。ぷひぃぷひぃと寝息を立てている。

この奇妙な同居人たちがいる生活にも大分慣れてきた。彼らは私にも母親にも真弓さんにも危害を加えることはない。ただ好き勝手に歩き回り、集まり、寝るだけだ。私たちを見守っているわけでもなく、今のところ何のご利益もないが、彼らがリビングの一角を陣取ってすやすやと眠る姿を見ると、不思議と穏やかな気持ちになる。普段特別に考えているわけでもないが、私はここにいていいのだと肯定されたような心持ちになる。

 不可解なリビングの生物たちを眺めながらの晩酌も悪くはないと思いながら、また一つ夜が深まっていった。

 

 

 今日はいつになく晴々しい気分で仕事を終えることができた。理由はわかっている。小向が休みだったからだ。昨夜の深酒が祟ったのか、体調不良で全休を取ったらしい。いい大人のくせして自己管理ができていないと思いつつも、私には好都合だった。

小向の仕事の進捗状況によって私の研究室に入り浸られると、私の仕事が遅々として進まずたまったものではない。しかし、今日は奴はおらず学生が訪問してくることもなかったため、溜まっていた雑務をこなし、長らく手つかずのままだった論文集を区切りのいいところまで読み、来週の講義のパワーポイントまで作成できた。気分がすこぶるいい。これで邪魔が入らなければ仕事が捗るのだということが証明された。私の能力不足や怠慢のせいではない。

 定時五分前から片付けを始め、時間きっかりに研究室を出た。外は雪が降っていた。見上げると、はらはらと舞う雪が私の頬に降りてくる。体温で溶け、つつ、と流れて顎の先からこぼれてゆく。底冷えするような夕暮れの寒さも手伝って、私の気分は最高潮に達していた。

 頬の雪を手の甲で拭っていると、

「せんせい」

 後ろで真っ平らな餅のような声がした。手紙の女だ。

「せんせい、ないているのですか。だいじょうぶですか」

 女は背伸びして私の顔を覗き込んできた。眉がハの字に垂れ、心配していますという顔つきになる。

「いや、顔についた雪を拭いていただけです。涙ではありません」

「そうですか。せんせいはかなしくないのですね」

「そうですね、今は別に」

 ほっとしたような顔を作り、女は踵を下ろした。

「それで、せんせい」

「何でしょう」

「おてがみよみましたか」

 来た。また感想を聞かれる。私は咄嗟に身構えた。内容はもう忘れたが、詩のようであったことはぼんやりと覚えている。カーテンがどうとかこうとか。

「読みました、けど」

「いかがでしたか。かんそうをききたいです」

 この女は予想を寸分も裏切らない。私は用意していた言葉を女に伝えた。

「素敵な詩だと思いますよ」

 微塵も思っていない言葉を口にするのは心苦しいものがあったが、正直に言うことだけが正義ではない。優しい嘘というものもこの世には存在するのだ。けれど、微笑みすら見せてやったというのに、女はひどく不満げな顔で、

「あれはしではありません」

 と言った。

「あれはしではなく、おてがみです。せんせいのためにかいた、おてがみなのです。ほんとうにちゃんとよんでくれたのですか」

 咎められるとは思ってもいなかった。読んだことには、読んだ。目を通しただけと言われればそれまでかもしれないが。内容を噛み砕こうとはしなかった。でも、手紙とはもっとわかりやすい言葉、伝わる言葉で綴ったものではないのか。あんな、解釈が必要な一方的なものではなく。

「読みましたよ。私には詩に思えたのですが、違ったのならすみません」

 ここは一応謝っておく。穏便に済ませるのが一番であることを、私は三七年間生きてきた経験から知っている。しかし、女は駄々をこねるように身を捩った。

「あやまってほしいわけではありません。わたしはただ、せんせいにおてがみをちゃんとよんでほしいだけです」

「ですから……」

「もうらちがあきません。せんせい、わたしとおちゃをしましょう」

 突然の提案に私は思わず、はあ? と言ってしまった。埒が明かないからお茶? どういう思考回路をしているのか、本気で女の頭を開けて覗いてみたいと思った。

「いちじかんだけでいいです。このちかくのかふぇにいって、わたしとおはなししてください」

 一時間だけ。どこかで聞いた台詞だ。こういうときの時間設定は大抵その通りにいかないということも、私は経験上知っている。

「すみません、これから帰宅して母親の世話をしなければいけないので」

 私は丁重に断った。昨日の今日で、また真弓さんに迷惑をかけるわけにもいかない。こう言えば、良識のある人間ならば引き下がってくれるだろう。小向は丸裸で敵陣に乗り込んで来たが、この女は奴よりは遠慮というものがわかっている気がした。

「おかあさんのせわ、ですか」

「はい、私の帰りを待っているので」

 ヘルパーがいることは言わないでおく。女は小難しそうな顔をして考え込んだ。その隙に私は踵を返し、それでは、と言った。

「せんせい、まってください」

 女が私の正面に回り込む。

「わたしもいきます」

「えっ」

「せんせいのおかあさんにごあいさつしたいです」

「いや、それは……」

 この女は何を言っているのだろう。私はわけがわからなくなってきた。お茶に誘われ、断ったら母親に挨拶したいと言う。この子の目的は何だ。

「悪いけど、それはできません」

「どうしてですか」

「どうしてって」

「せんせいにいつもおせわになっているみとして、あいさつしておきたいだけです」

「気持ちだけもらっておきますよ」

「なんですか、それ。わたしはせんせいのおかあさんにあいさつをしたいといっているのに、どうしてせんせいがわたしのきもちをもらうのですか。こどもにあげたおとしだまをははおやがとりあえずあずかっておく、みたいなことですか」

「ちょっと意味が……」

「わたしはせんせいとおちゃしたいんです。でもせんせいがことわるから、おかあさんにあいさつするのでもいいっていっているんです。それもことわるのですか。せんせいはあいてのようぼうをことわるとき、だいたいあんもていじせずに、むげにことわるだけなのですか」

「代替案……」

 女の言っていることは概ね正しいと思う自分と、いやいや根本からしておかしいだろうと思う自分がせめぎ合っていた。私より一回り以上も年下の女に言い返せないとは、何とも恥ずかしいことだ。だが、くねくねとした柔軟な植物のような女の論理を破れるだけの技量を私は持ち合わせていない。何か鋭いことを言ってやりたいが、私の唇はぱくぱくと空動きするだけで反論することはできなかった。

「わかりました。お茶しましょう。少しだけなら」

 仕方がなく折れることにする。真弓さんに連絡を入れようとスマホを取り出す。女の顔を見ると、要望が通った安堵と第二の要望が通らなかった不満が織り混ざったような複雑な顔をしていた。要望が通って当然という一匙の傲慢も垣間見え、私は釈然としない気持ちになった。

 真弓さんからは、了解です、とだけ返信が来た。すみません、ともう一度謝り、私と女は駅前のカフェへと歩き出した。

 女はさっきまでの勢いはどこへやら、私の隣を思い詰めた様子でちんまりと歩いている。私は話しかけるべきかそっとしておくべきか悩んだ末、そっとしておくほうを選んだ。無言で学生と一緒にカフェに向かって歩くというのは、これから洗礼でも受けに行くような神妙な心持ちになる。

 気づけば雪が降っていた。女のつむじに雪の粒がついている。女のコートのフードを縁どるファーにも雪が積もっていく。私はこのまま雪に埋もれてしまいたいと思った。輪郭を残さないくらい真っ白に埋め尽くして、一生春が来なければいいと思った。

春は嫌いだ。花粉症だからというわけではない。夏はもっと嫌いだ。薄着でいるというのがどうも苦手だった。秋はまだましだ。冬の匂いを連れてくるから。

 終始一言も喋らないままカフェに着いた。駅前にカフェはいくつもあるが、女はメジャーなコーヒーチェーン店の前で立ち止まった。

「ここでいいですか」

 女が言った。久方ぶりに女の声を聞いた気がした。ほんの十数分前に聞いたばかりだというのに。私は頷いた。

 先に注文するシステムで、私はホットコーヒー、女はなんたらフラペなんたらという長い名前の毒々しいほど甘そうな飲み物を頼んだ。窓側の席に向かい合って座る。

「せんせいはこーひーがおすきなんですね」

 女は太いストローでなんたらをかき混ぜながらそう言った。別に好きではないがメニューが見づらくて一番無難な飲み物を注文しただけ、とは言わなかった。まあ、と曖昧に答えておく。

「君のは随分甘そうですね」

「みさとです」

「え?」

「みっつの、むずかしいほうのさととかいて、みさとです。わたしのなまえ」

「あ、ああ、三郷さん」

「そしてこれはとーすてっどほわいとちょこれーとふらぺちーのです」

「とーす……」

「とーすてっどほわいとちょこれーとふらぺちーの」

 恐らくカタカナなのだろうが、女の平べったい言い方では気味の悪い呪文のようにしか聞こえない。女は口をすぼめ、ちゅるちゅると音を立てながらとーすを飲んでいる。

 女はここに来ても何も始めようとしない。女に噛まれて楕円形になったストローの先に目をやり、私はうっかり承諾してしまったことを後悔し始めていた。

 ペーパーカップの小さな飲み口からコーヒーをずず、と啜る。やはりインスタントコーヒーとの味の違いがわからない。多少香りはいいのかもしれない。わかるのはそれだけだ。

「せんしゅうのこうぎ」

 ストローから唇を離し、女が呟いた。講義と聞いて何か質問があるのかと思い、私は身を乗り出した。

「とてもおもしろかったです。せんせいのこえはやっぱりわたしのこころにしみわたります」

「声?」

「はい。せいぶつとむせいぶつのちがいについてのこうぎでしたが、こえはどちらにぶんるいされるのでしょうか」

 質問は質問だが、思いもよらない内容だった。声は生物か無生物か、そんなこと考えたこともなかった。答えに困って口をつぐむ。

「せんせい、わたしはこえはいきているとおもうんです。せんせいのこえは、わたしのむねのなかでどんどんぞうしょくしていきます。からだのなかでえねるぎーをうみだしているし、これってせいぶつのじょうけんにあてはまりますよね」

「確かに生物の増殖方法、代謝という観点からすれば、ある意味当てはまっているとも言えますが。でも細かく見ていったときに、それは有性生殖なのか無性生殖なのか、生命活動をしていると言えるのか、という問題が出てきますよね。そもそも声とは空気の振動でしょう。音、ですよね。肉眼では見えないという点では細菌類と似ているかもれませんが、これを一口に生物と言うことが果たしてできるのか」

「せんせいはせいぶつがくしゃさんだから、こえはせいぶつではないというんですね。わたしはじつはぶんがくぶなんです。このせかいのものごとすべてをろまんちっくにとらえてみたいとおもってぶんがくぶをせんたくしました」

「では何故理学部の私の講義を?」

「せいぶつって、ろまんちっくだなっておもうんです。せいぶつとむせいぶつのあいだにはけっていてきなちがいがあるようで、そのじつ、ひどくあいまいなものだとおもうんです。ふたつのあいだにはあいいれないていぎがある。でも、どうしてもとどかないほしみたいなひかり、おりひめとひこぼしのようにおたがいをつよくもとめているようにかんじます。ほんのひとつのさでせいぶつがむせいぶつに、むせいぶつがせいぶつにひっくりかえることもあるんじゃないかと。てをのばして、おたがいつなぎとめているのだとおもうんです」

「それは素敵な考えですね。私には文学の素養がないので、三郷さんの言うようにロマンチックに考えることはできませんが、自分なりの解釈で専門分野以外の学問にも興味を持つことは素晴らしいことだと思います」

「ありがとうございます。せんせいにそういっていただけるととてもうれしいです。せんせい、もっとぎろんをしましょうよ。わたし、せんせいのこうぎがほんとうにおもしろくてすきなんです。ぶんがくちっくなしこうのわたしと、りけいのあたまのせんせいとでぎろんをしたら、ぜったいたのしいとおもいます」

 

 実際、女との議論は興味深いものだった。斜め上から繰り出されるロマンチックを根底にした女の見解は、私の探究心を大いに刺激した。触れたことのない柔軟な考え方に、私は感心していた。学問の垣根を越え、二つ、いやそれ以上の分野に関連を持たせることのできる思考は、研究者にはもってこいの素質だ。私は既に女を同志として見ていた。こんなにも心が震える会話をしたのは、誰と、いつぶりのことだったろうか。

 私は女のことを見直していた。勝手に奇妙な女だと決めつけてしまっていたことを恥じた。見直すというのも私の傲慢であるかもしれない。女は最初から聡明で、手紙を渡してくるという解せない行動もあるが、それは恐らく常識にとらわれない感覚を持っているがゆえの行為なのだろう。私の狭い固定概念の柵を、女は思い切りひん曲げた。柵の外に出た私は、これほどまでに爽快に呼吸ができるものなのかと驚き、感動した。

 ゆうに三時間が過ぎていた。途中から時計を気にすることも惜しくなり、夢中で女との議論に花を咲かせた。女の新鮮な思考を目の当たりにするたび、私は脈々と研究意欲が湧くのを感じた。

 女がトイレに立って初めて、私はスマホに何件もラインが来ていることに気づいた。すべて真弓さんからだ。文面から彼女の感情は読み取れないが、何件も送ってくるということは相当ご立腹なのだろう。昨日に続き、今日までも迷惑をかけてしまった。

 女がトイレから戻って来た。私は椅子から立ち上がって、

「さすがにもう帰りましょう。あまり遅くなると三郷さんも危ないので」

 と言った。

「そうですね」

 女は素直に頷いて、二人で店を出た。

 地下鉄の入り口まで来ると、それまで黙っていた女は急にもじもじとし始めた。

「それじゃあ、気をつけて」

 軽く手を上げたところ、その手をいきなり掴まれた。驚いて身を固くすると、

「せんせい、たのしかった。ほんとうにたのしかったです。わたし、このたのしさをわすれたくありません。もっとかんじていたい。せんせい、わたしのへやにきませんか。ひとりぐらしなので、だれもいないです。せんせいともっといろんなはなしをしたいです。いろんなことをしたいです」

 眉はハの字に、瞳をたっぷりと潤ませながら女は言った。私の右手を両手でぎゅっと包み込む。

 言葉を無くしていると、女はさらに畳みかけるように、

「せんせいと、ひとつになりたいです」

 と唇を震わせた。喉の奥から何かがせり上がってきた。体の芯がきゅうう、と固くなり、口の中に唾液が溜まる。

「せんせい……」

 女の艶やかな眼差しが痛い。私は堪らず目をそらした。

「すみません、家には行けません。もう遅いので、私はこれで」

 そう言うのがやっとだった。私は女を見ず、握られた手を振り払って地下鉄乗り場へ続く階段を駆け降りた。途中足を踏み外しそうになるもなんとかこらえて、ちょうどやって来た電車に飛び乗った。

 失礼な去り方だったかもしれない、と後になって悔やんだ。仮にも学生、教え子に対して取る態度ではなかった。女経験の乏しさが露呈してしまった。私は電車の中だというのに、ああ、と声を出して顔を押さえた。なんたる失態。これから先、どんなふうに彼女と接すればいいのか。

 ポケットの中で、再びスマホが震えた。真弓さんからだ。

 学さん、今どちらですか。心配しています。

 私はのろのろと画面をタップして返信した。

 遅くなってすみません、今地下鉄です。あと十五分程で家に着きます。

 正直、女の家に行ってみたい気持ちはあった。恋愛感情では決してないが、女と体を重ねてみたい衝動もないわけではなかった。しかし、それは自身の破滅につながってしまう。職を失うかもしれないという恐れが咄嗟によぎり、次いで何故か母親の顔が浮かんだ。

私は自分がわからなくなった。真っ暗な地下鉄に乗っていることと相俟って、どこへ向かっているのだろうという不安が私を襲った。答えの出ない問いを自分に課すのは得意であるはずだが、今日ばかりは気が滅入った。ドアに体を預け、体の奥底の泥濘から出たような深いため息をついた。

 

 

 藻屑になる夢を見た。最初、私の足に藻屑が絡まっているのかと思ったが、振り落とそうとしても足に力が入らない。よく見ると足が藻屑になっていた。

 次いで、左腕も藻屑になった。右手の指先が戯れ合うようにゆっくり藻屑になっていく。全身が藻屑となり、顔だけが最後に残った。それも侵食されるように顎の先から藻屑になっていき、ついにはただの藻屑の塊となったところで目が覚めた。

 何故こんな夢を、と思うも夢は大抵現実の物差しでは測れない巨大な矛盾の集まりなので、気にするだけ時間の無駄だ。ベッドから起き上がる。

 昨日は家に帰ってから真弓さんに怒られた。自分の帰りが遅くなるから、とか時間外労働について責めるのではなく、彼女が怒ったのは母親が不安そうにしていたことだった。

「わたしは別にいいんです。でも、みーさんが学さんの帰りが遅いことをすごく心配してて、落ち着かなくて部屋中うろうろしていたんです。たまには息抜きも必要だと思います。けど、みーさんのことも考えてあげてください」

 そう言われてはっとなった。私はここ最近、あまりにも真弓さんに母親のことを任せすぎていた。清野美春は誰の母親なのか。私の、だろう。本来ならば私が看るべきなのだ。雇い主とは言え、真弓さんに負担をかけすぎてはいけない。

 顔を洗い、仕事着に着替える。そろそろ真弓さんが来る頃だ。リビングへ行き、カーテンを開ける。襖を少し開き、母親の様子を確認する。まだ眠っている。

 仕事へ行く準備ができてしまった。真弓さんはまだ来ない。スマホを見るも、連絡はない。いつもなら既に交代している時間だ。ラインをしてみようか迷ったが、もう少しだけ待ってみることにした。

 時計の秒針を目で追い、一回りして長針がカチリと動くのをぼんやりと見つめた。五回ほど動いた頃、これでは仕事に遅刻してしまうと思い玄関へ向かった。靴を履きながら真弓さんにラインを打っていると、ドアの向こうがにわかにざわざわし始めた。彼女が到着したようだ。

 彼女を迎え入れるためドアを開けようとすると、

「だから言ってるでしょう、もう少しよ、もう少し」

 と彼女の声がした。誰か一緒にいるのかと訝しんだが、喋っているのは彼女一人だ。どうやら電話をしているらしい。

「昨日遺言状の話をしておいたから。まあ忘れてると思うけど、今日もう一回してみるつもり。その場で書いてもらってもいいしね」

 声は途切れ途切れだがどうにか聞こえる。しかし、内容がまったく掴めない。遺言状という単語が聞こえて、彼女の親族や近しい人に死にそうな人がいるのだろうかと想像する。

「そうよ、認知症なの。わたしのことをすごく慕ってくれているから、多分ね。保険金、結構かけてるみたいなの。そのままだと息子にまるまる入るけど、遺言状があれば別でしょ。全額とは言わないわ。でも半分くらいはもらう権利あるんじゃないかって思うのよ。だって週五日、ほとんどわたしが面倒を見てるのよ。給料? うーん、結構もらってるほうだと思うけど、でも、労力からすれば全然見合ってない。介護ってすごく大変なのよ。あなたにはわからないかもしれないけど。え、息子? 大学の教員をやってる。金取りいいんだから、親の遺産なんてそんなにいらないでしょ。いい年して独身よ。顔は結構いいのに、雰囲気が暗いもの。あれじゃあ女は寄りつかないわ」

 真弓さんはまだ喋り続けている。いや、ドアの向こうにいるのは本当に真弓さんなのだろうか。信じたくなかった。

 カチカチカチ、という音がして手元を見ると、爪がドアノブに当たっていた。小刻みに、何度も。手が震えているのだと気づくのに時間がかかった。

 間違っている。こんな現実など霧散してしまえ。目をきつく瞑り、頭を振った。しかし、ドアの外で小声ながらも下品に笑う女は、間違いなく真弓さんなのであった。

 今まで懸命に母親の世話をしてくれていたのは、母親の遺産をもらうためだったのか。そう思うと、やるせなさが足元から全身を駆け抜けていった。

 真弓さんの会話はもうすぐ終わりそうだ。今にチャイムが鳴り、飄々とした顔で彼女は私に挨拶をするのだろう。私はどんな顔をすればいい。お世話になります、お願いします、ありがとうございます、行ってきます。そう言って、家を出ればいいのか。彼女は今日、母親に遺言状を書かせようとしているのに?

 遺産なんて、正直どうでもよかった。真弓さんが望むのなら、全額彼女にあげてもいい。ただ私は彼女との間に築いてきた信頼関係が、例えそれが雇用関係であっても、選ばれた者同士にしか結べない固い糸が、ほつれてほどけていくことが悲しかった。母親のことをみーさんと呼び、熱心に語りかけ笑顔で接し、汚れ仕事も厭わないでやってくれたそれらの行為が、真心などではなく下心であったことが虚しかった。

 私の母親を、金の成る肉の塊だと思っているのだろうか。どうしてもそんな考えが頭から離れない。いや、彼女が今までしてくれたことは下心あってのことだったかもしれないが、仕事は丁寧にこなしてくれたし、母親も彼女を気に入っていたではないか。裏切りだと思う前に、彼女が私たち親子に与えてくれたものを思い返せ。

 チャイムが鳴った。出なくてはいけない。仕事にも遅刻してしまう。けれど、足が動かなかった。もう一度チャイムが鳴る。踏み出せない。

 ガチャ、とドアが開き、真弓さんが顔を出した。清々しいまでにいつもの朗らかな表情だった。しかし、私の姿を見て目を見開く。

「学さん、どうしたんですか、大丈夫ですか」

 彼女はバッグからハンカチを取り出して私の目元に当てがった。私は泣いていた。涙は製氷器のように次から次へとこぼれ落ちる。私が受け取らないので、真弓さんは不思議そうな顔をしてハンカチを引っ込めた。

 私はその場にしゃがみ込んだ。顔を覆い、ぼろぼろと涙を流し続けた。

「もうどうしたんですか、学さん」

 真弓さんが背中をさすってくれる。服の上からでも彼女の手の温もりが伝わってきた。

 胸が千切れそうなほど痛かった。昔、友達との喧嘩に負けて泣きながら帰って来たとき、母親が背中をさすってくれたことを思い出した。

「学は弱くない、優しいんだよ」

 私はそうか、と思った。真弓さんが母親の遺産目当てで今まで親切にしていたこと、母親に遺言状を書かせようとしていること、信頼関係が壊れてしまったこと、私のことを悪く言っていたこと。それらが悲しいのではない。私が一番悲しくて虚しくて悔しいのは、母親が彼女のことを慕っていることだ。何も知らないで無邪気に真弓さん、真弓さんと彼女の後をついて歩く姿が、不憫でならなかった。彼女が来たら目を輝かせ、信頼しきっている姿が哀れだった。

 私は顔を上げ、真弓さんに向かって嗚咽混じりに言った。

「母を、よろしくお願い、します」

 彼女は一瞬怯んだような顔になり、けれどすぐに笑顔を作って、

「もちろんです」

 と言った。私はようやく立ち上がり、よろめきながら家を出た。走ったところで、仕事には完全に遅刻だった。

 空は晴れていた。空気は冷たいが、刺すほどではなかった。そのことがいっそう私の胸を苦しくさせた。

 

 

 今朝のことが頭の大半を占めていて、講義中だというのにため息が出てしまったり、意識が別のところへ行ってしまったりした。さらにプリントを配るのを忘れていたり、パワーポイントを一枚飛ばして進行していたりと、注意力散漫もいいところだった。

 教室に入って気がついたのだが、今日は女が私の講義を受ける日だった。昨日あんな去り方をしてしまっただけに気まずかった。一方の女は相変わらずぬいぐるみにしか見えないペンケースを机の右側に置き、左側にコーヒーカップを置いてじっと私を見つめている。いつも通りの女の様子に少し安堵する。

 やっとの思いで進めていた講義も中盤に差しかかり、一方的に話すのも辛くなってきたので学生に質問させることにした。

「何か質問はありませんか」

 誰も手を挙げなくとも、今日は目についた学生にでもこちらから当ててやろうと思っていた。

 案の定、誰も手を挙げない。教室をぐるりと見渡してみても、皆白々しく目をそらす。ならば、と一番後ろの席に座る茶色いパーカーを着た男子学生に当てようとしたところで、す、と視界の端に手が現れた。見ると、一番前に座る女が腕を耳の横につけまっすぐに手を挙げていた。

 よりにもよって、と身構えたが当てないわけにもいかない。

「じゃあ、そこの君」

「きみ、ではありません。みさとです。きのうおしえましたよね」

 椅子から立ち上がった女は、不満げな口調でそう言った。昨日教えたという言い方に心臓が跳ね上がったが、さほど不審な意味ではないかと考え直した。学生が教員に名乗ることは別におかしくも何ともない。

「ああ、三郷さん。それで、質問は」

「きょうのてーまは、ういるすはせいぶつかむせいぶつか、というはなしでしたよね。わたしはういるすはせいぶつであるとおもいます。というか、このよにそんざいするぶっしつはすべてせいぶつであるとおもっています。せんせいのおかんがえをききたいです」

「ウイルスが生物か無生物かという問いの答えは、科学者によって異なります。ある意味では、ウイルスは増殖して子孫に遺伝情報を受け継いでいるとも言えます。これは生物の条件に当てはまりますね。しかし、構造、遺伝情報、増殖方法、代謝という定義の上でウイルスは当てはまらない部分が多い。例えば、生物は代謝を行いエネルギーを生産しますが、ウイルスは一切代謝を行わないのです。理由はこれだけではありませんが、私はウイルスは無生物派です。あと、三郷さんはこの世に存在する物質はすべて生物だと思うとのことですが、それは少し無理があるように思います。考えとしては面白いのですが、例えばこのポールペン。これは生物ですか。これは代謝を行いますか、増殖する能力がありますか。答えはノーです」

「でも、たとえばせんせいがそのぼーるぺんをわたしにくれたとします。わたしのなかでぼーるぺんはせいめいをえます。わたしというばいたいがあってのことかもしれませんが、ぼーるぺんはいきいきとかつどうをはじめます。わたしにいきるえねるぎーをあたえてくれます。それはまぎれもないじじつです。せんせいであっても、それはちがう、うそだ、まちがっているということはできません」

 女はただでさえ大きな目を見開いて、鼻息荒くそう言った。間違っていると言うことはできない、と言われてしまえば、私は反論することが難しくなる。そうですね、と肯定しようにも、何に対するそうですねなのか私にもわからない。

 考え込むふりをして思考を整理していると、女がまた口を開いた。

「せんせいはきのう、わたしのことをすてきだといいました。わたしもせんせいにおなじことをおもっています。わたしのことを、すばらしいともいいました。これらのことからかんがえるに、せんせいはわたしのことがすきなのですよね。こういをいだくあいてのことは、すてきにみえますよね。せいぶつはほんのうてきにしそんをのこすことをせんたくするんですよね。よりいいあいてとひとつになって、よりいいしそんをのこす。これがせいぶつのほんのうなんですよね。せんせいはどうしてきのう、わたしをこばんだのですか。わたしはじゅんびはできていたのに。せんせいにほんのうはそなわっていないのですか。せんせいはしそんをのこしたくないのですか。それならせんせいはせいぶつではないのですか」

 言いたいことがたくさんあるのに、何一つ言葉にはならない。私は水槽の中の間抜けな金魚のように口をぱくぱくと動かし、冷や汗が額からこめかみを通って流れ落ちていくのをただ感じていた。

 勘弁してくれ、と思った。けれど、同時にやはり女の見解は興味深いとも思っていた。こんなときに思うことではないのかもしれないが。

 教室内がざわめいている。女の爆弾のような発言に反応しているのか、教員として情けない私の姿を嘲笑っているのか。もうやめてほしかった。私はただのうだつの上がらない生物学者なのだ。耳を塞ぎたい、目を閉じてしまいたい、小さく丸まって学生たちの視線から逃れたい。

 螺旋階段を降りているような眩暈が私を襲った。数えきれないほどの目、眼、め。私を見るな。視界が歪む。倒れてしまったほうが楽なのかもしれない、と思ったそのとき。

 コンコン、と前の出入り口からノックの音が聞こえた。答える間もなくドアが開き、教務の女性職員が入って来た。

「清野先生、少しいいですか」

「ああ、はい」

 彼女の後をついて教室の外に出る。まだ視界がぐるぐると回っていた。

「清野先生、今病院から連絡がありまして、お母様が……」

 視界だけでなく聴覚も歪んでいるのだろうか。彼女の声がよく聞き取れない。何を言っているのか理解できない。耳鳴りがする。今、病院と言ったか。私のほうこそ連れて行ってくれ。視覚も聴覚も、涙腺までも、ずっとおかしいのだ。

心の中の自分の声がうるさくて、彼女の話の内容が頭に入ってこなかった。それでも私は頷き、教室に戻り、

「急用ができたので、今日の講義はここまでにします」

 と学生たちに告げた。誰の顔も見なかった。

 

「学、あなたは優しい子ね。賢くて、優しい。わたしの自慢の息子」

 病院へと急ぐ道すがら、幼い頃から幾度となく母親に言われ続けた言葉を思い出していた。他人に優しくした覚えはない。私は誰よりも優柔不断だっただけだ。母親は私の何を見て優しいと言っていたのだろうか。

 今ではもう私の名前すら呼ばない。私を見ながらどこの誰だかわからない人物の名前を口にする。

「人生は学びの場よ。どんな出来事からも自分なりの学びを見つけて、深めていってほしい。だからあなたは学。素敵な名前でしょう」

 そう言って微笑んで見せた母親は、今や遠い記憶の彼方だ。何故忘れる。自分でつけた名前ではなかったのか。思いを込めてたった一人の息子に贈った名前ではないのか。未婚のまま親となり、誰の手も借りずにたった一人で私を育て上げた。あんなにも愛情を注いでくれたではないか。それなのに何故、自慢の息子とまで言った私の名前を忘れるのだ。

 幸い、母親が運び込まれたのは同じ敷地内にある大学の附属病院だった。雪でぬかるんだ道を私は走った。足元で泥が跳ね、私の靴やスラックスの裾を汚す。気温が高く、空はからりと晴れていた。吹雪だったならどんなによかったか。前も見えないほど絶え間なく吹きつける雪風に私は心から安心することができただろうに。

 病院に着き、受付で事情を話すと、四階の病室を告げられた。エレベーターに乗り、四階を押す。間違って三階も押してしまった。連打するがランプは消えない。三階で停まり、扉が開く。焦ったいほど開閉が遅い。

 四階に到着し、扉が開ききる前に飛び出す。右肩が扉にぶつかった。じんと痛むも構わず病室へ向かう。

 四〇一と書かれたプレートの下に母親の名前があった。どうやら個室らしい。コン、とノックをしてドアを開ける。真っ先に、ベッドの脇に立つ真弓さんの後ろ姿が目に入った。彼女が振り返る。

「あ、学さん」

「真弓さん、母さんは」

 部屋に入ると、母親がベッドに寝ていた。頭には包帯が巻かれているが意識はあるようで、目を開き天井を見つめていた。

「わたしがちょっと目を離した隙にみーさん、外に出ちゃったんです。すぐに気づいて追いかけたんだけど、曲がり角のところで自転車が飛び出してきて。ぶつかりはしなかったんだけど、みーさん驚いたのか、避けたときに塀で頭を打っちゃって。そのまま倒れ込んだから、急いで救急車を呼んで病院に。大事には至らなかったんですけど」

 真弓さんは説明しながらぶるぶると震え出した。

「ごめんなさい、学さん。わたしの不注意でこんなことに……」

 唇を真っ青にして謝る彼女を責めることはできなかった。母親に目を移す。虚ろな目で天井の一点を眺めている。染みでもあるのかと思い目を向けてみたが、白が広がっているだけでそれらしきものは見当たらない。

「命に別状はないならよかった」

 私がそう言うと、真弓さんは泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す彼女に何と声をかければよいのかわからず、悩んだ末に、

「いつもありがとうございます」

 と言った。顔を上げた彼女は唇を震わせ、学さん、と呟いた。

 母親がゆっくりとこちらを向いた。真弓さんのほうをじっと見つめ、

「真弓さん」

 と痰が絡まった声で言った。

「みーさん、ごめんね。わたしのせいでこんな目に」

 涙声の真弓さんの言葉に、母親は首を振る。今度は私に目を向け、しばらく静止する。目が不自然に泳いでいる。母さん、と呼びかけようとした瞬間、

「どちらさんですか」

 まるで異物を吐き出すような声で母親は言った。記憶をたぐるように目を細めたり見開いたりしている。隣で真弓さんが息を飲む気配がした。

「母さん……」

 弱々しい声が出た。母親は眉間に皺を寄せ首を捻る。

「母さん? わたしに子供なんていないですけど」

 白い闇が降りてくるようだった。母親の顔が白く弾けた。視界が狭まり、呼吸が重くなる。

「みーさん、何言ってるの、学さんですよ。あなたの息子さんじゃないの」

「裕之さんとわたしの間には息子はいないわ。だって付き合ってもいないもの」

 母親と真弓さんが何か話している。けれど、耳の穴にはんぺんが挟まっているように、ぶわぶわとした音にしか聞こえなかった。私はベッドから一歩後ずさった。

「学さん……」

 真弓さんが私の名前を呼んだ。それすらもはっきりとは聞こえなかったが、音の長さと雰囲気と状況的にそう判断した。何と答えればいいのだろう。名前を呼ばれただけでは私はどうしようもない。具体的な言葉を言ってほしかった。

 私は急速にここにいる理由がわからなくなってきた。真弓さんがもう一度、学さん、と呟いたが、それにも違和感を感じた。学、というのは私の名だったか。学、学くん、学さん、学、学、学。そんな名前がこの世には存在するのか、と不思議に思えてくる。学生の頃に何度も経験したゲシュタルト崩壊が、まさか自分の名で起こるとは。

 目の前の母親の、いや、母親と思しき老婆の顔が霞んでいた。この老婆には息子はいないらしい。ならば私はどうしてここに突っ立っているのだろう。走って来た。靴もスラックスの裾も飛び跳ねた泥で汚れている。エレベーターに肩をぶつけた。もう痛みは引いたが、無意味に肩に手をやる。

 気づけば、帰ります、と言っていた。その言葉は私の唇の間からぽとりと転がり落ちた。真弓さんが何か言っているが聞こえない、聞きたくない。ふらふらと病室を出た。徐々に視界が開けてくる。

 冷静になると、医者からの説明を聞いたり必要があれば入院の手続きをしたりと、やるべき作業がたくさんあることに考えが及んだ。今すぐ病室へ戻らなければ。しかし、歩き出した足が止まらない。ナースステーションを横切り、奥の病棟まで行こうとする。ぬくもりを求めて彷徨う亡霊のようだと思い、可笑しくなる。だが、笑うと別のものまで溢れ出してしまいそうで、必死に抑えた。

 行き止まりまで来ると、引き返すしかなくなった。結局私は、意味もなく四階を往復しただけだった。四〇一の病室に戻る。帰りますと言った手前、再び部屋に入るのは気まずかった。

「あ、学さん。よかった、帰ってきた」

 真弓さんが駆け寄ってきて私の腕を掴んだ。

「これからお医者さんが来るって。学さんもちゃんと居てくださいね」

 はい、と頷いて彼女の顔を見ると、私のことをさも気の毒と思っているような表情をしていた。それもそうだ、私は母親に存在を忘れられた哀れな息子なのだ。だが、何故だろう。一方で、今までは気にならなかった彼女の笑い皺が妙に浮き出て見えた。その皺が深く刻まれるときは、これでさらに母親の遺産が手に入りやすくなったとほくそ笑むときか。そんな底意地の悪い考えが頭を掠め、両手を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。その痛みでしか正気を保てそうになかった。

 医者の話を聞き、今日は念のため入院してくださいと言われたので、手続きを済ませた。私のことを忘れてしまったみたいなんです、とは言えなかった。もともと名前は忘れていたことだとか、頭を打ったショックで混乱しているのだろうとか、勝手に理由を探して納得しようとした。これ以上他人に哀れみの目を向けられるのは耐え難いというある種の見栄もあった。

 病院を出て、真弓さんとも別れ、一人帰路についた。研究室にノートパソコンを忘れたことに気づいたが、取りには戻らなかった。どうせ家でも何も手につかないのだ。

 昼食を食べていなかったが、腹は減っていなかった。一刻も早く家に帰り、布団に潜りたい。みみっちい世界を断絶したかった。だが、布団一枚で断絶できるほど世界は単純ではなく、薄くもなく、軽くもない。そんなことはわかっている。つまり、私はただ逃げたいだけだった。

 唐突に思い出す。女から初めにもらった手紙を挿んだあのつまらない小説は、逃避行がテーマだった。ままならない現実に嫌気が差した主人公は、幼馴染の少女とともに富士の樹海まで逃避行する。もちろん、死ぬつもりで。ありきたりなテーマと急下降が多いストーリー展開がどうにも解せなかった。

 逃げることはつまらないことなのだ。けれど、立ち向かう勇気がないときは一体どうしたらいい。打ちのめされたとき、霞のように漂う逃避の誘惑には抗い難いものがある。現実を指先で弄ぶくらいのしたたかさが欲しい。

 家に着き、靴を脱ぐと同時に玄関に倒れ込んだ。体からげっそりするくらい大量に疲れが溢れ出た。どうにかリビングまで這って行った。ドアを開けると、何やら楽しげなざわめきが聞こえてきた。

 リビングの中央で、珍妙な生き物たちが宴を開いていた。まるで花見でもしているかのように円になって座り、見たこともない酒を飲んでいた。彼らの声は耳障りというほど大きくもなく、一滴の煩わしさを含んだだけの底抜けに愉快なものだった。私はドアの前であぐらをかき、彼らの宴を見守った。

 さっきまでの疲れが嘘のようだった。私の体から流れ出た疲れはそのまま消えてしまったらしく、へんてこな生き物たちを見れば見るほど浄化されていく心地がした。

 でしゃばらず、踏み込みすぎず。私と彼らの間には絶妙な距離感があった。彼らは自分たちのしたいように日々過ごしている。わざわざこんな日に宴を開くなんて、と思わないわけではないが、彼らのそんな気楽さが救いであることもまた確かだった。

 私はふと思いつき、電話機の横のメモ帳とペンを手に取った。この状況を書き記したくなったのだ。幸と不幸、生と死、生物と無生物。そのあわいで宴を開く幻の生き物たちがいとおしく思えたこの瞬間を永遠に保存するために。

 

 

 世は常、日頃は迷ってばかり。

 意味のある問いは歴史の彼方に眩ました。

 流行りの本を手に取るが内容が頭に入ってこない。

 論じる必要性は多すぎる。

 しかし何を求めて筆をとるのか忘れ果てた。

 幻の生き物たちが、今日もリビングで宴を開いていて危ない。

 叱られることには慣れ、自分の母親の顔もかすむ始末。

 どこに着地したらよいのかわからず、飛び方すらも覚えていない。

 幻の生き物たちが今や生活を共にする家族。

 わかち合うことはできないが、干渉もしてこないちょうどよい距離感。

 人のことなど話すに事足りない。

 なんてことはない夕日に、今日も何も浮かばなかった。

 

 

 ペンを置いて、書き終えた文章を眺める。これは詩ではない。歌詞でもなければ、小説の一節でもない。ただの文字の羅列だ。状況や感情を乗せた、拙いニホンゴ。

 書いて満足した私はメモ帳からそれを破り取り、丸めてごみ箱に捨てた。夕日と書いたが、実際はまだ陽は高かった。レースのカーテン越しに柔らかな陽が差し込んでいた。ありもしない生き物たちが高らかにげっぷをした。

ネージュ・ララマンの鮮血

ネージュ・ララマン様

 

 光の血というものを見たことがありますか。

 光はあれです、光がまぶしいとかの光です。

光の血というのは、赤い光のことじゃありません。ぽっかり空いたきず口から、真っ赤ですきとおった血が流れてくるんです。

光の血は人間が転んだときみたいにじわりじわりとにじんでくるんじゃなくて、台風みたいないきおいで周りもたくさんまきこんであふれていきます。

 でも、バターをとかしたような甘いにおいがするのでぼくは光の血を見るとうれしくなります。

どこにも行くところがなくて、血管にうっかりつまってしまう血のかたまりは不幸です。出して、出してよと毎ばん泣いているのが、ぼくには聞こえてきます。その泣き声はあまりにもあざやかで、ぼくは耳が黄色にそまっていくのを感じます。

 こんな話は、たいくつですか。

 ぼくはふだん手紙を書かないから、何を書いていいのかわからないんです。

 クラスの女の子たちはみんな手紙を送り合うのが好きみたいだけど、ぼくはちょっと苦手です。だって、手紙って思ったことや感じたことを書くんでしょ?

 ぼくはとても多くのことを思って感じているから、便せんが文字で真っ黒になっちゃうよ。

 思ったことや感じたことはぼくがえんぴつを動かすよりも速く進んで行ってしまうから、やっと追いついてもすぐに遠くへ行ってしまいます。

 ネージュ・ララマンは何を思っていますか。いつも何を見て、何を考えて、だれに会いたくて、何を食べていますか。

 ぼくの知らないところでのあなたのことが知りたいです。

 

                                 久遠雪日

 

 

 昔の手紙が出てきた。

 とうに色褪せたと思っていたまばらな記憶が、針に糸を通すような速さで蘇ってきた。

 渡せなかった手紙だ。

 宛名に書いてあるロックスターみたいな名前の彼は、僕の唯一の友達だった。

 光の血というのも、本当に見たことがあった。今でもときどき見る。僕はここに書いてあるように、多くのことを思い、感じ、考えて生きている。けれど、それは多分他の奴らも同じで、僕とどこが違うのかと聞かれてもきっと答えられない。

母さんは僕に、「雪日はみんなと同じ、そう思っていればすべてうまくいくのよ」と言った。実際にその言葉を呪文のように唱えていれば、教室中に張り巡らされた銀色の硬い糸は気にならなくなったし、給食のカレーの中で子豚がか細く鳴いているのも見なかったことにできた。僕は目を閉じるのが上手な子供になった。

 僕はしばらく、机の引き出しの奥から出てきた手紙を見つめた。小学生の頃の僕の字は右肩下がりで、お皿に最後まで残ったパスタのようにくねくねとひん曲がっていた。右肩下がりに書く癖は今も変わっていない。

 ネージュ・ララマンという友達をなくしたとき、僕はどんなことを思ったのか思い出せない。何も思わなかったわけはないのに、彼の姿形のままそこだけパネルが外されたみたいに、僕の感情ごと抜き取られていた。

 彼が僕にしてくれたこと、与えてくれたもの、それらは既に曖昧で僕の中には排気ガスのように切ない匂いしか残していなかった。僕はその残り香を吸うことでしか彼を思い出すことができなかった。

 手紙を封筒にしまい、机の上に置いた。部屋の片付けは一向に進まない。手紙は捨てようかどうか迷ったが、一生訪れることのないだろうたった一つの機会に対する期待が抑えられなくて、結局向こうへ送るダンボールの隙間にそっと入れた。

 一階のリビングから母さんの呼ぶ声がする。そろそろ引っ越し屋が来る頃なのに、僕の六畳の部屋には本や服や雑貨類が無秩序に散らばっていた。全ての荷物を持っていくわけではないから、仕分けをしなければならない。僕の苦手な作業だ。持って行く物たちの喜びに満ちた声や、置いていく物たちの寂しげに啜り泣く声が聞こえていちいち心を揺さぶられるからだ。

彼らは手に取ると自分の魅力をアピールするようにオレンジの光を煌々と放つ。置いていくと決めて手放そうとすると途端泥のように重くなり、濁った目で睨んでくる。感じないように目を閉じても、今度は匂いで訴えてくるので切りがない。

 家を出て行く選択なんてしなければよかった、と淡い後悔がよぎる。片付けが終わらなくて弱気になっているだけなのかもしれない。これは僕が望んだことだ。住み慣れた、でもどこか息苦しかった実家を出て、新しい土地に住み着くことを僕は切望していた。

 僕はもう一度、ネージュ・ララマンのことを考えた。水槽の中を泳ぐ魚のように、記憶の中の彼と目が合いそうで合わない。ぼんやりと霞んだ視界は、彼を今にも消し去りそうだった。

 リビングから母さんの声がする。引っ越し屋が到着したようだ。僕は床に散乱した物たちを掻き集め、いっしょくたにダンボールに詰め込んだ。こうなったらすべて持って行くしかない。すでに仕分け済みの置いていく物たちが、恨めしそうな目で僕を見てくる。

「ごめんな」

 と呟いて、僕はダンボールを抱え部屋を出た。

「北海道までで間違いないですね」

 引っ越し屋のお兄さんがメモを見ながら僕に訊ねた。その地名を聞いた瞬間、母さんがかすかに眉をひそめた。

「はい、お願いします」

 僕は頷いた。

 お兄さんの周りを白い羽が飛んでいた。ゆらゆらと漂う羽は彼の右肩に降り立ち、雪が溶けるように消えた。彼の体温が熱かったのだろう。僕がじっと見ていることを、彼は気づいていない。

 振り返ると母さんが僕を見ていた。うっすら寄った眉根に、僕は咄嗟に心の中で呪文を唱えた。僕はみんなと同じ、僕は普通。何も見えないし、何も感じない。普通の人間と何も変わらない、同じ同じ同じ。

 けれど僕は、呪文を唱えながら同時に思い出していた。遠い昔、しんと降り敷く雪の中、幼い僕が聞いた言葉。

「君は、宝石の目、を持ってい、るんだね」

 それはネージュ・ララマンが僕にくれた宝物みたいな言葉だった。

 僕はここにいては息ができない。僕は深海魚じゃないから、空気のないところでは生きられないんだ。ネージュ・ララマン、君は僕の友達だった。あの場所へ行けば、思い出せる気がする。君に会える気がする。

 引っ越し屋のお兄さんたちが去って身軽になった僕は、最低限の荷物を詰めたリュックを背負って玄関に立った。母さんが僕のコートの襟を直して、

「いい? 雪日。あなたはどこに行っても普通なの。みんなと同じ、どこも変わったところなんてない。それを忘れないで」

 と言った。

「わかってるよ、母さん」

 僕は微笑んで見せた。

「何も北海道になんてしなくたって……」

 母さんは僕が実家から離れることをまだ根に持っている。大学受験のときも散々言われた言葉を、この期に及んでまだ呟いている。

母さんの顔は三重にぶれていた。はっきりとした陰影をつけて、三重の母さんの顔は少しずつ表情が違っていた。

「じゃあ、行ってくる」

 僕は軽く手を上げて玄関のドアを開けた。閉まる瞬間の母さんの顔は見なかった。

 一歩外へ出ると、僕の両肩を掴んでいた重苦しい歪は爪痕を残すことなくごとりと落ちた。僕は家を振り返らず、早足で駅に向かった。母さんの言葉は忘れることにした。

空に虹色の飛行船が浮かんでいた。飛行船がじりじりと通った跡は、青い空に機体の色が移って虹がかかったようになっていた。飛行船は進むほどに虹色が剥げて、鉛色になっていった。

 北海道で生活をする。そう決めたときから、僕の体に収まっている内臓たちが騒ぎ出した。ふわふわと浮き足立って、ときどきでんぐり返しをしたりしていた。僕の体は、僕が生きられる場所を選んでくれた。僕が深く息が吸えるところへ、寸分の狂いなく導いてくれた。

「君は、君にとて、も愛され、ているんだ、ね」

 家を出ると、ネージュ・ララマンの言葉をよく思い出せる。僕はもしかしたら彼に会うために住む場所を変える決意をしたのかもしれない。なくしたと思っていた、もう会えないと思っていたけれど、彼はまだ僕のそばから消えていないのかもしれない。

 

 ***

 

「ねーじゅ、らまらん?」

 舌足らずな四歳の僕は、初めて聞くその名前を正確に言ってみせることができなかった。彼は熱い紅茶に息を吹きかけるようにやさしく笑うと、ネージュ・ララマン、と再び早口で言った。小さな子供相手だからゆっくり発音してあげよう、とかそんなことははなから頭にないようで、彼は彼のペースを貫いていた。

「ねーず、らららん」

「ネージュ・ララマン」

「ねーじゅ、らままん」

「ネージュ・ララマン」

「ねーじゅ……」

「ネージュ・ララマン」

 彼の早口が僕の言葉を押しのけてきたので、僕はついに黙ってしまった。俯く僕の顔を、彼はカクカクと腰を折り曲げて覗き込んだ。

「大丈夫、ですか」

 僕は首を横に振る。心配されるとつい甘えたくなるのは、この年頃では仕方のないことだ。彼は四角い目をハの字にして、

「困り、ましたね、え」

 と言った。その声が思いのほか柔らかかったから、僕はまた首を振った。

 人前では特にいい子にしなさい、と母さんから言われていたのに、彼の前での僕は駄々をこねる困った子供だった。初対面の彼は母さんともおばあちゃんとも形が違っていて、もちろん僕や幼稚園の友達や先生とも全然似ていなかった。

彼は真っ白で少し粉っぽい腕をしていて、足は大きく平らでよく歩けそうだった。胴体は細いけれどふっくらと柔らかで、首はなく、頭の部分にはゴム毬みたいなものがちょこんと乗っていた。鼻がなくて目が四角で唇はドーナツみたいに大きい。そんな顔をしていた。喋り方はラジオのノイズのようだった。自分の名前を言うときだけは、すらすらと滞りなく喋るのに。

「大、丈夫です、か」

 彼は再度僕に尋ねた。僕は彼の顔をきっ、と見上げて言った。

「なまえ、ながいよ。ねーじゅさんでいい?」

「ネージュ・ララマン。正しく、呼んで、ください」

「ららまんは?」

「ネージュ・ララマン」

 彼は頑なに名前を省略させたがらなかった。口調は穏やかなのに、並々ならぬこだわりがあるようだった。

 僕が彼の名前をきちんと発音できるようになるのは、もう少し先の話だ。それでも彼は飽きもせず、僕に正しい呼び方を教え続けた。

 

 ***

 

 引っ越しが落ち着いて、十畳一間の新しい部屋にも慣れた頃、大学が始まった。

 街のど真ん中にだだっ広いキャンパスを構えるH大学は、端から端まで地下鉄三駅分もある。構内を貫くようにメインストリートが南北に伸びていて、その両脇に学部棟が悠々と並んでいる。

 新入生は最初の一年を北端にある教育棟で過ごすことになっていた。二千人を超える学生が、一つのさほど大きくもない建物の中で一斉に講義を受ける。みっちみちに箱詰めされた図を思い描いていたけれど、意外にも、と言うか当たり前だけれど、教室には多少の余裕があったし、廊下もお祭りのようにすれ違うのもやっと、というわけではなかった。

 初日のオリエンテーションを終え、僕は新品の自転車に乗って大学を後にした。空がまあるく見えるほど青い日で、まっすぐ家に戻るのはもったいない気がした。南に向かってペダルを漕ぐ。歩道の潰れた縁石の上を通ったとき、振動でベルが小さくりんと鳴った。

 五分ほど走ると、並木公園が見えてきた。これもまた市街地の真ん中、東西に長く伸びるこの街のシンボル的な公園だ。噴水がある。ベンチがある。遊び場がある。有名な彫刻家が作ったというロールケーキみたいな滑り台がある。桜の蕾がむくむくと開花の準備をしていた。

 ベンチに座って、シラバスをめくる。向かいの噴水が水を吐き出すたびに、風に乗って細かい水滴が僕の周りに飛んでくる。シラバスのページにてん、と落ちて、黒く滲んだ。水はぶどうの房のようにひとまとまりになって後から後から噴き上げる。日の光を反射して、透明な薄い膜ができている。

 僕は思わず瞬きをした。まだほの寒い四月のなか、噴水の下の水溜りに足を浸す女の子を見つけたからだ。僕と同じくらいの歳だろうか。黒くてもさもさとした長い髪に隠れて、顔はよく見えなかった。

 女の子は落ちてくる水に透かすように両手をかざし、じっと動かない。着ている白いシャツや膝丈のスカートに水滴が飛んでも、気にする素振りも見せない。覚えたての歌を口ずさむように軽やかな佇まいで立っている。彼女の淡く発光したような白い肌に、僕は見惚れていた。

 絶え間なく降りそそぐ水は、彼女の全身をゆるやかに濡らしていった。しっとりと湿った彼女の髪は、時折宝石が埋まっているようにきらきらと瞬いた。

 僕は晴れた空をもっと彼女にあげたくなった。剥き出しの太陽を、美しいと言われるすべての景色を、彼女に手渡したいと思った。今にも踊り出しそうな雰囲気で、けれど足は水中に根を張ったまま、彼女は噴水のてっぺんを見上げていた。

「お姉さん、風邪ひくよ」

 ふいに新聞を片手に持ったおじさんが、彼女に声をかけた。おじさんは前屈みでのしのしと交互に足を出して歩きながら、彼女に近づいて行く。

 彼女は振り向き、そう言われることがわかっていたような顔で、

「わたし、水を浴びていないと乾涸びちゃうの」

 と言った。水分をたっぷりと含んだみずみずしい声だった。

 おじさんは冗談だと思ったのか、そりゃあ大変だ、と笑って、しばらく彼女を物珍しそうに眺めていた。彼女が、

「でも、もう上がるわ」

 と言って傍に置いていた鞄からタオルを取り出すと、おじさんは興味を失ったようにのしのしと去って行った。

 周りには他にも人がたくさんいたけれど、水から上がってタオルで足を拭いている彼女とそれを見ている僕は、この場に二人きりのような気がした。

 彼女は濡れた髪や服はそのままに、鞄を肩にかけてまっすぐ僕のほうへ歩いてきた。僕はシラバスを閉じようとして、地面に落としてしまった。慌てて拾おうと身を屈めると、白い手が伸びてきてさっとシラバスを取り上げた。

「さっき見てたでしょ」

 彼女は潤んだ声でそう言い、シラバスを僕に差し出した。

「えっと」

「わたしのこと」

 彼女は笑った。雨が乾いた土にじんわり染み込んでいくような笑顔だった。やっぱり僕は、彼女に最高の青空をあげたいと思った。澄み渡った空を彼女で満たせばいい。耐え切れず落ちてきた水は、霧雨となって僕の体中濡らせばいい。

「今朝のオリエンテーションにいたよね」

「え」

「わたし、あなたの後ろに座ってた」

 それは気づかなかった。僕は前しか見ていなかったし、教室は全員知らない顔で埋め尽くされていて、終わった後も僕は俯いたまま部屋を出たから。

「名前は?」

「久遠、雪日」

「綺麗な名前。わたしは澄川陶子」

 陶子は鞄の紐を肩にかけ直しながら言った。君だって、と言おうとしたけれど、黒々とした彼女の瞳が僕を捉えていたから、僕は言葉を奪われてしまった。

 陶子は僕の隣に座り、同じオレンジ色のシラバスを鞄から取り出した。胸下まである彼女の髪はまだ湿っていた。毛先から水滴が垂れてページを濡らした。

「髪拭かないの?」

 僕が訊ねると、

「わたし、体のどこかが湿っていないとダメなの。干あがっちゃうの」

 陶子は事も無げにそう言った。

「髪とか皮膚とか目とか唇とか。常に水気がないと大変なの。だからわたし、たくさん水を飲んだり水浴びしたりしなきゃなの」

「乾くとどうなるの?」

「死んじゃうんじゃない」

 他人事のような言い方だった。未来のことなんてわからないよ、とでも言いたそうな顔で足をぶらつかせている。

「雪日くんは?」

「何が」

「雪日くんも何か特別なんでしょう?」

 僕は目を見開いて陶子を見た。声が掠れた。

「どうしてわかるの」

 彼女は得意げに微笑んで言った。

「目が宝石みたいに綺麗だから」

 

 ***

 

 ネージュ・ララマンは背が高かった。五歳の僕は彼と手をつないで、庭の大きな桜の木を見上げていた。ネージュ・ララマンは僕のほうに体を傾けた不自然な格好で、覗き込むように木のてっぺんを見つめていた。桜はとうに花を散らしていて、深い緑色の葉が太陽の光に当たろうと目一杯身を伸ばしていた。

「ゆ、きか。この木、に登れ、ますか」

「ぼくはのぼれないよ。かあさんがだめっていうから」

「私、は、どうです、か」

「ねーじゅ・ららまんならのぼっても、いいんじゃない」

 そう答えると、ネージュ・ララマンは僕の手をさっと離し、幹を軽く蹴った。ネージュ・ララマンの頼りない足に蹴られても、桜の木はびくともしなかった。それを確かめるように、彼はもう一度だけ逆の足で根元を蹴った。

「登りま、す。雪日、見ていて」

 ネージュ・ララマンは一番低い枝に両手をかけ、右足を浮かせた。そのまますいすいと登っていくかと思いきや、

「手が、手、が足りな、い」

 と喉から絞り出すような情けない声を上げた。僕はどうすることもできず、あたふたと木の周りを行ったり来たりした。

ネージュ・ララマンはは両手でしっかりと枝を掴んだまま、足だけで登ろうとしていた。手を片方離して近くの枝を掴めばいいことくらい幼い僕でもわかると言うのに、彼は滑稽なまでに頑なに枝から両手を離そうとしなかった。足だけがつるつると幹を滑っていた。

 程なくして、ネージュ・ララマンはぼたっと木から落ちてきた。衝撃で彼のがらくたみたいな手足がバラバラになってしまわないか不安になったけれど、素早く起き上がった彼の体には傷一つついていなかった。

「私、には、木登、りは向いて、いな、い、ようで、す」

 心底残念そうな声で彼は言った。けれど顔を見上げると、口笛でも吹きそうなほど飄々とした表情をしていた。ネージュ・ララマンはときどき顔と言動が一致しないことがあった。僕は彼のどっちを信じればいいのかわからなくていつも困ってしまう。

「べつにのぼれなくても、いいんじゃないの」

 僕は少し突き放したように言ってしまった。ネージュ・ララマンはめざとく気づいて、

「雪日、どうし、たんです、か」

 と訊ねてきた。

 僕は彼が木に登れなかったことなんてどうでもよかった。やってみてできなかったことは仕方がないと思う。僕が面白くなかったのは、そういうことじゃない。

「ねーじゅ・ららまんは、ぼくよりきのぼりのほうがいいの」

「え、?」

「さっき、ぼくのてをらんぼうにはなした」

「ゆき、か」

「ぼくとてをつないでいたくなかったの」

 自分で言って悲しくなってきた。手をつないだとき、太陽が眩しくて彼の表情はよく見えなかった。彼は背が高いから、ちょうど光に反射していたのだ。もしかしたら嫌そうな顔をしていたのかもしれないと思うと、胸が千切れそうに痛くなった。

「雪日、そんなこ、とは、絶対に、ありま、せん」

 ネージュ・ララマンはグローブみたいな手で僕の頬を包みながら言った。四角い目が垂れ下り口がへの字になって、彼も泣き出しそうな表情をしていた。

「ずっと、大切、です。ゆ、きかのこ、とは、ずっと、ずっ、と」

 ネージュ・ララマンの手は温度がなかった。ビニールのように無機質な肌触りだった。けれど、僕の頬はきっと燃えるように熱かったのだろう。彼の手のひらに包まれてこもった熱が僕の皮膚にじんわりと染み込んできた。まるで彼の手が温かいかのように感じた。

 仲直りした僕たちは、手をつないで桜の木の周りをぐるぐると回った。ネージュ・ララマンは「楽しい、ね」と何度も言った。その度僕は彼の顔を見上げたけれど、彼はパーツが溶けてなくなってしまうのではないかと思うほど、ずっと笑っていた。太陽にも負けないくらい、眩しい笑顔だった。

 

 ***

 

 初夏、大学生活にも慣れてきて、構内のどこにどの教室があるのか、なんてことも把握できるようになった。メインストリートを自転車で駆け抜け、教育棟へ向かう。木々の緑の中から小鳥が三羽飛び出してきて、僕の頭上をかすめて行った。

 駐輪場に自転車を停めていると、急に風が冷たくなり空が暗くなってきた。ぽつ、とサドルに雨の粒が落ちた。僕は天気予報をあまり見ないから、よく突然の雨に降られる。教育棟に入っていく学生の中には、傘を持っている者も何人かいた。ああ今日は雨予報だったか、と自転車で来たことを少し後悔する。

 教育棟は中でN棟とE棟に分かれている。僕が受講している『アインシュタイン相対性理論』という講座は、N棟の三階で行われている。N棟の講義室は広くて、段になっている。それに対してE棟の講義室は小中学校や高校の教室と変わらない形で、五十人程度まで収容できる造りになっている。

 講義はいつもレポートの返却から始まる。レポートの右上にはA、B、C、Dの評価がついているのだが、僕はだいたいCかDしかもらったことがない。だって、お題が難しいのだ。『特殊相対性理論の二つの基本原理について』なんて、どう頭を捻ったって書けるわけがない。講義を聴いていたって、そう簡単に理解できるものではない。

 今日のレポートも案の定Dだった。僕は一応理系の学部に入ったはずなのに、数学や物理学はさっぱりできなかった。どうして苦手な学部に入ったのかと言えば、国語や英語はもっと苦手だからだ。ならばなぜ国立の大学に入ることができたのかと言うと、それはもうまぐれとしか言いようがない。とにかく僕は、実家から遠く離れたかったのだ。母さんから、逃げたかった。北海道は僕にとって最適な土地で、楽園にいるような気分にさせてくれる。

 窓側の一番後ろの席に座り、僕は教授の話を英語のリスニングのように聞き流しながら窓の外ばかり見ていた。僕と同じように頬杖をついて、うとうとしている学生が何人もいる。この位置からは講義室全体が見渡せる。

 外は雨が降っていた。やっぱり降ってきたか、と憂鬱な気分になる。別に雨が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。でも雨の中自転車を押して家まで帰るのは億劫だった。

 この講義は突然当てられたりしないから良い。教授がとろみのある声でずっと喋っているだけだから、眠くはなるけれど。

僕は窓ガラスにぶつかってはじける雨粒を数えていた。まるで命が尽きる瞬間の星のようにチカッと光る雨粒は、窓ガラスを滑り落ちる姿も流れ星みたいだ。窓に囲まれている講義室は、満天の星空に思えてくる。無数の星たちが流れる、流れる。外は薄暗くて、部屋の中も暗い。プロジェクターの光は、宇宙だったら何に例えられるのだろうか。

 雨粒の星空に夢中になっているうちに、講義が終わろうとしていた。教授がレポートについて説明している。講義をまったく聞いていなかったから、書ける気がしない。今回のレポートもまたD評価だろう。僕はちっとも使わなかったシャープペンと消しゴムをペンケースにしまった。

 外に出ると、まだ雨が降っていた。ピンと張った銀色の糸が左右に乱れて流されていく。そんな降り方だった。糸の中に髪の毛のように黒くてか細い生き物を見つけた。ゆらゆらと雨に逆らって空へ昇って行こうとする。龍のように体をくねらせ、雨の隙間を縫うように。けれど、雨に邪魔され思うように進まない。少し昇り、倍落ちる、を繰り返しながら必死に空へ空へと向かって行く。

 瞬きすると見失ってしまいそうなほど小さなそれは、多分僕にしか見えていない。傘をさし雨の中に沈んでいく学生たちは、立ち止まる僕を気にも留めない。僕の目線の先に何がいるのかなんてことも、当然考えない。

「あなたは普通なの。変なものは何も見えないし、見えたら駄目なの」

 母さんの声が耳の横から聞こえてくる。囁くように、でも胸に鋭く突き刺さる声で。

 ああ、僕はまだとらわれているんだ。遠い北の地に逃げたって、どうしたって僕は母さんの声から逃れられない。僕に普通を強いる母さんの声は硬く尖っていて、どんな体勢からでも確実に僕の心臓を貫く。

 存在しないはずの痛みが胸から全身に広がり始めたとき、僕のすぐ横を転がるように何かが駆け抜けて行った。横髪がふわりとなびいた。

 陶子だった。

 彼女は降り敷く雨のなか空に向かって両手を伸ばし、もっともっとちょうだい、とねだるように爪先立ちをしている。ステップを刻むようにくるくると回り、雨を全身に巻きつける。そんなに強い雨ではないけれど、彼女があまりにも無防備だからすでに髪もワンピースもずぶ濡れになっていた。

 動きを止めた彼女は鼻から深く息を吸い、はあっと思いきり口から吐いた。彼女の呼吸が、僕の目にははっきりと見えた。

 水色がかった透明な泡ぶく。涼しげで、金魚のおひれのようにゆうゆうと揺れる。泡ぶくは彼女の顔の周りを二周して、ばちん、とはじけた。彼女は雨の匂いを嗅ぐように鼻をひくひくさせると、最後の深呼吸をしてメインストリートのほうに歩き出した。

「陶子!」

 気づけば僕は彼女の名前を呼び、駆け出していた。振り向いた彼女の長い髪の毛の先から雫が跳ねた。それは僕の頬に当たり、静かに滑り落ちていった。

「雪日くん」

 陶子を構内で見かけたことは今まで二回ほどあったが、話したのは並木公園のとき以来だった。そう言えば、名前を呼んだのも初めてだ。いきなり呼び捨てにしてしまって失礼じゃなかっただろうか、と彼女の顔を見る。けれど、彼女は親しい友人を見るような目で微笑んでいた。

「傘持ってないの? 濡れちゃうよ」

 陶子はそう言って、教育棟まで引き返そうとする。

「持ってないけど、いいんだ」

「そう。わたしはね、傘は持ち歩かないの。雨の日が一番好き」

「好きなだけ水浴びできるからね」

「うん」

「陶子、一緒に昼ご飯を食べない?」

「いいよ。学食行く?」

「いや、外で食べよう」

 僕がそう提案すると、彼女は目を丸くした。

「わたしはいいけど……」

 遠慮がちに僕の顔を見上げる。

「僕も濡れたい気分なんだ」

 そう言った途端、彼女の顔が打ち上げ花火みたいにパッと明るくなった。満面の笑みで、

「そういう日もあるよねっ」

 と言う。僕も笑って頷いた。

 僕たちは購買でパンやおにぎりや唐揚げを買って、工学部棟と中央食堂の間にある池に向かった。ほとりに並ぶベンチに腰掛け、パンを頬張る。陶子はおにぎりの封を切るのに苦戦していた。

「わたし、こういう海苔がパリパリしたおにぎりを買うといつも海苔が途中で破れちゃうの」

 顔を顰めながら陶子は言った。

「あとね、パンのビニールを開けるときも、勢いよくパンが飛び出ちゃうの」

 僕はパンが飛び出したときの陶子の驚いた顔を想像して、思わず笑ってしまった。彼女は横目で軽く僕を睨むと、そろりそろりとおにぎりのビニールをはがした。

「ああっ、ほら、また破けちゃった」

 大袈裟に嘆いて、海苔のはげたおにぎりを僕に見せてくる。僕は声を上げて笑った。

「陶子は可愛いな」

 僕はぽそりと呟いた。それからはっと我に返った。なんということだ、心の声をうっかりそのまま口に出してしまった。

陶子は口をぽかんと開けて僕を見つめている。

「あ、ご、ごめん。つい……」

「馬鹿にしてる?」

 陶子の声が尖る。僕は慌てて首を左右に振った。

「まさか。本当のことだよ。言うつもりは、なかったんだけど……」

 恥ずかしくて、雨に濡れてひんやりしているはずなのに燃えるように顔が熱い。穴があったら入りたい、今すぐ目の前の池に飛び込んでしまいたい。雨はちっとも僕の熱を奪ってはくれない。

「雪日くんって、やさしいんだね」

 ふふ、と陶子が笑った。一人で悶えていた僕は、びっくりして彼女の顔を覗き込んだ。

「やさしい?」

「うん。わたし、自分の容姿が嫌いなの。髪の毛はもさもさしているし、目と目の間が離れ過ぎているし、鼻は団子だし、唇は厚いでしょ。全然好きになれなくて卑屈になっていたら、そのうち性格もひん曲がってるって言われるようになって。わたし、自分の見た目も中身も大嫌いだった」

 そこまで話すと、陶子は口をへの字に結んで黙り込んだ。言葉が続くのを、僕は待った。

 やがて、でもね、と陶子が呟いた。彼女の厚い唇からこぼれ出た短い言葉は、一瞬弧を描いてすぐに消えた。

「誰もわたしのこと、可愛いなんて言ってくれたことがないけど、雪日くんは言ってくれた。あなたはやっぱり特別ね」

 陶子はまっすぐ僕の目を見つめ、そう言った。底が見えそうなほど透き通った彼女の瞳は、僕が今まで見てきたどんなものよりも美しいと思った。それを彼女に伝えたいのに、非力な僕はうまく表現できなかった。ちょうどいい言葉が見当たらないことを理由に、僕は口をつぐんでしまった。

 陶子が微笑んでいるのに、僕は彼女から目をそらした。本当は心臓が破れてしまいそうなほど高鳴っていた。彼女は僕の憂鬱を吹き飛ばしてくれた。いつまでも母さんの声に支配される僕の心にはびこる蛆を、あっという間に払い除けてくれた。彼女の純粋で透明な魂は、きっと僕にしか見えない。他の人には見えてほしくない。

「雪日くん、ありがとね」

 陶子はもう一度僕に微笑みかけた。僕は心を掻き集めて、

「陶子は、綺麗だ」

 と言った。それだけしか、言えなかった。ひどくシンプルで凡庸な言葉だと思ったけれど、彼女は今にも泣き出しそうな顔でへにゃりと笑った。

 それから、僕たちは雨のなかでご飯を食べ、昼休みが終わる直前まで他愛のない話をした。濡れたパンとおにぎり、しなしなの唐揚げ、雨粒が踊る池。それらは僕たちの朗らかな会話を涼やかに彩っていた。

 

 その夜、クラスの飲み会があった。飲み会と言っても、僕を含め現役入学組はまだお酒が飲めないので、ソフトドリンクで乾杯する。一浪や二浪している他のクラスメイトたちは堂々とビールや日本酒などを頼んでいた。タバコを吸っている奴も何人かいた。

 H大学では一年次に一組から五十三組までのクラスに分けられる。二年になると学部に分かれ、教育棟ではなくそれぞれの学部棟で授業が行われる。僕や陶子が所属する予定の農学部は、メインストリート上で教育棟とは真逆側に位置する。

 陶子とは、学部は一緒でもクラスが違うので今日の飲み会に彼女はいない。昼間、彼女にとても恥ずかしいことを言ってしまったことを思い出し、また頬が熱くなってきた。

 飲み会は大学の近くの格安居酒屋で行われていた。ソフトドリンクが一杯九十九円で飲める。酒類も百円台だった。料理は正直、味がいまいちなものもあったが、量が多くて学生にはありがたい。クラスメイトたちは店内奥の小上がりで騒ぎに騒いでいた。僕は一番端っこで、座布団の上に体育座りをしながらみんなの様子を眺めていた。

 入学して二ヶ月経ったが、僕はまだクラスに親しい友人はいなかった。クラス行事もいくつかあったし、クラス単位で受ける授業もあるけれど、僕はなかなかみんなと打ち解けることができずにいた。友達の作り方が思い出せない。高校までは、必ず誰か彼か話しかけてきてくれる人がいた。自分から積極的に行かなくても、友達になることができた。

 大学は、何と言うか、個人主義の集まりのような気がする。一人で食事をするのも普通だし、誰かと一緒に行動しなくてもいい。浮くこともないけれど、だから一人でいる人を仲間に入れようとすることもあまりない。

 楽と言えば、楽だった。僕はその場しのぎの友達なんて求めていなかったし、どうせ仲良くなるならお互いの心に根を張るくらいの深い付き合いがしたいと思っていた。

「久遠、どうした、元気ないぞー。飲め飲めー」

 ときどき、絡んでくるクラスメイトには、

「飲んでるよ、ソフドリだけど」

 とウーロン茶のグラスを傾けて返事をした。付き合いが悪いと思われない程度にゆるく彼らと同化していればいいか、と思っていた。木や草に擬態する虫みたいだ、と一人苦笑する。

「久遠くん、何笑ってるのー?」

 茶色の巻き髪を左右に垂らした女の子が、僕に話しかけてきた。彼女は僕の名前を知っているようだが、僕は知らなかった。

「あ、えーと」

「紺野」

「紺野さん」

 見ると紺野さんは右手にビールのジョッキを持っていた。

「久遠くん、一人でにやにやしてキモいよー。誰かタイプの子、いる?」

 へら、と笑ってジョッキを飲み干す。いい飲みっぷりだった。彼女は僕がクラスの女の子を見て妄想を膨らませているとでも思ったらしい。

「残念ながら、いないよ」

「なんだー、つまんないのー」

 紺野さんはジョッキをテーブルにドンッと置いて、けらけらと笑い声を上げた。

「久遠くんて、可愛いよね。かっこいいって言うよりは、可愛い」

「え、そう? そんなこと言われたことないよ」

「かっこいいは言われたことあるのー?」

「それもないけど」

「えー、みんな見る目ないなあ。あ、店員さん、生一つ」

 通りかかった店員にビールを頼み、紺野さんはまた僕に向き直る。

「紺野さんは二十歳超えてるんだね」

「まだ十九だよ」

「えっ、でもビール……」

「こんなん今どき普通っしょー」

 彼女は届いたビールに口をつけて、鼻の下をあわあわにする。

「久遠くんは真面目だねー」

 彼女が鼻の付け根にくしゃっと皺を寄せて笑った。

 僕は陶子に会いたくなった。昼間会ったばかりだというのに、彼女の無邪気な笑顔や仕草が見たいと思った。紺野さんが僕に寄りかかってくる。僕は彼女からやんわりと離れ、席を立った。幹事を探し、飲み代を払って先に店を出た。

 雨はとっくに止んでいた。半分の月が洗い立てみたいにぴかぴかと輝いていた。雨あがりの夜の街は、すべての光がたなびいて見えた。アスファルトに反射した信号機の赤や黄や青、街灯のオレンジ、マンションの一室から漏れてくる白い明かりが、立ち止まる僕を急かすように瞬く。自転車を押して、僕は光に満ちた賑やかな道路をてろてろと歩いた。お酒を飲んでもいないのに、酔いがさめていくようだった。

いや、これは酔いじゃなくて夢だ。僕は今、この瞬間に、夢から醒めていくんだ。永遠の、夢から。

そんな詩人みたいなことを思いながら、家に帰った。

 

 ***

 

 実家からそう遠くはない距離に星見ヶ丘展望台という、その名の通り星がよく見える展望公園があった。確か正式名称ではなかったはずだ。誰が呼び始めたのかは知らないが、僕が六歳の頃にはもうすでにその名が定着していた。

 小学生になって初めての遠足で星見ヶ丘展望台に行ったとき、担任の先生が、

「ここは夜になると星がとっても綺麗に見えるのよ」

 と説明した。僕はどうしても星が見たいと思った。

「ゆき、か。だめで、すよ、こんな、夜遅く、に」

 ネージュ・ララマンの必死な声が後ろからついてくる。僕は振り返り、彼が追いつくのを待って、

「だいじょうぶだよ! ぼくにはネージュ・ララマンがついてるからね」

 と言った。

 母さんがリビングで仕事をしているときを見計らい、僕は早く寝るふりをして玄関からこっそり外に出たのだった。追いかけてこないから、気づかれてはいないはずだ。

 ネージュ・ララマンはギシギシと油不足のブリキみたいな音を立て、懸命に僕に歩幅を合わせた。僕は一刻も早く展望台に着きたくて小走りになっていた。

「おかあ、さん、に、叱られ、ま、すよ」

「バレなきゃへいきだよ」

 展望台が見えてくると、僕はとうとう走り出した。ネージュ・ララマンは悲鳴みたいな甲高い声を上げた。走りながら彼に目をやると、体がバラバラになってしまいそうなほど不安定に両足を動かしていた。泣きそうな顔でギクシャク進む姿が何だか可哀想に思えた。

僕は仕方なく彼のところまで引き返し、腕を掴んで再び展望台へと駆けた。彼は「うわ、わわわ、わ」と言いながら僕に引きずられていた。

 石段を登り、てっぺんに到着した。展望台には街灯がなく、ぽつんと小さなあずまやがあるだけで辺りは真っ暗だった。ネージュ・ララマンの腕を離すと、彼はその場に崩れ落ちた。

 見上げると、藍色の空一面に星が敷き詰められていた。チカチカと光を放ち、まるで星同士が語り合っているかのようだった。星たちは目尻に溜まった涙みたいに、ぽろりとこぼれ落ちて来そうだった。

「みて! ネージュ・ララマン! ほしがきれいだよ」

 僕はまだ地面にへばりついて荒い呼吸をしている彼に向かって言った。彼はよろよろと立ち上がり、首を傾けた。

「わあ、あ」

 彼の口から声が漏れる。疲れきって歪んでいた顔が、日が差し込むように明るくなった。

「綺麗、です、ね、ゆ、きか」

彼は目を細めたり見開いたりしながら星空を見ていた。僕たちはどちらからともなく手をつないだ。辺りはしんと静かで、ほんの少しのざわめきすら聞こえなかった。風もなく、全身で星空を感じることができた。

目の玉に星が映り込み、どこからかやさしい匂いがし、唇が震えた。手足にかすかな電流が走り、背中がむず痒くなった。心臓はトクトクと穏やかに波打ち、お腹のあたりがじんわりとあたたかくなった。

部屋の窓から見上げる星空は街の灯りが滲んでいるし、一部を切り取ったようにしか見えない。僕はそんな星空にしか触れたことががなかった。

「綺麗で、すね、ゆき、か」

 ネージュ・ララマンがまたそう言った。

「きれいだね、ネージュ・ララマン」

 僕は彼の左手をきゅっと握った。彼もそっと握り返してきた。僕たちは時間も忘れて満天の星空を見上げ続けた。

空が明るくなってきた頃、慌てて家に帰った。そっと玄関のドアを開けると、家の中は薄暗かった。何とか気づかれずに済んだらしい。僕はほっと胸を撫でおろし、音を立てないように二階の自室まで戻った。

 ベッドにもぐってもまだ胸がどきどきしていた。目を閉じると、さっきまで見ていた星空が瞼の裏に映し出された。星空の次に、ネージュ・ララマンの瞳が蘇ってきた。彼の瞳の中にはキラキラと光る星が一粒埋め込まれていた。その星は、間違いなく夜空からやって来たものだと確信した。だって、こんなに輝いているんだもの。

「おやす、み、ゆ、きか」

 ネージュ・ララマンの声が聞こえた気がした。それとほぼ同時に、僕は眠りに落ちていった。

 

 ***

 

 本格的な夏がやってきた。北海道の夏は涼しくて過ごしやすいとばかり思っていた僕は、連日のうだるような暑さに驚きつつまいっていた。本州のように湿気を含んだ暑さではないだけ、まだましなのかもしれない。夜になると少し過ごしやすくなる日もある。けれど、暑いのが苦手な僕にとっては、北海道の夏は涼しいという勝手なイメージを抱いていた分だけ、なんだか裏切られたような気分になった。

 僕のアパートがまた、暑さを助長させているのかもしれない。南西向きで、日光がこれでもかというくらいふんだんに入ってくる。リビング側にベランダがないから遮るものが何もなく、ローテーブルで勉強していると太陽が直線的に顔を覗かせる。

 レースのカーテンをつけたらいいけれど、今さら面倒くさい。どうせ北海道の夏は短いのだ。それは確からしい。僕は扇風機の首を固定して、一瞬の隙も与えないくらい体に冷風を浴びせた。

 夕方五時から大学近くの居酒屋でバイトの面接があった。バイトをするのは初めてだった。大学が夏休みの今のうちに、集中して稼ごうと思ったのだ。授業が始まってからも、両立できそうであれば続けたらいい。実際にバイトをしながら大学に通っている学生はたくさんいた。と言うか、そっちの方が多い。僕も入学したての頃よりは生活にも精神的にも余裕が出てきたから、ちょうどいい頃合いなのかもしれない。

準備をして家を出ると、いくらか暑さが和らいでいた。だいぶ体に馴染んできた自転車にまたがり、まだまだ明るい街並みを走る。居酒屋には五分前に着いた。

 開店は六時からと求人誌に書いてあったので、今は暖簾や看板は出ていない。引き戸を開け、薄暗い店内に入る。厨房で仕込みをしている大柄の男の人と目が合った。

「あ、あの、五時から面接の……」

 そう言いかけたとき、奥の扉から黒いTシャツを着た女の人が出てきた。僕に気づいて、

「あら、面接の子? 入って入って。一番奥のテーブル席に座って待ってて」

 と言った。四十代くらいだろうか。ハキハキとした物言いが気持ちいい。大きな目に快活な印象を受けた。

 彼女はレジの横から黒いバインダーを持ってきた。厨房にいた男の人もホールに出てきて僕の向かいに座った。

「じゃあ、始めますね。わたしは佐伯真紀子、ホール担当。こっちは店長で夫の雅文。よろしくね。履歴書は持ってきた?」

 僕は頭を下げ、あらかじめ用意していた二つ折りの履歴書を彼女に差し出す。

「ふんふん、久遠雪日くんね。変わった名前だねえ」

「はい、よく言われます」

「そうでしょう。えーと、今大学の、一年生か。H大学なんだー、頭いいのね。家もこの辺?」

「はい」

「なら近いわね。バイトは初めて?」

「初めてです」

「久遠くんは厨房希望って書いてあるけど、どうして? 料理が得意なの?」

「料理はそんなに得意じゃないです。でも、作れるようになれたらいいなと思って。こちらのお店の求人に、未経験でも包丁の握り方から丁寧に教えます、と書いてあったので、やってみたいと思いました」

「なるほどねえ。まあこの人、無愛想だけど教え方は丁寧だし、上手にできなくても絶対怒らないから初めての人にはいいかもね」

 そう言って、真紀子さんは雅文さんの太くて頑丈そうな二の腕を軽く叩いた。雅文さんは僕の履歴書を見つめたまま何も反応しない。確かに愛想はない。

 それからいくつか質問をされ、答え、笑ったり戸惑ったりしたのち、僕はその場で採用された。真紀子さんは笑顔で、

「久遠くん、よろしくね。さっそく明日から来てね」

 と言って笑った。目尻と口元にできた皺が、僕を歓迎してくれているような気がした。雅文さんは無言で大きな手を差し出し、握手を求めてきた。僕が握り返すと、ほんの少し表情が柔らかくなったように見えた。

 一礼して店を出た。自転車に乗りながら、バイトが決まったお祝いにちょっとだけ贅沢をしよう、と思い立った。家に向かっていたけれど進路を変え、スーパーに寄ることにする。惣菜やお菓子を買って、一人でささやかなパーティーをするのだ。僕はわくわくした気分でスーパーの駐輪場に自転車を停めた。涼しい風が吹き抜けていった。

 

 

「雪、包丁はまな板に対して直角に使うんだ。そうだ。それから包丁っていうのは手前に引いて、奥に押すときに切れるんだ。引いて、押す。引いて、押す。そう、上手いじゃないか」

 バイト初日、昨日の面接時間と同じ五時に『居酒屋 文』へ行った。制服代わりの黒いTシャツとエプロンを支給され、タイムカードの押し方を教わった。そのあと厨房に入り、雅文さんに包丁の持ち方と使い方を習った。雅文さんは僕のことを「雪」と呼んだ。雪は小学校の頃のあだ名だったので、懐かしくなった。真紀子さんには「雪ちゃん」と呼ばれた。

「キュウリの輪切りはだいたいいいな。じゃあ次はニンジンのイチョウ切りだ」

 雅文さんは料理のことになるとよく喋る。相変わらず表情は乏しいけれど、できたら褒めてくれるし教え方はとても丁寧だった。

イチョウ切りはどうやって切ると思う」

「えっと、こう、ですか?」

 雅文さんに訊ねられ、僕はたどたどしく包丁を動かした。彼は腕を組み、僕の手元を黙って見ていた。

キュウリの輪切りの要領でニンジンを先っぽのほうから切っていく。まな板の上には大きさの違うニンジンの輪切りがたくさんできた。そのうち一つを十字に切り、雅文さんの顔をちらりと見た。

「違うな」

 雅文さんがぼそりと言った。

「それだと効率が悪いだろう。こうやるんだ」

 彼はニンジンを袋からもう一つ取り出し、正しいイチョウ切りのやり方を見せてくれた。彼の手捌きはその見た目からは想像もつかないくらい繊細で、瞬く間に形の整ったイチョウの形のニンジンがまな板の上に生まれていった。

「すいません、ニンジンを無駄にしてしまって……」

 僕は自分が切ったでこぼこして不恰好なニンジンの残骸を見つめ、謝った。雅文さんは目を細め、

「無駄じゃないさ。形のわからない料理に入れるから気にするな」

 と言った。僕は頷きながら、彼の周りを綿毛のような小さな生き物がたくさん飛んでいるのを見ていた。半透明な白色のまあるい綿毛。彼のがっしりとした肩に降り立っては、月面に着陸した宇宙飛行士みたいにふわんとジャンプする。

綿毛たちは楽しそうに彼の肩の上で遊んでいる。母に抱かれて眠る幼い子供のように、安心しきっているように見える。雅文さんはきっと心やさしい人なんだな、と思った。やさしい人の周りには、何かしらの生き物がくっついている。僕の目には、それが映る。本当は見えちゃいけないものなのだけれど。

 ふいに母さんの言葉を思い出しそうになり、僕は慌てて首を振った。せっかく穏やかな気持ちになっていたのに。

 キャベツを千切りにしたりジャガイモの皮を剥いたりしているうちに、一時間が経った。

「おはようございまーす」

 間延びした挨拶とともに、女の子が厨房に入ってきた。僕と同じバイトの子だろうか。僕が顔を上げて彼女を見るのと、彼女が「あ」と言うのが同じタイミングだった。

「久遠くんだー」

 彼女は僕を指差して明るい声を出した。茶色い巻き髪に、どこかで会ったことのあるような気がする。

「同じクラスの紺野だよー。前、飲み会で話したじゃん。久遠くんシラフだったのに忘れるなんてひどーい」

 思い出した。未成年なのに堂々とビールを飲んでいた紺野さん。まさかここで働いていたとは。

「何、瑠奈ちゃん、雪ちゃんと知り合い?」

 カウンターを水拭きしていた真紀子さんが話しかけてくる。

「大学の同じクラスなんですー」

「あら、そうなの。雪ちゃん、友達がいて心強いねえ。初めてのバイトだもんね」

 にこやかに真紀子さんが言った。今のところ紺野さんとは友達ではないけど、と思いながらも僕は曖昧に微笑んで見せた。紺野さんは長い巻き髪を手首につけていた黒ゴムでしばり、

「雪ちゃんは厨房かー。私はホールだけど、よろしくね」

 と言った。いつの間にか僕の呼び方が「久遠くん」から「雪ちゃん」になっている。まあいいか、と思い、僕も「よろしく」と返した。

 開店して間もなく、一組めの客が入ってきた。会社帰りのサラリーマンらしき二人は席につくなり、

「生二つね」

 と注文をした。

「生二つー」

 紺野さんが元気よく繰り返し、グラス用の冷蔵庫からジョッキを二つ取り出した。僕はバイト初日なので、今日はひたすら皿洗いをすることになっている。

「今日は金曜だから忙しくなるぞ」

 雅文さんが僕にそう耳打ちしてきた。僕は気合を入れるつもりで、「はい」と答えた。

 

 十一時になると、雅文さんが皿洗いをしていた僕に、

「雪、もう上がっていいぞ」

 と声をかけた。

「でも、まだ少し残ってますけど」

「あとは俺がやっておく」

 彼の言葉に甘えて、僕は手を止めた。

「お先に失礼します」

「おう、お疲れ」

 厨房をあとにし、レジでお金を数えていた真紀子さんにも声をかける。

「雪ちゃん、今日はありがとうね。初めてで緊張したでしょ。また火曜日、よろしくね」

 真紀子さんはにっこりと笑い、僕を労ってくれた。初めてバイトをする店が、やさしい二人の元でよかったと思った。

 奥のロッカー室に入ろうとすると、ちょうど中から私服に着替えた紺野さんが出てきた。僕より一足先に上がっていたようだ。

「お疲れー」

 彼女が僕の肩をポンと叩く。僕は思わず身を固くした。こういうスキンシップは慣れていない。

「何緊張してんのー。雪ちゃん、おっかしー」

 けたけたと紺野さんが笑う。僕はどういう顔をすればいいのかわからなくて戸惑った。

 じゃあね、と手を振り、彼女がロッカー室の前から離れて行った。僕はほっとして中へ入り、着替えを始めた。

どうも紺野さんは苦手だ。彼女と話していると息苦しくなる。僕は苦手な人と接すると、息苦しくなってしまうことがよくあった。どこで苦手だと判断しているのかは、僕自身もわからない。嫌い、とはまた違う。でも、えら呼吸の魚が陸に上がると死んでしまうように、肺呼吸の動物が水の中でずっとは生きられないように、僕が苦手な人の前で息苦しくなるのもある意味自然なことと言えるのかもしれない。そうやって、自分を正当化してみる。

 僕には人には見えないものが見えてしまう。小さな違和感や大きな喜びなど、自他関係なく感情も見えることがある。普段は見ないようにしているけれど、ふいに滲み出るように見えてしまうこともある。見えてしまって、それが僕にとって心地よいものであれば特に気にしないが、見たくないものであれば自己嫌悪に陥ってしまう。母さんや紺野さんに関しては、僕が苦しくなるものが見えてしまいそうで怖い。

 これは僕が見えているものだから、その人の本質とは関係がないのだと思う。僕にとって息苦しくなる人でも、他の人にとっては良く映っているのかもしれない。あくまでも、僕に合うかどうかの個人的な感覚によるものだと思っている。だから、その人を否定するわけじゃない。

 でも、苦しいものは苦しい。僕は敏感すぎるのだろうか。陶子の顔が浮かぶ。ああ、陶子に会いたいな。今は夏休みだし、連絡先を交換したわけでもないから、気軽に会うことができない。彼女は今、何をしているのだろう。毎日暑いけれど、乾涸びてはいないだろうか。雨に向かって手を伸ばす彼女の姿が目に焼きついて離れない。

 ぼんやり考え事をしながら着替えていたせいで、二十分近くもロッカー室にこもってしまっていた。店を出るとき真紀子さんに、

「雪ちゃん、まだいたの」

 と驚かれた。お疲れ様です、と会釈して外に出た。

 店の前では、紺野さんがタバコを吸っていた。僕に気づき、

「もう、雪ちゃん遅ーい」

 と口を尖らせる。

「紺野さん、まだいたの」

 真紀子さんが僕にかけた言葉と同じことを彼女に言う。

「雪ちゃんを待ってたんだよ。一緒に帰ろ」

 彼女はタバコを排水口に捨てながら言った。

「ちょっと、そこに捨てたら駄目だよ」

「何で?」

「何でって、ごみ箱じゃないし」

「あはは、雪ちゃんって真面目」

 紺野さんは身を翻すように歩き出した。

「雪ちゃん、家どこ? わたしは北のほう」

 釈然としない気持ちを引きずりながら僕は答える。

「ここから東のほうだよ」

「えー、じゃあ方向違うじゃん。ねえ、送ってよ」

 紺野さんは甘えるような上目遣いで僕を見た。僕は早く帰りたかったけれど、女の子が夜道を一人で歩くもの危ないと思い、「わかった」と言った。彼女は嬉しそうに、にっと笑った。

 紺野さんの家は僕の家と真逆というわけでもなかった。僕の家は店からちょうど真東だったが、彼女の家は東よりの北だった。他愛のない話をしながら、と言ってもほとんど彼女が喋っていたけれど、僕たちは並んで歩いた。

 彼女の家は十五階建てのマンションだった。エントランスがホテルみたいに綺麗だった。学生が住むには随分と立派だな、と思いながら見上げていると、

「寄ってく?」

 と彼女が言った。囁くようなその声に、僕はびくりと肩が震えた。

「いや、いいよ。じゃあ、またね」

 慌てて自転車にまたがると、

「せっかく送ってくれたんだから、お茶くらい出すのに」

 彼女が食い下がってきた。腕を掴まれそうになったところで、僕は首を振った。

「もう遅いし、僕は帰るよ」

「なんだー、つまんない」

 彼女は両手をだらんとおろした。

「じゃあ、今度明るいときに来てね」

「え」

「だって遅いから寄って行かないんでしょ?」

 そういう意味じゃない、と思ったけれど、彼女には言えなかった。でも曖昧なことを言いうと本当に行く羽目になりそうなので、僕はそれには答えず、

「おやすみ」

 と言って、自転車を走らせた。彼女はそれ以上追及してはこなかった。

 夜の風が頬を滑っていく。僕は無性に陶子に会いたかった。もし彼女の家を知っていれば、今すぐにでも行ってしまいそうだった。知らなくてよかった。ぐんぐん自転車のスピードを上げる。ままならない思いを振り切るように。

 

 ***

 

「ほら、はやく入ってよネージュ・ララマン」

「ゆ、きか、私は、中へは、入れ、ま、せん」

 その日は雨が降っていた。ネージュ・ララマンはいつも家の庭に立て看板みたいに突っ立って、二階にある僕の部屋を眺めていた。それまでは気にしたことはなかったけれど、七歳のある日、僕は雨の中ひっそり佇んでいる彼が急に寂しそうに見えた。だから、せめて雨が降っている間だけでも家の中へ入れてあげようと思ったのだ。

「だめ、ですって、ゆき、か」

 けれど、ネージュ・ララマンは頑なにそれを拒んだ。僕が彼の腕を引っ張って玄関のドアをくぐらせようとしても、背中を押して無理矢理入れようとしても、抵抗するばかりだった。

「どうして入らないの、かぜひいちゃうよ」

「私、は、風邪な、んて、ひき、ません。だいじょう、ぶ、です」

「いいから、入ってよ」

 今思えば、彼の好きにさせればよかったものを、僕も意地になっていた。雨がしとしとと降る玄関先で、僕とネージュ・ララマンは押し合いへし合いしていた。

「雪日? 何やってるの?」

 僕が玄関のドアを開けたり閉めたりして騒いでいるのを不審に思ったのか、母さんが様子を見にきた。その瞬間、ネージュ・ララマンの動きが止まった。手足をまっすぐ伸ばし、一本の棒のようにピシッと立った。極度に緊張した空気が彼から伝わってきた。

「雪日、何をやってるのかって聞いてるの」

 まごまごと母さんとネージュ・ララマンを見比べる僕に、きつい声が飛んできた。

「まさか、また何か見えているの」

 母さんが目を見開いた。同時に鼻もぴくりと動いて、怒っているのだとわかった。

「雪日」

「ううん、何も、何も見えてないよ」

「じゃあその手は何なの」

 僕ははっと自分の右手を見た。僕の右手はネージュ・ララマンの左腕を掴んでいた。でも、母さんには彼の姿は見えない。母さんに見えているのは、中途半端に宙を掴む僕の右手だけ、ということになる。

「な、何でもないっ」

 僕は慌ててネージュ・ララマンから手を離した。その拍子にぐらりと彼の体が傾いた。咄嗟に彼の体を支えようと手を伸ばす。

「雪日! いい加減にしなさい!」

 母さんが声を荒げ、僕の腕を掴んで玄関の中へと引きずり込んだ。ドアがゆっくり閉まっていく。泣きそうな顔で僕を見つめるネージュ・ララマンが、ドアの向こうへ消えていく。バタン、とドアが閉まったと同時に、母さんが僕の両肩を強く揺すった。

「あなたは何も見えない、何も感じない、普通の子なの! 他の子と一緒! わかった?」

 あまりの剣幕に、僕は声が出なかった。わかった、と言おうとしたのに、わ、わ、わ、と頼りなく繰り返すばかりだった。母さんはまだ僕を睨んでいる。

「あなたは普通、何も見えないの。見ちゃだめなの」

 僕は泣きながら頷いた。激しく、首を縦に振った。歪んだ唇の間から涙が入ってきてしょっぱかった。

 ドアの向こうで母さんの言葉を聞いているであろうネージュ・ララマンのことを思うと、心が痛かった。彼のことも、本当は見えちゃいけないんだ。彼と友達でいることは、僕を普通の子から遠ざける。でも、僕はネージュ・ララマンと友達でいたかった。彼のことが大好きだから。

 母さんに家の中に入るように言われ、僕は靴を脱いで部屋に戻った。窓から庭を見下ろすと、濡れそぼったネージュ・ララマンと目が合った。寂しそうな目で僕を見上げていた。窓を開けようとすると、彼が静かに首を振った。彼の口が、ゆ、き、か、と動いた。それから、だ、い、す、き、とも。僕は嬉しくなって何度も頷いた。ぼくもだよ、という意味を込めて。嬉しいのに、また涙が溢れてきた。雨に打たれて顔までびしょ濡れのネージュ・ララマンも、泣いているように見えた。気のせいだろうか。でも僕にはそう見えたのだ。

 

 ***

 

 秋になった。

 後期の授業が始まって一週間。僕はもはや立派な相棒になった自転車を漕いで、教養棟へ向かっていた。いつもはメインストリートをまっすぐ行くのだが、今日は途中まで大学の外を走り、東門から構内へ入った。門をくぐってすぐ、黄金に輝くイチョウ並木が僕を迎える。空高くそびえるイチョウの木は、どれももりもりと栞のような葉をつけている。四百メートルほどの並木道を、僕は自転車の速度を緩めて走った。

 空からは絶え間なくはらはらとイチョウの葉が舞い落ち、地面を見ると一面黄色の絵の具を撒いたようにてかてかと光っていた。地面に敷き詰められたイチョウの葉は、重なり合ったり踏まれたりして色の濃淡がまろやかになっていた。じんわりと滲んで、これは黄色であると決めつけられないような色になっている葉がいくつもあった。

 イチョウ並木は、夜になるとライトアップされるらしい。暗闇の中で強い光に照らされたイチョウは、きっとまた違う表情を見せてくれることだろう。僕はそんな想像してうっとりとした。

 駐輪場に自転車を停めて、教養棟に入る。今から第二外国語の授業がE棟の二階である。僕はフランス語を選択している。

 着席してしばらくすると、前のドアから教授が入って来た。白髪まじりのふわふわした髪の毛と、とろんとした眠たげな垂れ目が、どこか羊を思わせる。

教授は日本人だけれど、最初から最後までフランス語で授業をする。和訳は一切しない。オリエンテーションのときからすでにフランス語しか喋らなかった。だから僕たち学生は日本語で書いてあるシラバスと彼の話すフランス語を照らし合わせながら、必死に意味を理解するしかなかった。

 教科書を開いて、というようなことを教授が言った。五ページ、と彼が指を五本開いて皆に見せる。さすがに多少のジェスチャーはしてくれるからまだいいのだけれど。

 五ページにはフランス語の例文とそれに合った挿絵が載っていた。

 

 こんにちは、初めまして、私の名前はみどりよ。

 初めまして、僕はたけしだよ。今日は寒いね。

 そうね、あとで雪が降るそうよ。

 それなら僕の家でコーヒーでもいかが?

 いいわね。そうしましょう。

 

 僕は会話の展開の速さに驚いた。女の子が雪が降ると言った直後に、家に誘うなんて。しかも会話の内容からして、初対面で。文化の違いなのだろうか。男女逆だが、バイト始めの日、紺野さんに家に寄っていかないかと誘われたことをふと思い出した。

紺野さんとは夏休みの間、何度かシフトがかぶった。僕のほうが先に上がる日もあれば、彼女が先のこともあった。同時に上がるときは必ず僕を待っているので、彼女を家まで送って行った。手を替え品を替え、彼女は僕を家へ上げようとしたけれど、僕はなんだかんだ理由をつけてかわし続けた。そのたびに陶子に会いたくなったが、結局夏休み中は一度も会えなかった。

 教科書に意識を戻す。右端に、例文に出てきた単語の説明が載っている。こんにちは、ボンジュール。初めまして、アンシャンテ。寒い、フロワ。雪、ネージュ。

 ネージュ……?

 僕ははっとして顔を上げた。教授が眠そうな声で教科書の例文を読み上げている。黒板と前の人たちの背中。それ以外は特に何も見えない。けれど、僕の目にはカクカクとした懐かしい友達の姿が映っていた。そうか、君は、僕と同じ名前だったんだね。

 ゆ、きか。

 彼の声が聞こえた気がした。

 ネージュ・ララマン。

 僕も心の中で彼の名前を呼ぶ。

 知らない間にいなくなってしまった、僕の友達。大丈夫だ、きっと僕たちはまた会える。そう確信して、僕は教科書のネージュの文字をそっと撫でた。

 

 

 五限目の授業が終わり、僕は自転車に飛び乗ってバイト先へ急いだ。五限まで授業がある日は、バイトは六時半からになっていた。夏休み中は週五で働いていたけれど、後期が始まってからは火、金、土に減らしてもらった。

 到着して、ロッカー室で着替える。ホールに出ると、紺野さんがすでに客に料理を運んでいた。僕に気づいて、小声で「おはよ」と言う。僕もぺこりと頭を下げる。

厨房に入り、雅文さんと挨拶を交わす。仕込みは彼がやってくれているから、今日は注文された料理を彼と手分けして作る。

僕は盛り付けはもちろん、簡単な料理であれば作ることができるようになっていた。刺身やサラダの盛り付け、揚げ物全般、焼き物が僕の担当だ。任される品が増えるたびに、やりがいも増していった。包丁の使い方も上手になったと、この前雅文さんに褒められた。

 家でも料理をするようになった。カレーライスを初めて作ったとき、少し水っぽくなってしまったけれど味は美味しかったし、野菜も綺麗に切れて感動した。一人暮らしをしている実感が湧いてきて、わくわくとした気分になった。レパートリーはみるみる増え、節約のために昼もお弁当を作るようになった。バイトで習ったことが実生活にも活かせているので、僕は満足だった。

「雪ちゃん、ザンギ一つ」

 カウンターに座った常連さんから直接注文を受けることもあった。

「雪日くん、頑張ってるね」

「雪ちゃん、生一つ」

常連さんに顔と名前を覚えてもらえるのは嬉しいことだった。

「雪ちゃんの顔見に来たよ」

 そんなふうに言って店に来てくれる人もいた。だから、僕は精一杯任された料理を作る。ほんのわずかでも僕にできることは心を込めてやろうと思う。笑顔になってくれる人がいるのなら。

 

「はあー、今日も働いたあ」

 客がいなくなった店内に響く声で、紺野さんが言った。大きく伸びをしている。

「瑠奈ちゃんも雪ちゃんもお疲れ様。上がっていいよ」

 真紀子さんがカウンターに割り箸を補充しながら言った。

「お先に失礼しまーす」

 紺野さんが素早くロッカー室に入っていく。今日も彼女は店の前で僕を待っているのだろうか。僕のように自転車で通えばいいのに、と思う。夜道を歩きで帰るよりは、自転車のほうが安全だろう。

 紺野さんがロッカー室から出てきた。お互いお疲れ様と言ってすれ違うのは、いつものことだ。

 僕も着替えて店を出ると、案の定彼女は店の壁に寄りかかりながらタバコを吸っていた。

「雪ちゃん、帰ろ」

 と言って、まだ長く残っているタバコを携帯灰皿にしまった。歩き始めた彼女の背中を、自転車を押しながら追う。

 いつもは一人で喋っているのに、今日の紺野さんはなんだかおとなしい。じっと前を見つめながら歩いている。何か悩み事でもあるのだろうか。どうしたの、と声をかけたほうがいいのか、そっとしておいたほうがいいのかわからずに、僕も黙って彼女の隣を歩く。

 晴れているのに、月が見えない夜だった。ビルに隠れているわけでもなさそうなのに、と思ったところで、今日は新月か、と気づく。新月の日に始めたことは長く続く、とか願いが叶いやすいのだと以前真紀子さんが言っていたのを思い出した。

 僕だったら何を願うだろう、長く続いてほしいことってなんだろう、と考えていると、

「雪ちゃんさ」

 ふいに紺野さんが話しかけてきた。ん? と彼女のほうを向き、次の言葉を待つ。

「私と付き合う気、ない?」

「え?」

 彼女から出たのは、そんな言葉だった。彼女がゆっくりと僕を見た。潤んだ瞳に、本気であることを悟る。

「ぼ、僕は……」

「私と付き合ったら絶対楽しいよ。絶対退屈させないし、絶対満足させてあげられる」

 絶対、と彼女は繰り返した。自信満々の物言いとは裏腹に、彼女の顔は不安そうに歪んでいた。必死さが伝わってきて、僕は思わず言葉を飲んだ。

「ねえ雪ちゃん、付き合おうよ」

 軽い口調で紺野さんは言う。無理に弧を描く口元が痛々しい。彼女はきっともう、気づいている。

「ごめん、紺野さんとは付き合えない」

 僕は思い切ってはっきりと告げた。ぱっと彼女が顔をそらす。弱々しい声で、どうして、と呟く。好きじゃないから、と言うのは酷な気がして僕は口をつぐんだ。

 沈黙が流れる。彼女は足元に目を落とし、動かない。

「知ってたよ、そんなの。雪ちゃん、いつまで経っても私のこと苗字で呼ぶし、家に上がってくれないし。距離あるなって思ってた」

 下を向きながら、でも思いのほかしっかりとした声で彼女はそう言った。

「ごめん」

 僕がそう絞り出すと、彼女はやっと顔を上げ、

「別に。落ち込んでないから。あ、ここまででいいよ。今日は一人で帰りたい」

 とぎこちなく笑った。

「私のこと避けるのだけはやめてね。クラスもバイトも一緒なんだから、仲良くしよ」

「わかった」

 僕は頷き、自転車にまたがった。

「じゃあ、またバイトで」

「先に授業で会うでしょ」

「ああ、そうか。明日の数学か」

「そう」

「うん、じゃあ、また明日」

「バイバイ、雪ちゃん」

 手を振って、紺野さんは踵を返した。歩き出した小さな背中を見送って、僕も自転車を走らせた。

 月がないからといって星がよく見えるわけでもない、街明かりに満ちた空を見上げる。付き合うとかって、僕にはよくわからない。でも、今すぐ会いたいと思う人ならいる。紺野さんがいないとき、改めて会いたいと思ったことはなかった。

僕は、陶子に会いたい。夏休み中だけではなく、後期が始まってからも彼女には会えていなかった。クラスも違うし、取っている授業もかぶっていないのでなかなか会う機会がない。

僕は陶子のことを何も知らないんだな。

そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。見えない月に向かって、

「陶子に会いたいです」

 と呟いてみた。もう二度と会えないというわけでもないのに、体の中を冷たい風が吹いた。涙が一粒、こぼれ落ちた。溢れてくると思ったけれど、涙はそれ以上落ちなかった。鱗が一枚だけ剥がれたみたいだった。陶子の雨に濡れた笑顔が夜空に浮かんで、すぐに消えた。

 

 ***

 

 庭にコスモスが咲いていた。薄紅色の花弁が風になびいて、右へゆらゆら左へゆらゆらしていた。

 八歳の僕は、学校の宿題である植物の観察の一環で、庭のコスモスの絵を描いていた。背の高いコスモスの前にしゃがみ、土の部分、茎、葉、花びらの順に画用紙に描き込んでいった。

コスモスの茎の間を頭の尖った小さな生き物が、かくれんぼをするようにするすると通り抜けて行った。何だろう、とじっと見つめたけれど、僕の視線に気づいたのか慌てるように奥の茂みに逃げて行ってしまった。

「何し、ている、のです、か、ゆき、か」

 ネージュ・ララマンの声が頭の上から降ってきた。顔を上げると、僕を見下ろす彼と目が合った。

「コスモスのかんさつだよ。宿題なんだ」

「私、にも、見せ、て、くださ、い」

「いいよ」

 僕は彼にもう少しで完成しそうな絵を見せた。画用紙を受け取ると、彼は穴が開くほど顔を近づけて絵を見つめ、逆さにしてみたり横に持ってみたりしながら、色んな角度から眺めた。

「すごい、です、ゆ、きか。本物、そっく、りです」

「本当?」

「雪日、は、てんさ、い、画家、です」

 ネージュ・ララマンは僕の描いた絵を褒めちぎった。天才画家はさすがに言い過ぎだと思ったけれど、悪い気はしなかった。

「ネージュ・ララマンもかいてみる?」

 僕は彼に色鉛筆を差し出しながら言った。

「え、え、え」

 彼は困ったように後退りした。

「私、は……」

「かかないの?」

 もう一度訊くと、彼は諦めたように一歩前へ出て色鉛筆を受け取った。

「わた、し、は下手、です、よ」

「いいからかいてみて」

 彼はしぶしぶといった様子でコスモスを描き始めた。

さらさら、かりかり、色鉛筆が画用紙を走る音がする。僕は彼の絵が完成するまでそっぽを向いて待っていた。彼はどんな絵を描くのだろう。不器用だから、絵も下手なのだろうか。でも描く音は悪くない。上手な人が描いているみたいに均一だ。

「でき、まし、た」

 十五分ほど経った頃、ネージュ・ララマンがそう言った。少し離れたところにいた僕は、彼の元へ飛んでいって画用紙を覗き込んだ。

「わあ! 上手じゃないか! すごいよ、ネージュ・ララマン!」

 彼の描いたコスモスは、庭で揺れているコスモスそのものだった。切り取って貼り付けたのかと思うほど、忠実に再現されていた。土が盛り上がっているところ、すっと伸びた茎の感じ、繊細な葉の作り。そして、花びらの可憐な雰囲気と意志の宿った薄紅色。これは絵だとわかっているのに、彼の描いたコスモスは間違いなく生きていた。生命が宿っているとかじゃない、生命そのものだ。

「すごいよ、ネージュ・ララマン!」

 僕は自分のことのように嬉しくなって叫んだ。けれど、彼は浮かない顔をして、

「私、の絵は、下手く、そ、です」

 と呟いた。

「どこがだよ、とっても上手じゃないか」

「違う、んで、す、ゆ、きか。あな、たのほう、が、上手、なん、です」

「どうして? ネージュ・ララマンのほうがずっとずっと……」

「私、の、絵は」

 僕の言葉を遮って、彼は悲痛そうな声を出した。

「感情、が、こもって、いな、いので、す。感、情がない、絵は、上手、とは、言えま、せん。ゆき、かの絵、は、楽し、そうで、元気、で、見てい、て、とても、わくわ、くします。これ、が生き、ている、絵、です」

「ネージュ・ララマン……」

 彼は悲しそうに眉を下げて笑った。

「それでも、ぼくにはネージュ・ララマンの絵は素敵に見えるよ。ぼくも君の絵を見たらわくわくした。君の絵だって、生きてる」

 僕は言った。本当にそう思うから。

 ネージュ・ララマンは取れてしまいそうなほど目を潤ませて、僕を抱き寄せた。硬い胸の奥、心臓がどくどくと脈打っていた。

「ありが、とう、ゆき、か」

 彼の声は震えていた。大きな手で僕の頭を何度も撫でた。彼の腕の中、僕は「生きてる」と小さな声で言った。彼の絵も、彼も、僕も。

 涼しい風が吹いて、コスモスが一斉に揺れた。空は抜けるように青かった。秋の高い空に、コスモスの薄紅色がよく映えていた。

 

 ***

 

 新月パワーが効いたのか、次の日購買で陶子に会った。

「雪日くん」

 りんと澄んだ声が右肩のあたりから聞こえて振り返ると、水のペットボトルとサンドイッチを抱えた陶子が立っていた。うっすら微笑んだ顔に、僕はまた泣きそうになった。

 陶子だ。陶子だ。陶子だ。

 心なしかふわふわの髪が伸びて、肌がこんがりしている気がする。

「久しぶりだね」

 陶子が笑う。風に揺れるひまわりのような笑顔。

「会いたかったよ、陶子」

 素直な気持ちを言うと、陶子の目が泳いだ。

「雪日くんって、ときどきキザよね」

 そんなことを言う。本当のことなのに。けれど、陶子のほんのり赤くなった頬が、照れているのだということを伝えていた。愛おしさが込み上げてくる。

「今日は水浴びしなくていいの?」

 僕も恥ずかしくなって、話をそらした。

「水を買うから大丈夫。本当は手とか足だけでも濡らしておきたいけど、もう寒いし。頻繁に水を飲んでおけば、授業の間くらいは持つよ」

「そっか」

 陶子は、じゃあ買ってくるね、とレジへ向かった。僕はどうにかして彼女と一緒に過ごせないかと考えを巡らせていた。昼休みの一時間だけでは足りない。せっかくやっと会えたのだから、今日くらいは長い時間彼女と過ごしたかった。

 レジ袋を下げて戻ってきた陶子に、

「今からどこか行かない?」

 と訊いてみた。彼女は目を見開いて、

「どこに?」

 と言った。

「ええと、どこでもいいんだけど……並木公園とか」

「今から? 授業をさぼって?」

「うーん、並木公園はいつでも行けるか。じゃあ、そうだな、どこか遠いところ」

「それは今でなきゃだめなの? 授業が終わってからでもいいじゃない」

「そうだけど……」

 僕は口籠った。陶子の言うとおりだから、何も言い返せない。さっきは「会いたかった」と素直に言えたのに、なぜか今は「君と一緒にいたい」と言えない。気まぐれな感情に翻弄される自分が情けない。

 別に今じゃなくてもいいはずだった。けれど、今、離れたくないという気持ちが抑えられない。連絡先を交換するのでも、次に会う約束をするのでもなく、今、一緒にいなくてはいけないという想念が押し寄せてくる。僕はいったい、どうしてしまったのだろう。陶子に会ったのが久しぶりすぎて、気持ちの統制が取れなくなっているのだろうか。

 黙り込んだ僕の顔をしばらく見ていた陶子が、

「もう、しょうがないなあっ」

 と弾むように言った。

「そんなにわたしといたいなら、いてあげる」

 いたずらっぽく笑う。

「わたしの家に来る?」

 軽い口調で言う陶子の顔を、僕は二度見してしまった。陶子の、家。恐る恐る僕は訊く。

「いいの?」

「いいよ。どうせだから、お酒とか買って行こうよ。こんな時間から、贅沢に」

「陶子、お酒飲めるの?」

「もちろん。だってわたし、もうハタチだから。結構好きなの」

 そうか、陶子は僕より一つ年上なんだ、と今さらながら知った。

「スーパーが家のすぐ近くにあるの。そこで買い物しよう」

「うん。陶子って意外と、不真面目なんだね」

「雪日くんだって。授業さぼってどこか行こうだなんて、立派な不真面目だよ」

「立派な、不真面目」

 僕は笑った。

 陶子と連れ立って、彼女の家に向かった。自転車を押す僕の隣を、陶子が歩く。リュックの肩紐を両手で握って、足を一歩一歩前に投げ出すように歩く彼女の歩き方は、てくてくと効果音がつきそうだ。長い髪の毛が彼女の歩みに合わせてたんたんたん、と揺れる。

 途中、スーパーで酎ハイ三缶とカツゲンを一パック買った。陶子の家はスーパーのすぐ裏だった。二階建てのアパートの一階、ワンルーム

「散らかってるけど、気にしないで」

 ずんずん進んでいく陶子を追い、お邪魔します、と言って僕も部屋の中に入った。

 部屋は確かに散らかっていた。まず、服が多い。ハンガーラックにかかりきらないワンピースやTシャツなどが、床にかまくらのように積まれている。空のペットボトルやカップ麺の容器が、これはなぜか綺麗にベッドの下に並べてある。ローテーブルの上には郵便物やチラシなどが無造作に置かれてある。

 物珍しそうな顔をしていたのか、陶子が不安げな表情で僕を見た。

「部屋、汚くてびっくりした? わたし、昔から片付けって苦手で……」

「いや、女の子の部屋って初めてだから。ワイルドでいいと思う」

 僕が言うと、陶子は目を丸くして、「ワイルド!」と繰り返した。彼女からは不安の表情が消え、パチパチと弾ける泡のような笑顔になった。

「そんなフォロー、されたことない」

「本当にそう思ってるよ」

「雪日くんって、面白いね」

 陶子はキャハハ、と高い笑い声を上げる。

「さ、飲も飲も」

 そう言って、彼女はローテーブルの上の紙類を床に下ろし、クッションを二つ、服の山の中から取り出した。散乱している細々とした日用品は、まとめて隅に追いやる。

「そう言えば、つまみを買うの忘れちゃったね」

 酎ハイの缶をプシュッと開けながら、陶子が言う。

「確かに。お菓子とか、何かある?」

「ない。何もない」

「冷蔵庫の中にも?」

「それなら多少はあると思うけど」

「ちょっと見てもいい?」

「どうぞ」

 僕は台所の手前にある冷蔵庫のドアを引いた。二層式の小さな冷蔵庫の上段にはもやしが一袋と豚肉の細切れが一パック、それから卵が三つ、ドアポケットに収まっていた。

「陶子って、料理はするの?」

「料理って言っていいのかわからないけど、一応炒めるのと焼くのはできる。でも何かと何かをかけ合わせることはできないの。そこにあるもやしと豚肉も、それぞれ単品で炒めようと思って買ったやつだし」

 陶子は奇妙なことを言った。僕が首を傾げていると彼女は、

「つまりね、二種類以上の食材を一緒に調理することができないの。味付けができないって言うのかな。もやしも豚肉も卵もそのほかのものも、全部ただ焼くだけ。塩もコショウもソースもかけない。ちょうどいい分量がわからないの」

 と付け足した。

「それは料理の本を読んで、レシピ通りに作っても?」

「そうね、レシピ通りに作ることもわたしには難しいの」

 そう言って、陶子は唇を噛んだ。

「わたしにはできないことが本当に多いの。嫌になるくらい」

 彼女はため息をついて、天井を仰ぐ。

僕は今自分にできることを必死で探した。慰めるにも励ますにも、適切な言葉が見つからない。でも、彼女のために何かしたかった。このまま黙っていたのでは、彼女はきっともやもやとした気持ちを抱えてしまうだろう。けれど、下手に慰めることは逆に彼女を傷つけてしまう気がした。

「よかったら、僕が作ろうか」

 苦し紛れに口にした言葉に、陶子の表情がぱっと明るくなった。

「雪日くん、料理できるんだ!」

「まあね。これでも居酒屋の厨房でバイトしてるし」

「そうなんだ、すごい! 作って作って。調味料は塩コショウと醤油くらいしかないけど」

「多分なんとかなるよ」

 僕は腕まくりをして、台所に立った。

まず卵を二つボウルに割り入れ、醤油を少し垂らしてシャカシャカととく。次にフライパンを火にかけ、サラダ油をひく。フライパンが熱くなってきたら豚肉を炒める。豚肉はもともと細切れになっているので、包丁とまな板は使わなかった。大体色が変わったらもやしを投入。シャキシャキ感を残したいから、さっと炒める。最後にといた卵を流し入れ、混ぜ合わせる。塩コショウで味を整えて、完成。

「できた」

「わあ、美味しそう!」

「本当はみりんとかがあればもっと美味し口なると思うんだけど」

「十分十分。食べよ!」

 陶子はほかほかと湯気を立てるもやし豚肉卵炒めの皿を大事そうに両手で持って、ローテーブルまで運んだ

「乾杯!」

 缶酎ハイとカツゲンのパックを軽くぶつけ合い、ささやかに乾杯をする。陶子が酎ハイをぐびぐびと飲み、勢いよく息を吐き出す。

「昼間から飲めるって最高!」

 それから僕の作った炒めものを一口食べ、

「美味しい! 雪日くん、さすが」

 と目を細めて笑った。

簡単な料理だけれど、こうやって陶子が笑ってくれるのなら作った甲斐があった。味はやっぱり少し物足りない感じだが、卵はふわふわだし我ながらうまくできたと思う。僕はカツゲンのパックにさしたストローを噛みながら、陶子の顔を見つめた。鼻の付け根と目の下に薄く、僕と同じそばかすがある。自分のそばかすはあまり良く思ってこなかったけれど、陶子の顔にあると途端に素敵に見えるから不思議だ。彼女のふわっとした長い黒髪と離れがちな大きな瞳に、そばかすはとても良く似合っていた。

「ああ、雪日くんがわたしのお嫁さんになってくれたらいいのになあ」

 陶子の言葉に、僕は思わずむせる。陶子はくしゃっといたずらっぽく笑う。二本目の缶を開けながら、

「なんてね」

 と言って舌を出す。冗談だと分かっていても、僕は顔が熱くなるのを感じた。

 

 料理がなくなり、カツゲンも飲み終わった頃、陶子の口数が次第に減ってきた。彼女は三本目の酎ハイも空にし、手持ち無沙汰にプルタブをいじっていた。頬が真っ赤に染まっている。酔っているのだろうか。

「大丈夫?」

 膝を抱えいつまでも喋らない陶子に、僕はそう声をかけた。陶子は重たそうに顔を上げ、僕の目をじっと見つめた。それからふ、と目をそらし、弄んでいた缶をテーブルの向こうに遠ざけながら、

「雪日くんって、どんな子が好みなの」

 と呟くように言った。

「え……」

 脈絡のない質問に僕は面食らった。答えを探している間、陶子は暗い目で僕を見ていた。

「わからない。好みとか、考えたことがないから」

 正直に答えた。けれど、それは陶子の望んでいた回答ではなかったらしく、彼女は口を尖らせ不満そうな顔をした。

「雪日くん、前にわたしのこと綺麗だって言ったよね。あれは嘘なの?」

「嘘なんかじゃないよ。本当にそう思ったから言ったんだ」

「じゃあ今は?」

「今も、思ってる」

 そう言うと、陶子はくるりと体を僕のほうへ向け、手を伸ばしてきた。彼女の右手があぐらをかいた僕の左膝に置かれる。彼女はゆっくりと身を乗り出して、僕に顔を近づけてくる。息遣いを感じる。彼女の薄桃色の唇が僕の唇に重なりそうになったとき、僕は思わず顔を背けてしまった。彼女の両肩を掴み、体を引き離す。彼女の顔全体が見えるようになった。真っ赤な頬と見開かれた目、半開きの口。彼女は明らかにショックを受けた表情をしていた。

「ご、ごめん」

 僕は思わず謝った。何に対して悪いと思ったのかは、咄嗟にはわからなかった。陶子の目にはみるみるうちに涙が溜まった。

「どうして……」

「陶子」

「雪日くんは、誰にでも綺麗だとか可愛いって言うの?」

「そんなわけない」

「じゃあどうして! わたしのことが好きなんじゃないの?」

「陶子……」

「なんとも思ってないなら、思わせぶりなこと言わないでよ!」

 陶子は僕の手を振り払い、背中を向けた。膝に顔を埋め、しゃくり上げている。名前を呼んでも、返事をしてくれない。僕の言動が、陶子を傷つけてしまったのだ。

 どうして僕はさっき、顔を背けてしまったのだろう。陶子のことが嫌いなわけじゃない。それは絶対にない。陶子とキスがしたくなかった? いや、違う。僕は陶子を魅力的な女の子だと思っている。一緒にいたいし、もっと彼女のことを知りたい。それなのに、どうして。

 僕は自分のことがわからなくなってしまった。彼女を傷つけてしまった自分に、ひどく嫌気がさした。彼女はまだ泣いていた。

 

「それ、は、大事、ってこ、と、です、ゆ、きか」

 

 突然、声がした。長い間聴くことのなかった、懐かしい声。僕は部屋の中を見渡した。どこにもいない。声は耳から聞こえたのではなく、僕の心の中から湧いてきたのだ。

 そうか。僕は陶子のことが大事なんだ。大事だから、簡単にキスをしてしまいたくなかった。流れに任せて、勢いで、なんてことにはしたくなかった。

 ネージュ・ララマン。僕の友達。君はまだ、どこかにいるのだろうか。姿が見えないだけで、僕の近くにいるの? 会いたいよ。

「陶子、聞いて」

 僕はそっと陶子の背中に話しかけた。彼女は振り向かない。けれど、小さくしゃくり上げながらも、僕の次の言葉を待っているような気がした。僕は自分自身にも語りかけるように、丁寧に言葉を選んで話し出した。

「僕にはね、大切な友達がいたんだ」

 

 ***

 

 僕は人には見えない生物が見える。それはいつも突然現れて、僕の目の前を右往左往したり浮遊したり横切ったりする。犬とか猫とか象とかトカゲとか、もちろん虫なんかでもない。この世界に存在している生き物ではなくて、何と言うか、もっと繊細な隙間の端くれみたいなところでひっそり息をしている、ものたち。でも確かに、生きている。

 僕が物心ついたのは三歳くらいのときだけれど、その頃にはすでに見えていた。食卓の醤油瓶の陰、食器棚のグラスの中、おもちゃ箱の隙間、扇風機の羽の上。あらゆるところに生物は現れた。外でも風に乗って流れていく彼らをよく見た。

 僕は母さんに見えるものすべてを得意げに話した。最初のうちはにこやかに頷いてくれていた母さんだったが、僕が人前でも同じように話していると、次第に顔をしかめるようになった。

「雪日、そういうことはあんまり言ってはいけないのよ」

「どうして?」

「みんなに笑われちゃうから。変な目で見られちゃうから」

「へんなめ?」

「みんな雪日のことを嫌いになっちゃうってことよ」

 母さんは僕の頭を撫でながら、優しく諭すように言った。

「だからね、もう見えても言わなくていいからね」

 見えても言わなくていい、から見るな、に変わったのはいつのことだったろう。気がつけば母さんは、僕に普通を強いるようになっていた。

「あなたは何も見えないの。変なものは見てはいけないの。あなたは普通の子なんだから」

 そう言って、僕の視線に目を凝らすようになった。

 ネージュ・ララマンと出会ったのは、ちょうどその頃だった。庭の片隅に突っ立っている不恰好な大きい生物。ガラクタの寄せ集めみたいな風貌で、カクカク動く。電池の切れそうなラジオみたいに喋る。この不可思議な生物は初めて見たとき、あまりに自然に僕の名前を呼んだから、僕はずっと前からこのへんてこな生物のことを知っている、きっと仲良くなれると思ったのだ。

 

 ***

 

 長い長い話をした。ネージュ・ララマンにかかわることのすべて。僕に話せることのすべて。陶子はいつの間にか膝を抱えたまま僕のほうに体を向けて、静かに聞いていた。頬には細く涙の跡ができていた。

「ネージュ・ララマンは今、どこにいるの?」

 陶子がそれまで固く閉じていた口を開いた。

「それは僕にもわからない。でも、どこかにいるはずなんだ。僕が見えなくなっただけかもしれない」

「いそうな場所に心当たりはないの?」

「思いつかないな。僕が中学に上がる前にはもういなかった気がする」

「それならどうして今になって思い出したの?」

 陶子の質問に、僕はしばらく考えた。今になってと言うより、ネージュ・ララマンのことは多分ずっと忘れたことなんてなかった。心のどこかにいつもいたのだ。けれど、積極的に思い出すことはしてこなかった。なぜだろう、とても大切なことなのに。

「ネージュ・ララマンが僕の前からいなくなった日のこと、思い出せないんだ。断片的には覚えてる。でも肝心なところが抜け落ちている気がする。どうして今、こんなに気になるんだろう。忘れたことは一度もないけど、今になってこんなに会いたいのはどうしてなんだろう」

 僕はネージュ・ララマンの歪な姿を思い浮かべながら言った。彼の姿はいくらでも思い出せる。おどけて笑う四角い笑顔までも。

「会いに行こうよ」

 ふいに陶子が大きな声でそう言った。僕は驚いて彼女の顔を見る。

「え?」

「雪日くんの記憶の断片をつないで、会いに行けばいいじゃない。会えるかはわからないけど、探すことに意味があると思う」

 陶子の目はさっきの涙でまだ潤んでいて、キラキラと輝いていた。澄んだ水のような翳りのない瞳。

「一緒に、行ってくれる?」

 僕は陶子の瞳を見つめたままそう言った。目が離せなかった。

陶子は思い切り頷いて、

「行きたい!」

と言った。ふわふわの髪の毛が弾みで僕の頬を撫でた。僕はこのとき初めて、陶子のことが好きなのだと思った。

 

 ***

 

 ネージュ・ララマンと最後に一緒にいた記憶は、深い雪の中だった。辺りには何もなくて、ただ真っ白な雪景色が広がっているだけだった。空は晴れていた。

 記憶の断片をつないでネージュ・ララマンに会いに行く。そう決めたあの日から、雪が降るまで一ヶ月ほど待った。その間、僕は真面目に授業を受け、週に三日バイトへ行き、ときどき紺野さんと話し、僕の覚えている景色と実際の場所を照らし合わせる作業を陶子と共におこなった。

 気まぐれにしか降らなかった雪がようやく根雪になった頃、探していた景色が見つかった。パソコンの画像と僕の記憶の中の情景がぴたりと重なったとき、忘れていたいくつかの情報を思い出した。

 小学四年生の冬休み、僕は母さんとここを訪れていた。そこは母さんの実家がある町だった。今では寄りつきもしなくなったけれど、

母さんは北海道の出身なのだ。

 母さんの実家に遊びに来て、雪の中でネージュ・ララマンと駆けまわった。そこから先は覚えていない。でも、十歳の冬を境に彼は僕の前に姿を現さなくなったことは思い出した。

「ここだと電車で行くことになるね。一日がかりだ」

 パソコンで行き方を調べながら、陶子が言った。彼女の部屋で作戦会議をしていた。

「次の土日に行く?」

「そうしよう」

 僕たちは頷き合った。

 

 土曜日の朝、JRの駅で陶子と待ち合わせをした。駅の構内は広いから、あらかじめ集合場所を決めておいた。駅には目印となるようなオブジェが出口ごとに設置されている。僕たちは南口の溶けた白いドーナツのような形のオブジェの前で落ち合った。

 陶子はベージュのダッフルコートにジーンズ、黒いブーツにバックパックといった出立ちで時間通りにやって来た。

「あったかそうだね」

 僕が言うと、

「寒がりなの。冬は水分補給がうまくできないから嫌い」

 と顔をしかめて笑った。

 僕たちは切符を買い、券売機の隣にあるミスドに立ち寄った。朝ご飯代わりに車内でドーナツを食べることにした。僕はダブルチョコレートとフレンチクルーラー、陶子はゴールデンチョコレートポンデリングとエビグラタンパイをそれぞれ買った。

「たくさん食べるんだね」

「だって甘いものを食べたあとは、しょっぱいものが食べたくなるでしょ」

「甘いほうをどっちか一個にするっていう選択肢は」

「ない! ゴールデンチョコレートポンデリング運命共同体なの」

「食いしん坊なだけじゃないか」

 僕が笑うと、陶子は頬を膨らませた。

 キオスクで飲み物も買い、改札を通る。エスカレーターを上り、八番線に向かう。電車は車輪を軋ませながらホームに入って来た。

「特急って初めて乗る」

 乗車間際、陶子がそう言った。

「雪日くんは乗ったことあるんだよね」

「そうだね、小学生の頃乗ったと思う。あんまり覚えてないけど」

「そっか」

 陶子は僕の顔をちらりと見て、先に特急に乗り込んだ。

 指定されたシートに二人並んで座る。陶子が窓側、僕は通路側だった。発車と同時に陶子はミスドの袋を開けた。一口食べるごとに水を飲む。そうしないと、陶子の体は乾いてしまうのだろう。ただでさえ、ドーナツは口の中の水分を奪うから。

 フレンチクルーラーの最後の一口を口に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら窓の外に目をやると、街並みが途絶え、真っ白な田園が広がっていた。過ぎてゆく雪景色は、僕のネージュ・ララマンに対する特別な思いを浮かび上がらせた。雪、フランス語でネージュ。彼の姿はちっとも雪らしくないけれど、僕と同じ名前なのだ。陶子が言っていた、ゴールデンチョコレートポンデリング運命共同体ならば、僕とネージュ・ララマンもそうだったのかもしれない。

「ねえ、もしネージュ・ララマンに会えても、雪日くんには見えるけどわたしには見えないのよね」

 陶子がベットボトルのキャップをひねりながら言った。

「そうかもしれない。今までも僕以外の人には見えなかったから」

「ちゃんとわたしにも教えてね。ここにネージュ・ララマンがいるよって」

「もちろん」

「それで、わたしのことを紹介してね」

「うん。僕の大切な人だよって紹介するよ」

 僕が言うと、陶子は薄く頬を染めた。そして、

「雪日くんって、本当にときどきキザよね」

 と口を尖らせた。その表情がどこか嬉しそうに見えて、僕は思わず笑みがこぼれた。

 話しているとあっという間に乗り換え駅に着いた。ここからさらに三十分ほど電車に揺られる。今度は特急ではなくて普通列車だ。ガタンガタン、と音を立て電車は進む。陶子はさっきたくさん食べたせいか、僕に寄りかかって眠ってしまった。すぐ目の前に陶子のつむじがあって、僕は妙に緊張してきた。僕も彼女に寄りかかっていいものなのか、でもせっかく気持ちよさそうに寝ているし起こしてはだめだ、と身の置き場に困った。

 このままずっと目的地に着かなければいいのに、と思った。ネージュ・ララマンには会いたい。そんなの当たり前だ。でも、陶子の長い睫毛がかすかに震える様子をじっと見ているこのひと時も、同じくらい愛おしかった。

 

「……な、……を、……、……、ゆき、か」

 

 ネージュ・ララマンの声がまた聞こえた気がした。何と言っていたのかは覚えていない。昔、彼が最後に僕に言ったであろう言葉。どうしても思い出したい。

 目的地のアナウンスが流れた。電車が一際大きく揺れ、弾みで陶子が起きた。

「わたし、寝てた?」

「気持ちよさそうに寝てたよ」

「寝顔見た?」

「うん」

「やだー」

 陶子は手のひらで両頬を押さえ、身を捩った。

 電車を降り、改札を出た。白い石造りの小ぢんまりとした駅舎は、映画に出てきそうな佇まいだった。太陽の光が屋根に積もった雪を照らして、眩しいほど輝いていた。

 スマホで調べると、記憶の中の雪野原までは駅から徒歩三十分程だった。近くまでバスも出ているらしいが、陶子に聞くと「歩きたい」と言った。

「見て、三角屋根。お菓子のおうちみたいで可愛いね」

 陶子が指を差した先には、赤や緑のとんがった屋根が建ち並んでいた。大学の近くは高くて平らな建物ばかりで、背の低いとんがり屋根は滅多に見ないから、なんだか新鮮に感じた。陶子の言うように、周りをホイップクリームで囲まれたお菓子の家に見える。

「寒い?」

 僕が訊ねると、

「平気」

 陶子はそう言ってコートのポケットから両手を出し、道路の脇に積まれた雪を掬い上げた。

 市街地を抜けると、ほとんど除雪がされていない道が続いた。狭いので一列になって歩いた。僕が先につけた足跡の上を、陶子が歩く。進むのに必死で、僕たちに会話はなかった。途中、吹き溜まりに足を取られながらも目的地の雪野原までやって来た。

「わあ、ひろーい! 雪がふかふか! 真っ白!」

 陶子は白銀の大地を見るや否や、子犬のように駆け出した。爪先が冷えて感覚がなくなりかけていたけれど、僕は彼女を追いかけた。

 記憶の雪野原のただ中に、僕は今いる。雪が広がって広がって、有限であることを忘れてしまいそうだ。飲み込まれるのとも違う、しっかりとした意志を持って、この壮大な雪にまみれている。きっと幼いあの日ネージュ・ララマンと見た夜空の星よりも柔らかい雪の粒が、僕と陶子を隔てていた。僕は堪らず陶子のそばへ駆け寄った。

 陶子、と名前を呼ぼうとすると、彼女はいきなり僕の両肩を強く押した。バランスを崩し、僕は雪の上に倒れ込んだ。驚いてそのまま仰向けでいると、視界の端からひょっこりと彼女が顔を出した。にっと歯を出して笑っている。それから、彼女も僕の隣に大の字になって倒れた。

「一度やってみたかったの。雪の上に寝っ転がるやつ」

 空を仰ぎながら陶子が言った。

「ねえ、ふかふかであたたかくて、空は晴れていて、気持ちがいいね」

 手を高く伸ばした陶子の腕から、さらさらと雪が舞う。僕の顔にかかり、束の間ひんやりとした。

 ネージュ・ララマンとも、こんなふうにしたのだろうか。

 記憶の中の空は晴れ渡っていた。ちょうど今日みたいに。雪野原に来ても、彼のことをはっきりとは思い出せない。どうしてこの場所が彼と一緒にいた最後の記憶なのだろうか。僕は歯痒さに目をぎゅっと瞑った。

 隣で陶子が起き上がった気配がした。横を向くと同時に、顔の上にどさっと雪の塊が落ちてきた。

「うわっ」

 思わず声を上げると、もう一発お見舞いされた。

「雪まみれの雪日くん」

 そう言って陶子はキャハハッと笑った。

「やったな?」

 僕はさっきまでの感傷を忘れ、大きな雪玉を作って陶子に投げつけた。彼女はひらりと身をかわし、手に持っていた雪玉を二つ投げてきた。二発とも僕に当たり、着ていたコートの前面が白くなった。

 僕たちは走り回りながら雪玉を投げ合った。コントロールが悪いのか、僕の雪玉はちっとも陶子に当たらなかった。陶子は雪玉を作って投げるという動作が早くて、一度に何発も飛ばしてくる。そのうち一発は必ず僕に当たった。

「雪日くん、下手くそー」

 陶子に馬鹿にされた僕は意地になって大きな雪玉を作り、彼女がしゃがんだ隙に振りかぶった。ソフトボール大のそれは彼女の頭めがけて飛んでいき、こちらを向いた彼女の顔面にどかっと当たった。僕もさっき顔の上に雪を投げられたので、これでおあいことばかりにガッツポーズをしてやった。

 ところが、陶子は顔を押さえたまま動かない。

「陶子?」

 僕は不安になって、彼女の様子を見に行った。

「大丈夫?」

 そう問いかけたとき、パタタッと雪の上に真っ赤なものが落ちた。血だった。

 陶子は鼻を押さえながら呆然としていた。それを見ている僕も、時が止まったように硬直した。彼女の両手が赤く染まっていた。雪の上に落ちた血はじわりと広がり、白とのコントラストに鳥肌が立った。

 

「危ない、雪日!」

 

 突然、つんざくような声が耳を襲った。目を見開いて辺りを見渡しても、どこまでも白い雪野原と血を流す陶子の姿しか映らない。

 

「ネージュ・ララマン!」

 

 幼い声も聞こえた。変声期前の高いその声は、間違いなく僕のものだ。

僕はわかった。二つの声は、僕の内側から発せられたものだった。耳に直接聞こえたわけではなく、僕の記憶が鼓膜を蹴り飛ばしていたのだ。それに気づいた途端、僕はもうあの日の中にいた。

 

 ***

 

 見渡す限り白一色の雪野原。

 あの日、僕は母さんの実家から距離のあるこの場所まで、遊びに行ってくると言って出かけたのだ。ネージュ・ララマンと一緒に。「冒険、です、ね、ゆき、か」

 彼は目を糸のように細めて楽しそうに言った。

 雪の中でスキップをした。足がもつれてうまくできなかった。雪の上に倒れ込み、二人で笑った。ネージュ・ララマンが寝っ転がった跡はでこぼこして不思議な形をしていた。

 こんなに積もった雪を見るのは初めてだった。はらはらと降って薄く積もっても、息をする間に溶けていってしまう。そんな雪しか見たことがなかった。僕とネージュ・ララマンはじゃれあって、塊になって転げ回った。雪まみれになって、指先はカチカチに冷たくなったけれど、体の中は火照って熱かった。雪は冷たすぎるほど燃えるように熱く感じるものなのだと知った。

 雪だるまを作ろうと、ネージュ・ララマンと雪を固めていると、遠くに人影が揺れた気がした。ネージュ・ララマンは気づかずに一生懸命雪を盛り上げている。僕は手を止め、目を凝らした。やっぱり人が立っている。僕たちが歩いてきた道の先に。じっとこちらを見ているようだけれど、遠くてよくわからない。

「雪日?」

 ネージュ・ララマンが僕を見上げた。そのとき、向こうでキラッと黒い何かが光った。

 

 パンッ

 

 乾いた音がした。

「危ない、雪日!」

 ネージュ・ララマンの叫び声が耳をつん裂いた。同時に彼が僕を突き飛ばした。

 目の前に真っ赤なものが飛び散った。細い線のように見えたけれど、雪の上に落ちたそれはじわりじわりと雪の白を侵食して広がった。僕は何が起こったのかわからなかった。音がしたほうに目をやると、さっきの人影はもうなかった。

 ネージュ・ララマンの体からは、赤い液体がどくどくと溢れていた。彼の周りの雪は赤に浸されていた。

 これは、血だ。

 そう気づいたとき、僕は思わず叫んだ。

「ネージュ・ララマン!」

 彼の体に触れる。温度が感じられない。僕の手が氷みたいに冷たいからだろうか。

「ネージュ・ララマン、ネージュ・ララマン!」

 僕は夢中で叫んだ。彼の細っこい体のどこにこんなに血が潜んでいたのだろう、と思うくらいにあとからあとから溢れて止まらなかった。

「ネージュ・ララマン、ねえ、大丈夫? ネージュ・ララマン!」

 ネージュ・ララマンの表情からは何の感情も読み取れなかった。苦しそうにも辛そうにも見えない。でも笑っていないし、嬉しそうでも楽しそうでもない。電池が切れたおもちゃみたいに、ぐったりと無表情だった。

 僕はネージュ・ララマンを抱き抱えた。だらんと腕を垂らしたまま、彼は口を開いた。

「ゆ、きか……」

「ネージュ・ララマン!」

「今日、の、こと、は、忘れ、るので、す……」

「ネージュ・ララマン……」

「忘れ、るの、ですよ……」

 ネージュ・ララマンの口は大袈裟なほど震えていた。僕は泣いていた。忘れるというのがどんなことなのか、その言葉を口にする者がこのあとどうなるのか、僕は何も知らなかった。知りたくなんかなかった。

「ねーじゅっ、ららまん……」

 僕はしゃくり上げながら、彼の名前を呼んだ。

「ゆ、きか、は、わた、しの、たいせ、つな、人……ずっと、ずっ、と……」

 ネージュ・ララマンは震えながら赤く染まった手のひらを僕の頬に当てた。

「大切な、人を、見つけ、るのです、ゆき、か」

 それがネージュ・ララマンの最期の言葉だった。彼は力尽きたように、動かなくなった。

辺りはしんと静かだった。雪が音を吸い込んで消しているみたいだった。真っ白と真っ赤。決して調和するはずのない二つの色が、お互いを避け合いながら一つにまとまっていた。

 

 僕は泣きながら母さんの元へ戻った。撃たれたとうわ言のように繰り返す僕に母さんは、

「あなたは普通なの、大丈夫、どこもおかしくなんかない、大丈夫よ」

 と何度も言い聞かせた。

翌日、銃を持った男がこの付近で捕まった。男は、子供を銃で撃った、と言っていたそうだ。

 僕は無傷だった。だって、ネージュ・ララマンが助けてくれたから。彼はさよならさえも言わないまま、雪に溶けるようにしていなくなった。忘れるつもりなんてなかったのに、僕はこの日のことを記憶の隅に追いやってしまった。

思い出せて、よかった。そうじゃなかったら僕は、永遠に君を失っていたから。

 

 ***

 

 陶子の鼻血が止まるのを待って、僕は話し出した。

「あのね、陶子。ネージュ・ララマンはもういないんだよ」

 涙は出なかった。悲しくはなかった。

「思い出したんだ。僕と彼の話を、してもいいかな」

 陶子は僕の目をまっすぐに見て、頷いた。鼻の下にうっすらと血の跡がついている。

「僕はね、小さい頃からへんてこなものが見えたんだ。でも他の人にはずっと内緒だった」

 雪の上に散らばった陶子の血は日の光に照らされ、眩いほどにキラキラと輝いていた。それはまるでいつの日にか見た光の血のように透き通っていて、ほんの少し甘い匂いがした。

「見てはいけない、見えないのが普通なんだと言われ続けてきた。でもどうしたって、僕には見えるんだ」

 陶子の顔にも光が当たっている。透明なベールが彼女の周りを覆っていた。真剣な眼差しで僕の目を見つめ返す彼女を、時折ベールが揺らめきながら隠そうとする。

「ネージュ・ララマンは、僕の友達だった。彼の最期を忘れるなんて酷いよな。僕はとても弱かったんだ。彼が僕を守っていなくなったこと、きっと耐えられなかったんだ」

「今は耐えられるの?」

 陶子が口を開いた。透明なベールがさらりと捲れた。

「うん」

「どうして?」

「それは多分、大切な人ができたから」

 僕は一言ずつ抱きしめるようにゆっくりと言った。陶子の瞳が揺れた。

「ネージュ・ララマンは最期に言ったんだ。大切な人を見つけてって。彼は僕のせいで消えてしまったのかもしれない。でも、今は思うんだ。僕が大切な人に出会えるように、場所を空けてくれたんじゃないかって」

 陶子は僕の目から視線をそらした。僕のおでこを見る。眉毛のあたりを見る。鼻を通って唇を見る。そして、再び目を見つめた。

「僕は君と出会って、初めて自分を認められたような気がする。自分は特別な存在なんだって思えた。自分を認めた上で大切な人ができたなら、その人は寂しさを埋めるとか寄りかかるための相手じゃなくて、一緒に歩いて行ける人なんだって思うんだ」

 陶子の唇が震えていた。瞳にはたくさんの雫が、今にもこぼれそうに溜まっている。ベールはいつしか僕と彼女を包むように、風にはためいていた。

 出会ってくれてありがとう、と言ったら彼女は堪え切れずに泣いてしまうだろうか。さすがにキザかな、と躊躇っていると、

「雪日くん……」

 鼻水混じりのぐすぐすとした声で、陶子が僕の名を口にした。

「ん?」

陶子からついに溢れた涙は柔らかな頬のラインを伝って、彼女の手の甲にぽとりと落ちた。言葉の続きを待っていた僕は、ああ、と気づいた。

陶子も僕と同じ気持ちなんだ。

 言われなくてもわかってしまう愛おしい特性に、僕は心の中でありがとう、と呟いた。

秋醒め

起きていても、目醒める瞬間というものがある。  部屋の窓を開けたとき。その窓から流れこむ風が冷たく澄んでいたとき。息を吸い込んで、肺の奥が透明になったとき。  白く煙る部屋の中、わたしは二度目の目醒めを朝日に送る。  わたしの部屋は東向きなので、遠くの山なみから太陽が昇ってくるところがちょうど見える。山のてっぺんが赤い線で結ばれて、いくらもしないうちに階下の家々が輝きだす。  屋根の端や窓に光があたって無造作に散っていくのを、わたしはいつも瞬きを早めて眺めている。  光源を見すぎて目の前が白く曇りだしたら、一旦窓を閉めてベッドに戻る。仰向けになり目を閉じる。  鳥の声が聴こえる。とぼけた鳴き方を飽きもせず繰り返すのは、何という鳥だろう。  家の中からはまだ何も聞こえてこない。一階で寝ている母は一時間後の六時半に起きる。隣の兄の部屋からも物音一つしない。  この家で呼吸をしているのはわたしだけなのではないか。  そんな考えが浮かぶ。これもいつものことだ。  目を開ける。足元を朝日が照らしている。  身を起こし、布団の上の光があたっているところに両手を置く。ほんの少しだけ、熱を感じる。猫がうずくまっていたあとみたいな、柔らかい熱。  やがて赤い朝日は空に馴染んで白色灯のような光になる。明るかった部屋も翳る。布団の上の熱も冷めていく。まるで夢から醒めるみたいに。  壁に馴染んでしまって消せなくなったクレヨンの落書きが、いつまでもそこにあるようだ。わたしの耳の穴をヘッドホンから流れる音楽がひっきりなしに行き来している。口をぽけっと開けて、首を縦に振りながら聴いているわたしの姿が、窓ガラスにうっすら映っている。  秋雨が降っていた。窓を閉めているから雨の音は聞こえないけれど、雨粒の大きさや降る速さから音を想像する。さあさあ、だろうか。音というのは不思議なもので、しとしとと、ざあざあ、ごうごう、など一度でも形容されてしまうと、もうその音にしか聞こえなくなる。どんなに透明な気持ちで聞いても、擬音語に耳が絡め取られる。  わたしは雨音を言い表す絶対的に新しい表現を作りたいと、いつも考えている。でも、例え逆立ちして上に昇っていく雨粒を見つめたって、へおへお、とか、まぼまぼ、には聞こえない。黒カビみたいにわたしの鼓膜にべっとりと張りつき、呪いのように囁き続けるのはやっぱり、さあさあという表現しかなかった。  不自由だな、と思う。誰かの、何かの感性に取り憑かれてしまったわたしの感覚器官は、いつも正常に作動しない。初めて見た景色も、どこかで聞いた言葉で表してしまう。まったくの新しい言葉なんてこの世にはなくて、あるいはもう出尽くしてしまったのではないかと思う。わたしは誰かのおさがりの表現をしれっと使い込んでいるだけなのだ。  それでも音楽は、使い古しだってどこかで聴いたことがあったって、そんなの構うもんかという強気な姿勢だから、わたしは好きだ。話そうとすると言葉に詰まってしまうわたしでも、音楽を聴いているときは饒舌になれる。声には出さないけれど、頭の中では常に喋っていて、ベルトコンベアのように滑らかに喉の奥から言葉が運ばれてくる。  ヘッドホンを両手で押さえ、わたしの体に音楽を閉じ込める。耳から入った音楽が脳天に達し、顎の先を伝って喉へ落ちていく。内臓を駆け、膝の辺りで一旦休んでから爪先へ。手の指から肩まで一気に昇り、こめかみで弾みをつけてまた脳へ巡っていく。わたしの体内では、血液とは違うルートで音楽が循環している。  ピアノ曲が聴きたくなった。わたしは今聴いている洋楽を止め、ところどころに傷がついている正方形のプレイヤーに別のMDをセットした。前に父の部屋から大量に拝借したMDには、一つ一つアルバム名と曲目が書かれたシールが貼ってあった。生真面目に口を結んだ父の顔が浮かぶ。  父は数年前から単身赴任をしていて、家には滅多に帰ってこない。音楽好きな父の部屋はクラシックやジャズ、ロック、フォークソングなど様々なジャンルのアルバムが揃っていて、宝部屋のようだ。さらにそれらをいちいちMDに焼いて、あ行から順に棚に並べている。真四角で片手に収まるサイズ感と、聴いたとき少しざらざらとしたノイズが入るところが気に入って、わたしはすっかりMD信者になった。  今日は雨が降っているから、ジョージ・ウィンストンのCloudy This Morning をエンドレスリピートしよう。ピアノソロで、雨のそぼ降る暗い森の中を手探りで彷徨っているような雰囲気の曲だ。曲名にはCloudyとあるけれど、わたしには雨のイメージのほうがしっくりくる。季節はちょうど今と同じ秋だ。深い森の中で、何度も何度も同じところを行き来して、途方に暮れた少女が一人。雨に濡れ、泣きそうな顔で懲りもせずまた同じ道を進んで行ってしまう、愚かな少女。  三回目のリピートで、開始五秒ジョージがピアノの鍵盤を二回高く鳴らしたとき、部屋のドアもコンコンと二回叩かれた。ヘッドホンを外すと、母の弱々しい声がドア越しに聞こえた。 「色葉、ご飯ここに置いておくからね」  わたしは答えない。わたしの中に閉じ込めた音楽が、声とともに逃げて行ってしまう気がするからだ。頷いてみたけれど、当然ドアの向こうの母には伝わるはずもない。  部屋のドアは何重にもロックされた鉄の重い扉などではなく、簡単に蹴破られてしまいそうな木製の薄いドアだ。おまけに鍵もついていない。だから、入ろうと思えばいつでもドアノブを回すだけでこちらへ来ることができる。それなのに、母はいつもノックと短い言葉と食事を置いていくだけで、部屋には入って来ない。わたしが入るなと言ったわけでもない。怯えたように喉を震わせ、捻り出すように声を発する。向こう側にいる母は一体どんな表情をして、どんな格好をして、どんな気持ちで立っているのか、わたしにはわからない。最後に母の顔を見たのはいつ頃のことだっただろう。  部屋の外にはしばらく母の気配があったけれど、そのうちスリッパの音がゆっくり遠ざかっていった。わたしは再びヘッドホンをかけ、森の中へ戻った。  夕方になっても雨はまだ降り続いていた。わたしはヘッドホンをはずし、窓の淵に両腕を置いて外を眺めた。  濡れて黒光りしているアスファルトと、流れ落ちる水滴によって立体感が増した屋根の輪郭を目でなぞる。ベランダの柵を叩く雨粒を数え、雨音を瞬時に聞き分ける。傘をさして歩く人とささない人は、傘を持っているかいないかの差だけではなく、何かもっと根本的な、例えばその人の体を流れる血液だとか細胞だとか遺伝子だとか、そういった内側の重要な働きが差を生んでいるような気がする。  傘をささない人の中にも、濡れるのを避けるように腕を額にかざし小走りする人や、雨など降っていないかのように悠々と歩いていく人がいる。彼らも同じように体固有の営みによって左右されているのだろう。  こうやって一人思考を巡らせていると、自分が偉大な詩人にでもなったかのような気になってくる。細分化の最先端はわたしによって築かれたのだという根拠の見当たらない自信が、目まぐるしく脳裏を飛び交う。目に見えるもの、聞こえる音、起こった出来事を細かく千切ってその一つ一つに潜っていくことが、わたしの自己肯定感を高める唯一の方法だった。  ガラガラ、と隣の部屋の窓が開く音がした。隣の、兄の部屋とはベランダがつながっている。わたしも窓を開け淵から身を乗り出したが、部屋の中に引っ込んでいるのか兄の姿は見えなかった。 「拓波」  呼びかけると、向こうで空気がひずんだ気配がした。しばらくして、兄のどむどむとしたベースのような低い声が聞こえた。 「何」 「今起きたの? 優雅だね」 「それはお前もだろ」 「わたしはずっと起きてたよ」 「ふうん」 「雨止まないね」 「秋雨前線が停滞してるからな」 「気象予報士みたい」 「別に」 「明日も雨かな」 「だろうな」 「雨だと拓波の髪の毛爆発しちゃうよね」 「うるせえよ」  わたしは兄の綿菓子みたいな癖毛を思い浮かべた。昔から兄の髪は毛量が多く、うねうねと四方に広がってしまう。雨の日は特にとっ散らかっていた。髪を梳いても、一週間も経つとすぐにもくもくと増え始める。仏頂面で髪をいじる兄の周りを、幼いわたしはケタケタと笑いながら走り回っていた。 「お前の髪はまっすぐでいいな」 「心がまっすぐだからね」 「何を言ってるんだか」 「本当だもん」 「じゃあ俺はひん曲がってるのか」 「そういうことだね」 「なわけないだろ」 「わたしよりは曲がってる」 「そりゃあまあ、大人だからな」 「四つしか違わないでしょ」 「ハタチの壁は大きいよ」 「拓波はおじさんみたい。若々しくない」 「お前はガキくさいな」 「うるさいよ」  くく、と兄が笑った。兄は笑うと声が掠れる。低い声のまま笑うことができない。子供の頃はセサミストリートに出てくるエルモのような可愛らしい声をしていたけれど、変声期がきて低くなってしまった。声の変化に伴い、兄はあまり自分から喋らなくなった。わたしとはくだらない話もしてくれるが、両親が話しかけても一言返すくらいで会話らしい会話はしなくなった。  拓波はお母さんとお父さんのこと嫌いなの?  自分の声が嫌いなんだ。  どうして?  低くて汚いから。  そんなことないよ、わたしは好きだよ。  じゃあ色葉とは喋るね。  うん!  何年も前にした会話を今でも覚えている。兄はあれから自分の声を好きになれたのか嫌いなままなのか、わたしにはわからない。訊いて、嫌いと言われたら、わたしはきっと悲しくなるだろう。兄が自分自身を嫌うことは、わたしを深く傷つける。  それは多分、同じ母のお腹から生まれたからとか血がつながった兄妹だからという理由ではなくて、もっと単純にわたしは兄のことが愛おしいと思っているからだ。兄を形成するもの、取り巻く空気、仕草の一つでさえ拓波という人間の真髄を表すものだから、わたしは澄み切った目で見なくてはならない。風通しのいい耳で聴かなくてはならない。些細な振動ですら敏感に感じ取らなくてはならない。それが愛おしいということだと思うから。 「そうだ、お前飯くらい食えよ。母さんが悲しむぞ」 「忘れてた。朝も昼も食べてないや」 「腹減らないのか」 「あんまり。食べなきゃって思うと余計減らない」 「まあそういうもんだよな」 「うん」 「でも食べとけ。痩せ細るぞ」 「肉まんみたいになるよりはマシ」 「ポッキーみたいになってもいいのか」 「それは嫌」  わたしの即答に、兄はまた掠れた声で笑った。  雨は小降りになってきた。ベランダの柵に絶え間なく当たり弾けていた雨粒は、遠慮がちに柵を撫でるようになった。長いこと窓を開けていたので、体が冷えてきた。窓枠に置いた手が冷たくなっている。指を動かすとカサカサと乾いた皮膚の表面が、摩擦を生んだように痛んだ。 「そろそろ窓閉めるわ。じゃあな」  兄も同じように感じているのか、そう言って話を切り上げた。 「うん」  向こうでガラガラと窓の閉まる音がした。ついでにカーテンを閉める音もして、兄の部屋は静かになった。  わたしは兄の部屋に入ったことがない。覗いたことならあるが、兄は自分の世界を大切にしているから、家族にあれやこれやと詮索されたり、自分の領域に入って来られるのを嫌がった。兄に直接言われたわけではないけれど、わたしも兄のように人に自分の空間を侵食されることを嫌うタイプだから、兄のそういう考えを尊重していた。  わたしたちは兄妹で、家族だけれど、お互いの時間と空間に不用意に入ることはしなかった。わたしと兄の間には大海が横たわっているけれど、そこにはちゃんと橋が架けられていた。定期的にメンテナンスをして、欄干の埃を取り、ひび割れた部分はすぐに補修してきた。同じことを兄も向こう側からしてくれていた。わたしと兄の橋は虹のように消えてしまうものではなく、太い鉄骨でできた頑丈なものだと、わたしはそう思っていた。  わたしも立ち上がって窓を閉め、すっかり暗くなった部屋に明かりをつけた。天井のLEDが、わたしの暗がりに慣れた目をゆっくり明るさに溶かしていった。  ***  一番古い記憶というものがわたしの脳みその中にはあって、もちろんわたしだけではないだろうけれど、その刻み込まれた記憶がときどき断片的に顔を覗かせることがある。多分、三、四歳頃のこと。五歳まではいっていなかったと思う。わたしがそれくらいの年齢だということは、兄は小学校二、三年だろう。  母や兄から聞いた話によればわたしは幼い頃、好奇心に手足が生えているような子供で、目に映るもの手の届くものすべてに興味を持ったそうだ。何でも触り、握り、千切る。兄の宿題のプリントを破ることもしばしばあったらしい。  わたしが一番古い記憶として覚えているのは、びりびりと何かを破いたり切れ端を口に入れたりして遊んでいたことと、それを目にした兄の表情だ。そのときの自分の感情なんてわからない。ただ兄の感情は、記憶の中の兄の顔の配置と今の知識をつなぎ合わせると見えてくる。  下唇を歯形がつくほど噛み締め、眉間に深い轍ができていた。目はわたしを通り越してどこか別のところを見つめていた。赤く潤んでいた気もする。呼吸が荒かった。  兄はわたしの指を一本ずつ開いていき、ぎっちりと握り締めていた紙屑を取り除いた。表情はそのままなのに、わたしの指に触れる手はやさしく動き、束の間気持ちよさに包まれた。 「ごめんな」  兄は床に散らばった紙屑を拾い集めたあと、わたしに向かってそう言った。これは今思い返しても謎めいている。紙屑を抱えた兄の両手は震えていた。本当なら謝るべきはわたしのほうなのに、目を真っ赤にして生まれたてのひよこみたいに震えて、それでも兄はわたしを叱らなかった。口に入った虫を外に逃すまいとしているようにぎゅっと固く閉じられた唇が、わたしに荒々しい言葉を叩きつけることはなかった。そのために薄い唇を開くなんてことは決してしなかった。  ***  そのあとどうなったのかは覚えていない。記憶はやっぱり断片的で、思い出そうとしても次に浮かんでくるのは、食卓に出たブロッコリーをこっそり床に落としていたのが母に見つかって、こっ酷く怒られたことだった。  兄に訊いてみようと思ったこともあるけれど、あの紙が兄にとって大切なものであればあるほど、わたしは自分の無邪気さが許せなくなりそうで怖かった。その無邪気さは過去の産物であり、今はもう失われているか形を変えているものであったとしても、むくむくと立ち込めてくる積乱雲のような怒りは、わたしの手に負えるものではなかった。 「拓波はすぐ謝る」  一人で部屋に閉じこもっていると誰とも喋る必要がないので、声が出なくなってしまうのではないかと思うときがある。今、独り言に選んだのはこんな言葉だった。別に、兄はすぐに謝る癖があるわけでもないけれど、一番古い記憶にいる兄がわたしに謝っていたから、以来兄がごめんなと言う姿ばかり集めて記憶に放るようになってしまった。  兄がごめんな、と言うときは、大抵兄は悪くない。どうにもこうにも立ち行かなくなって、わたしも兄も途方に暮れて足が竦んだときに、呟くように言う。口からスイカの種を出すみたいに、ぽ、と。何の解決にもならないけれど、兄のごめんなはわたしの夕暮れに明かりを灯してくれる。ここからまた歩いて行ける、と決意に似た強い気持ちを湧き上がらせてくれる。  実のところ、わたしは兄のごめんなが好きだった。言わせようと仕向けることはしないけれど、兄が言ってくれるのを待っている節はある。兄の薄い唇がごめんな、と動くのを見逃したくないし、低い声でそう言うのを聞き逃したくなかった。心臓の奥深くに染み込んで、そこで静かに息をしている。体温が低い兄の、ほのかに温度を孕んだ言葉。冷たい手で温かい水を掻き混ぜるように、境目が曖昧になる瞬間が待ち遠しかった。  ベッドの中で微睡んでいると、カーテンの隙間から覗く窓の外が白んできた。あと何時間もしないうちに日が昇る。わたしは同じ朝を繰り返す。今日も雨が降るのだろうか。カーテンを少しだけ開け、空模様を確認する。厚い雲が空を覆っている。太陽は見えないかもしれない。今日聴く音楽は何にしようか。雨ならやっぱりピアノ曲がいい。そんなことを考えながら耳を澄ます。薄い壁の向こうにいるはずの兄は、深い眠りの中にいるのか気配が感じられなかった。  ショパンの雨だれのプレリュードは、雨の日に聴くに限る。降り続く雨が嫌にならないのは、こういった日に合わせたお気に入りの音楽があるからだ。  わたしは本棚に背を預け、窓の外を見ながら雨だれを聴いていた。最初の優雅な貴族のティータイムのような雰囲気の曲調が、一分五十秒あたりから雲行きが怪しくなってくる。不穏な色の空に人々の表情も険しくなる。けれど、雲間を割くように差し込んできたのは、希望のような一筋の光だった。そんなイメージで雨だれを聴く。  そういう曲ではないのかもしれない。ただ雨模様をトレースシートに書き写すみたいに、正確に音に立ち上がらせただけなのかもしれない。音楽や物語に希望なんてものを見出すのは少し野暮ったい。すぐ飽きてしまうのに、希望を見つけたことを懲りずに逐一報告したくなる。それはただの音や文字でしかない。それ以上でもなければそれ以下でもない、等身大の置き物のような冷たいものなのに。  わたしはどうして希望を探してしまうのだろう。誰かの言葉の端々にも、時間の流れの中にも、嫌になるくらい延々と目を凝らしている。耳が遠くなって視力が落ちて、理解する力も覚束なくなったとしても、わたしはまだ見つけようとするのだろうか。無意味とは言えないが、有意義であるとも言えない行為。婉曲した大掛かりな言葉の端っこで、掻き乱すように希望を探り当てるつもりなのだろうか。  ヘッドホンを外した。このおやきみたいな耳当ての中ではまだ雨だれが鳴っている。誰かに縋りたくて堪らない。つい十数分前のわたしと今のわたしでは気分が激しく違っていて耳鳴りがする。立てた両膝に顔を埋めた。息を大袈裟に吐き出してみたり、額を膝に強く押し当ててみたりした。わたし一人では抗えないほどの巨大な不安が、怪物のように部屋の中を右往左往していた。  見つかったら喰われてしまう。わたしはますます体を小さく丸くして、不安に気づかれないようにできる限りの努力をした。誰かに縋りたくて堪らない。けれど、わたしはこの部屋の中では圧倒的に一人きりだった。誰もわたしの世界を侵食してこない。でもそれは、わたしが世界に取り残されたということの裏返しだ。  コンコン、とドアがノックされた。母のか細い声がヘッドホンをしていない耳に直接届いた。 「色葉、朝ご飯、食べてね」  母の声は疲れ切っていた。わたしは返事をしなかった。縋りたいと思っていながら、今声を出すことはわたしの脆さや危うさが土砂のように流れ出てしまう気がした。ドアを弾き飛ばし、向こう側にいる母をも飲み込みかねない。そんなことになれば、わたしは何のためにこの部屋に一人きりでいるのかわからなくなってしまう。  母のスリッパの音が遠ざかって行く。躊躇いがちにときどき止まりながら、おそらくわたしの部屋を振り返っているのだろう。  兄には食事を摂れと言われたけれど、どうしても食べる気にはなれなかった。胸がいっぱいで、鳩尾のあたりを押すと何かいけないものが溢れ出してきそうだった。わたしの体内には今まで溜め込んだ余分な栄養がたくさんあるから、少しくらい食事をしなくても生きていける気がする。無理やり食べ物を口に運ぶことは、必ずしも生命を維持するのに有効であるとは思えなかった。  朝ご飯に手をつけないまま正午になり、昼ご飯が運ばれてきた。部屋の外で母の小さなため息が聞こえた。 「色葉……」  ため息と一緒に吐き出したわたしの名前のあとには、何も言葉が続かなかった。かちゃかちゃと音を立て、母はお盆を持って去って行った。  尿意を感じ、わたしは部屋を出てすぐ隣にあるトイレに行った。食事を摂らないからトイレには一日二回程度しか行かないけれど、そのたった二回ですら酷く億劫だった。ドアを開けるたび、わたしの構築してきた世界が崩れてしまう気がするのだ。藁の家のようにあやふやで儚いわたしの世界。崩れてしまえば、また一から作り直さなくてはならない。  本当は世界とか、そういうものに頼らないで生きていたい。わたしは壊れた世界を積み上げながらいつも思う。自分の世界って、なんだか幼くて笑ってしまう概念だ。自分の世界を構築するって、まったくの作り話を聞かされるよりも滑稽だ。苦々しくて青くさい。真面目に追いかけている自分が馬鹿馬鹿しくて、まともじゃない気がする。それでも律儀に、壊れたら作り直してしまうわたしがいる。矛盾していてキモチワルイ。  便座を離れ水を流すときにふと、便器に溜まった尿が目に入った。生命力の塊みたいな真っ黄色をしていた。流すのを躊躇うほど輝いているそれは、確かにわたしから出たものだった。ほら、食事を摂らなくたってこんな春の産声のような綺麗な色のおしっこが出るじゃない。生きて、生きて、と叫んでいるじゃない。わたしはきっと何も間違っていない。  日が暮れてきた頃、薄い壁の向こうで窓の開く音がした。わたしはすかさず自室の窓を開け放った。 「拓波」  外は小雨が降っていた。雨音の合間に、兄が長く息を吐いた気配が伝わってきた。煙草でも吸っているような雰囲気だが、兄は煙草が大嫌いだと言っていた。無遠慮に匂いが纏わりついてくるところが嫌なのだと。 「おう」  ややあって、兄が短く返事をした。暗がりにぼうっと浮かび上がる蝋燭のような声だった。 「拓波、寝てたんでしょ」 「寝てねえよ」 「勉強?」 「まあな」 「拓波って何学科だっけ」 「哲学科」 「難しそう」 「まあな」 「めっちゃ考えてそうなイメージ」 「頭がパンクするまで考えるよ。生きるとは何か、とか」 「生きるとは何なの?」 「知らねえな」 「駄目学生だー」  わたしが笑うと、兄も声を上げて笑った。掠れた声が雨に混じって、わたしの耳の中で一つの音楽になる。心地良くて意識が反転しそうだ。 「実際のところ、考えても考えても答えなんて出ないんだよ。これだ、と思った結論も、次の日に冷静に考えてみたらどこかちぐはぐで胡散臭く思えたりな」 「そんなもんなんだねえ」 「だから俺は、何事にも答えは存在しない、って結論づけることにした」 「それって、あり?」 「知らねえ」 「拓波、哲学科向いてないんじゃないの」 「それを言うな」 「でもさ、数学とかには答えはあるじゃん」 「あるな」 「それはどうなるの。何事にも、に含まれないんじゃないの」 「数学のことは数学科に任せておけばいいんだよ」 「大雑把過ぎ」 「俺は本来、考え過ぎるタチなんだ。意識して考えないようにしないともたないんだよ」 「じゃあ哲学科になんていたら駄目じゃん」 「そうだな」  兄が笑うたび、喉に引っかかる声がわたしの鼓膜をくすぐる。わたしの体に爪痕を残すように、兄はやさしく声を発する。何故、どうして、と問うことは、わたしと兄の間には必要ない。言わなくてもわかるから、とかそんな安易なことではない。走ると無条件で呼吸が苦しくなるように、けれどそこには身体の様々な機能が関係しているように、わたしと兄は無数の選択の中から選び選ばれて、ここで血を分けているのだろう。柔らかい胸がわたしを抱いているようだ。 「拓波、わたしも実は考え過ぎるタイプなんだよ」 「知ってる」 「え、本当?」 「お前は俺より深く考えるからな。て言うより、気にし過ぎだ」 「そうなのかな」 「あんまり気にすんなよ。いいことないぞ」 「でも」 「俺みたいになるぞ」 「え?」 「まあ、考えるのもほどほどにな。じゃあ、もう戻るわ」  そう言って、兄は窓を閉めてしまった。 「拓波」  呼びかけても、閉じられた窓の向こうにいる兄は何の反応もしてくれなかった。諦めてわたしも窓を閉めた。かすかな雨音も聞こえなくなった。  ***  わたしが八歳くらいのとき、わたしと兄を置いて両親が出て行ってしまったことがあった。何てことはない、ただ知り合いのお通夜に参列しに行っただけなのだが、その事情を知らされていなかったわたしは酷く取り乱した。兄がわたしを抱きしめ、父さんたちは帰ってくるから、と宥めてくれても、一度不安に取り憑かれたわたしには届かなかった。兄の腕の中でもがき、なおもわたしを抱こうとする手を振り払った。そのくせ体が自由になると、自分を守ってくれる大切な鎧をなくしたような気になり、一人ぼっちで宙に浮いた感覚に襲われた。堪らず兄に抱きつき、泣きじゃくった。兄は辛抱強くわたしをあやした。  父さんたちは帰ってくるって、大丈夫だから。何も心配ない。お葬式に行ってるだけだから。  お葬式?  色葉はまだ行ったことなかったか。おれは小さい頃ひいばあちゃんのお葬式に行ったことがあるんだ。  ひいおばあちゃん?  仏壇に写真があるだろ。その人だよ。  ああ。  お通夜と告別式っていうのがあって、お通夜は夜にやるんだ。父さんたちはそのお通夜に行ってるんだよ。だから、遅くなるけどちゃんと帰ってくるから。心配するなよ。  うん。  兄の腕は細く頼りなくて、大丈夫だと言われてもちっとも説得力がなかった。母にべったりだったわたしは、柔らかくあたたかい腕を知っているから、兄の折れそうなひんやりとした腕では物足りなかった。  外は雨が降っていた。兄はわたしを抱きながら、時折窓の外を眺めていた。部屋の中は電気がついていたけれど、カーテンは開いていた。兄は目を細めたり見開いたりして、入ってくる光を調節しているようだった。外を走る車のテールランプの赤い光が、彷徨うように壁に映し出される。兄は目で追っていたけれど、わたしは怖くなって兄の薄い胸板に顔を埋めた。  拓波、カーテン閉めて。  いいけど、じゃあおりてくれる?  嫌。  おりないと閉められないよ。  嫌ぁ。  兄はぐずるわたしを抱き上げ、よろよろとカーテンを閉めた。わたしはコアラのように兄にしがみついていた。  夜九時過ぎに父と母が帰ってくると、わたしは兄の膝から飛び降りて玄関へ駆けて行った。母に抱きつき、父に頭を撫でられているわたしを、兄は少し離れたところから眩しそうに目を瞬かせて見ていた。それから静かに自分の部屋へ入り、翌朝まで出てこなかった。  ***  光の薄い朝だった。 体が重くて、目が醒めていてもすぐには起き上がれなかった。外の様子を見たかったけれど、手を伸ばしてカーテンを開けることすら億劫だった。布団にくるまってじっとしていた。  朝のルーティンができない日は、一日中気分が乗らないことが多い。音楽を聴いてもどこか空虚で、やる気ゲージが満タンにならない。体の中に余計な水分が溜まっていて、少し動くごとにたぷんたぷんと揺れる。雨は嫌いではないけれど、あまり降り続くと体の水分量が増す気がして面倒だった。  ベッドの中でだらだらと過ごしているとコンコン、とドアがノックされ、やや遅れて母の声がした。そうか、もうとっくに起きる時間は過ぎていたのか、と気づいた。 「色葉、ご飯食べてちょうだい。聞こえてるんでしょう?」  母の声は思い詰めたように甲高かった。昨日までの何か諦めたような声とは違う、異質なトーンだった。 「色葉、色葉……」  そうかと思えば、急に声が震え出す。うわ言のようにわたしの名前を口にする。ドアの向こうで母に何が起こっているのかわからなくて、わたしは淡い恐怖を覚えた。 「ご飯食べないと死んじゃうわよ。あなたまで、そんなことになったら……」  母の啜り泣く声がドアを通り越してわたしの部屋に充満する。一定の間隔で聞こえる、母の鼻を啜る音が耳障りだった。食事をしないくらいでいちいち泣かないでほしい。わたしと誰を重ねているのか知らないが、大袈裟な気がして不快だった。わたしは重い体を無理やり起こし、引きずるようにしてドアの前まで行った。  ドアを開けると、母が廊下に座り込んでいた。わたしの顔を見上げ、はっと息を呑んだ。 「い、いろは……」 「鍵ないんだからさ、開ければいいじゃん。別に入って来いって言ってるわけじゃないけど、そうやって泣くくらいなら押しかけてくればいいじゃん。大体、ご飯食べないからって何? そんなに泣くこと? いちいち定時に部屋の前に置かれたんじゃ、食べる気にもならないよ。少し放っておいて」  わたしは母を見下ろして吐き捨てた。思ったよりも大きな声が出なかったのは、食べていないからお腹に力が入らないせいだろう。迫力のある感じで言いたかったのに、母には淡々と言い並べたように聞こえたかもしれない。  ドアを思い切り閉めた。入ってくればいいじゃん、と言ってしまったから、母がすかさずドアを開けるのではないかと身構えていたが、しばらくすると母の気配が遠くなっていった。階段を降りる音が聞こえたので、わたしはそっとドアノブを回した。  部屋の前には何もなかった。持ってきたであろう食事も、きっと母がそのまま下げたのだ。空っぽな気持ちになった。体を貫いた空洞を風が吹き抜けていく。わたしは母に叩きつけた言葉には大きな矛盾があったことに気づいた。  ベッドまで戻り、ばふんと身を投げる。掛け布団に埋もれた顔と、中途半端にベッドからはみ出た両足は別の生き物のような気がした。上半身を置いて、足だけどこかへ行ってしまっても文句は言えない。それくらい自分の体に対するこだわりが薄くなっていた。むしろ、両足がいなくなることでこの重だるい体が少しでも軽くなるのなら、そのほうがいいとすら思った。  息が苦しくなってきた。顔を右に向けると、ベッドの前柵が見えた。小学生の頃から使っているベッドなので、柵にはポケモンやポムポムプリンなどのシールが貼ってある。日に焼けて色が薄くなり角がパリパリと捲れているシールを眺め、このポケモンは拓波がくれたものだったな、と思い出した。  わたしが父に怒られて泣きじゃくっていたとき、兄が当時たくさん集めていたポケモンのシールの中から、わたしの好きなカビゴンを一枚くれたのだった。  兄は最初わたしのおでこにカビゴンを貼って、色葉は強い子、カビゴンがついてるからね、と言っていた。わたしが泣き止むと、おでこからベッドの柵に貼り直し、いつでもカビゴンが見守っているよ、と言って笑った。  今では随分と色褪せてしまったけれど、カビゴンはまだわたしを見守り続けてくれている。わたしは右腕を伸ばして、シールに触れた。指先に乾いた感触が伝わった。  ようやく動く気になり、まずは閉めっぱなしだったカーテンを開けた。外はやっぱり雨で、ベランダの手すりに落ちてくる雨の粒が大きかった。遠くの建物を背景にして、雨が斜めに降っているのがわかった。窓を閉めていてもかすかに音が聞こえるくらい強い雨だった。  今日は雨音をBGMにすることにした。床に転がっていたヘッドホンは、コードを束ねて机の上に置いた。本棚から一冊小説を抜き取り、くるりと背を向け寄りかかった。小説はわたしが中学生のときに兄が貸してくれたものだった。当時はまったく興味がなくて長い間本棚の肥やしになっていたが、今になって読んでみようかという気になった。川端康成の、雪国。  兄は古い本が好きだった。古い本というのは文字通り、古本屋で埃に塗れた、背表紙が茶色く焼けた本のことだ。兄は高校生くらいの頃から定期的に古本屋で小説を大量に買い込んで、自室でひっそりと読むことを好んでいたようだ。  わたしは普段あまり読書をしないが、買うなら新しい本がよかった。ページをめくるたびに手に伝わってくるパリッとした感触が心地良いからだ。反対に兄は、くたっと萎びた感触が好きだと言う。  雪国は兄が一番面白いと言っていた小説だった。ただでさえくたくたの古本を繰り返し読むものだから、ページは擦り減り、見た目は煮詰めたように変色していた。面白い本貸して、と兄に言ったら、この小説を貸してくれたのだ。  兄は一体この小説のどの辺を面白いと思ったのか、知りたいと思った。雨の音に満ちた部屋で一人ページをめくるが、読めば読むほどに兄の感性がどこを指しているのかわからなくなった。  難しいわけではない。むしろ文章は読みやすい。綺麗な表現もたくさんあった。けれど、そのどれもが兄の感性というフィルターを通すと途端に曇って見えなくなっていくのだった。兄に触れようとしたのに、実際に触れたのは兄を映した鏡だった。そんな感じだ。  随分と集中していたようで、外はもう薄暗くなっていた。小説を本棚に戻すと同時に、隣の部屋から窓を開ける雑な音が聞こえた。  わたしも窓を開けた。冷えた空気が入ってきて、鼻の奥がツンとした。雨はまだ止んでいない。雨足は幾分弱まったようだ。 「拓波」  兄を呼ぶと、今日は間髪入れずに返事をしてくれた。 「おう」 「ねえ、雪国読んだよ」 「雪国?」 「前に貸してくれたでしょ」 「ああ、かなり前だろ。やっと読んだのか」 「うん。まあまあ面白かった」 「そうか」 「拓波は雪国が一番好きなんでしょ。どこがいいの?」 「今はもう一番じゃないよ」 「そうなの。じゃあ今は何が好きなの」 「わからないな。ちょっと前までは、ゲーテだった」 「何て人が書いたやつ?」 「ゲーテっていう人だよ。本の題名じゃない」 「へえ」 「興味なさそうだな」 「そんなことない」 「色葉は興味ないとき声のトーンが急に変わるからわかりやすいんだよ」 「えっ、本当に? 気づかなかった」  兄は掠れた声で笑った。  兄が雪国のどこが好きなのかは、結局わからなかった。もう一度同じ話題に戻すことはしなかった。流れてしまったものは、そのままでいい気がした。 「ねえ、拓波はさあ、何を目指してるの」 「何だよ、唐突に」 「大学で哲学学んでて、それで将来何になりたいの」 「さあな。見当もつかないな」 「自分のことなのに?」 「自分のことが自分では一番わからないんだよ。自分のことは自分が一番知ってる、なんて奴は薄っぺらな人間なんだ。テッシュペーパーよりもな」 「お、哲学科っぽいこと言った。最後のティッシュペーパーは余計だけど」 「お前こそ、将来どうしたいんだよ」 「わかりません」 「だろ? 夢とか目標を持って生きてる奴のほうが少ないんだよ」 「サンプル数があまりにも少ないと思うけど」 「お、小難しいこと言うなあ」 「統計の授業で習った」  兄はまたくく、と笑った。聞けば聞くほど、わたしは兄のこの笑い方が好きだ、と思う。両親の前ではほとんど笑わなくなった兄が、わたしの前では無防備に笑い声を上げる。窓越しで顔は見えないけれど、兄はきっと目を細めて笑っているのだろう。目の横にできる笑い皺が頭に浮かんできて、わたしは嬉しくなる。 「でもね、拓波。わたしは将来何になりたいとか夢も目標も特にないけど、この家からも出ていくかもしれないし、ずっと親の脛を齧ってるかもしれないけど、いや、早々に嫁いでいくかもしれないけど」 「前置きが長いな」 「拓波とは定期的にこうやって議論したい」 「議論なのか、これ」 「拓波が海外に行ってもう帰ってこないとか、遠くに行っちゃって会えなくなるの、嫌だ」  わたしが珍しく素直に自分の気持ちを言ったのに、拓波は息を飲んで貝のように押し黙った。呼びかけても返事をしない。沈黙が窓の外を行き来する。 「ごめんな」  やっと口を開いたと思えば、兄は謝罪の言葉を口にした。 「何が」 「ごめん」 「拓波?」 「もう閉めるぞ」  そう言って、兄は不自然なほど強引に話を切り、窓を閉めた。残されたわたしは、どういう気持ちになればいいのかわからず、ただ困惑していた。兄のごめんなは、かすかに震えていた。拓波、と呟くと惨めさのような感情が押し寄せてきた。何が兄の気分を損ねたのかわからなかった。わたしはただ、兄と会えなくなるのは寂しいと伝えたかっただけだった。  夜はなかなか眠りにつくことができなかった。天井を見上げると兄の癖毛に隠れた、澄んだ瞳が浮かんできた。寝返りを打つと、兄の掠れた笑い声が鼓膜を揺らしているような感じがする。隣の部屋からは何の音も聞こえてこない。兄がいるはずなのに、人の気配がまったくしなかった。  ***  中学二年の冬休み、大学受験を目前に控えた兄とカセットテープに自分たちの声を録音して遊んだことがある。父は仕事、母は確か買い物に出かけていたはずだった。わたしが父の部屋で見つけた古いカセットテープとプレイヤーの使い方を兄に聞いたのが始まりだった。  わたしからテープを受け取った兄は手の中で転がすように色んな角度から眺め、 「これはまだ録音する前のカセットじゃないのか」  と言った。 「どうしてわかるの?」 「アーティスト名も曲名も書いてないし」 「ねえ、これって録音できるんだっけ」 「できるけど」 「拓波、歌って! 録音しようよ」 「はあ?」 「歌手になりたい人とかがレコード会社にデモテープ送ったりするじゃん」 「お前は何をする気だよ」  父も母も受験が迫った兄には気を遣って、あまり刺激しないようにとよそよそしく振る舞っていた。母はわたしにも、お兄ちゃんの邪魔しちゃだめよ、と忠告していたけれど、わたしには夕食後勉強しに一人で自室に向かう兄の背中が寂しそうに見えていた。兄はこの頃になると、両親とはほとんど会話らしい会話をしなくなっていた。腫れ物に触るような両親の態度は、兄をますます無口にしているのではないかと思った。 「ほら、早く歌って」 「嫌だよ、お前が歌え」 「えー、じゃあ歌じゃなくて台詞を入れようよ。未来の自分へのメッセージ的な」 「俺はやらない。お前のを聞いててやる」 「だめだめ、拓波もやるの。妹命令」 「何だよそれ」 「いいから。それで、どうやって使うんだっけ」 「教えてやんねえ」  兄は話しかければちゃんと答えてくれる。からかえばからかい返してくるし、冗談を言えばつっこんでくれる。どうして両親が兄に遠慮をしているのか、わたしにはわからなかった。兄は柔らかで繊細な感性を持っていて、それは飴細工のようにキラキラと瞬いている。手を伸ばせば握り返してきてくれるのに、何故両親は兄を遠ざけるのだろう。わたしには理解できなかった。 「カセットテープにはな、A面とB面があるんだよ。録音できる時間も色々あるけど、これは六十分だな。A面とB面、それぞれ三十分ずつ録音できる。合わせて六十分ってわけ。最初はA面から入れるのな。カセットをプレイヤーにセットしてここの録音ボタンを押す。喋るときはマイクに向かってな」  教えないと言いつつも、兄は丁寧に使い方を説明してくれた。 「ちゃんと喋ってよ」 「だから俺はやんないって。ほら、録音するから、いくぞ」  ランプが赤く光った。 「えーと、えーと、色葉です。未来からやってきましたー、じゃなかった、過去からきました?」  わたしのぐだぐだな出だしに、兄が吹き出した。 「ちょっと、止めて止めて! やっぱり今のなし」 「バーカ、途中で止めらんねえよ」 「えっ、そうなの? じゃあ、えっと、わたしは今中学二年生です。拓波は受験生です。拓波、ガンバレー」 「色葉が邪魔してくるので全然集中できません」  あんなに録音を嫌がっていた兄が、横から割り込んできた。わたしは嬉しくなって、兄がたくさん喋ってくれるようにわざとくだらない話題を振った。兄の低い声がテープにはどのように録音されるのか楽しみだった。 「拓波の好きな食べ物は何ですかー」 「エビフライ」 「エビフライのどこが好きなんですかー」 「どこが? なんか、美味いから」 「エビフライの尻尾を残す人を見てどう思いますかー」 「お前の足がエビフライになれ」  わたしが笑い転げると、兄も声をあげて笑った。掠れた声がくすぐったかった。  その後母が帰ってくると、兄は今までの朗らかな空気が嘘のように身を固くし、わたしに小さく「じゃあな」と言って部屋へ戻ってしまった。録音ボタンは押したままだったような気がする。  ***  いつ、どうやって止めたのだろう。どこまで録音されているのかもわからない。わたしはあれからテープを一度も聴いていない。多分父の部屋に戻したと思うが、わたしの部屋を探せば出てくるような気もする。  兄と一緒に聴こうと思い立った。階段の踊り場の奥にある父の部屋にこっそり入り、音を立てないように探し回ったけれど、MD類は以前わたしがごっそり自室に持って帰ったので見当たらなかった。もともとカセットテープは一つしかなかったことを思い出した。  自分の部屋の中も探してみた。机の引き出し、押し入れ、がらくたばかりのクリアケースの中。どこにもなかった。もしかしたら、父が捨ててしまったのかもしれない。結構な古物だったから、きっと再生されなくなってしまったのだろう。わたしは諦めて、再びベッドの中へもぐった。さっき起きたばかりだったけれど、テープを探していたら疲れてしまった。  外は今日も雨が降っていた。 「秋雨前線が停滞しているからな」  兄の口調を真似してみる。わたしの高い声では空気がうまく震えなかった。  寝返りをうち、目を閉じる。瞼がぴるぴると震えて、うまく閉じることができない。目を閉じたくないのに無理矢理閉じようとするとき、よくこうなる。わたしの瞼の内側に強力なバネでもついているみたいだ。  夕方まで、まだまだ時間がある。わたしは兄と話がしたかった。何でもいい、くだらない話。兄と話すこと以外は何もしたくなかった。体が重い。重力がわたしの体をどこかへ連れて行こうとする。わたしが昼間窓を開けても、兄は夕方になるまで絶対に窓を開けない。いつから兄と、こんな恋人の慎ましい逢瀬みたいなことをするようになったのだろう。  階段を上る足音とともに、カチャカチャという食器のこすれ合う音が部屋の外から聞こえてきた。母がまた食事を持ってきたのだ。ノックされると思い、わたしはベッドの中で縮こまった。耳障りな音は、今はすべて聞きたくなかった。  けれど、しばらく経っても木のドアは音を立てなかった。気配はそこにあるのに、母は何のアクションも起こさない。ただ静かに、部屋の外にいるだけだ。  気を抜くと、いるのかいないのかさえわからなくなりそうだった。気配が曖昧に空気に溶けるのを、母はじっと待っているようだった。そして、それは七割くらい達成できているように感じた。  ずず、と言う音が何度か聞こえて、母は泣いているのだと気づいた。鼻を啜る音が、やけにはっきりと響いていた。母は泣いていることをわたしに悟らせるためにわざと音を立てているのかもしれない。そう思ったら、気持ちが猫の毛のように逆立った。もちろん、母の真意はわからない。静かに泣くことは、実は難しいのかもしれない。でも、一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。わたしは頭の上から布団をかぶって、ダンゴムシのように丸くなった。母が鼻を啜る音はまったく聞こえなくなった。  布団の中にすっぽりと入ると、自分は冬眠している動物や土の中でひっそりと息をする幼虫のようだと思えてくる。彼らはやがて目を覚まし、広い世界に飛び出す日がくる。朝日を浴びて輝く体を存分に震わせ、歩み出すのだ。  わたしにはそんな日が来るのだろうか、とふと思った。季節は巡るし、朝と夜は交互にやって来る。けれど、わたしはその輪の中からはじかれてしまったような気がしてならない。秋に閉じ込められてしまったと、諦めめいた感情が皮脂腺を通って染み出してくる。  醒めない夢を見ているようだった。  いつの間にか、そのまま眠ってしまったらしい。息苦しくなって布団の中から顔を出した。部屋の外に意識を集中させたけれど、母の気配はもう消えていた。代わりに隣の部屋の窓が開く音がして、兄の気配が濃くなった。わたしは待っていましたとばかりにベッドを飛び降り、自室の窓を開け放った。 「拓波!」  兄とは昨日微妙な感じで終わっているので、声をかけたあと答えてくれるかどうか、少し不安だった。 「おう」  けれど、兄はいつも通りぶっきらぼうに返事をした。途端、憂いが霧散していく。 「ねえ、拓波。ずっと前に二人で録音したカセットテープ知らない?」 「何だっけ、それ」 「拓波が受験生のとき、一緒に録音したじゃん。お父さんのカセットテープ。エビフライがどうのこうの、とか」 「エビフライ?」 「拓波はエビフライが好きって言ってた」 「何も覚えてねえな」 「じゃあ拓波は持ってないのね?」 「持ってない」 「そっか。どこに行っちゃったんだろ」 「今必要なのか?」 「必要ってわけじゃないけど。拓波と聴きたいなと思って」 「残念だな」  大して残念でもなさそうに、兄は言う。  とりあえず話を合わせておこう、という魂胆が見え見えな兄の相槌は嫌いではなかった。深く同情されたり共感されることは、時としてわたしには重すぎる。もっと軽くていいのだ。兄みたいに適当でいい。軽快な合いの手が、心に積もった埃を払うことだってある。 「拓波」 「何だよ」 「エビフライは今でも好き?」 「別に。そんなに」 「拓波の好きなものって何?」 「食べ物で?」 「何でもいいよ」 「漠然としてんなあ」 「いいから」 「俺には好きなものなんてない」 「お、何かの哲学?」 「違う。本当にないんだよ」 「ないって、何で」 「昔はそれなりにあったのかもしれないけどな」 「読書は? 哲学は? 音楽は?」 「好きとは違う気がする。わかんねえ」  放り出すように兄は言った。  好きなものがないという感覚は、わたしにはわからない。わたしには絶対的に信頼を寄せている音楽がある。偉大すぎて好きとか嫌いの次元じゃない、というならわかる気がするけれど、兄の言う「好きなものがない」はきっと違う意味なのだろう。 「ねえ、拓波は彼女がいたことある?」 「は? 何でそんなこと訊くんだよ」 「いいから」 「ない」 「好きな人は?」 「知らねえよ。覚えてない」 「はぐらかさないで」 「覚えてないって。他人に興味ねえし」 「わたしにも興味がない?」 「何でお前の話になるんだよ」 「いいから」 「知らねえ」  乱暴にそう言ったあと、兄は黙り込んだ。わたしがいくら「拓波」と呼びかけても、返事もしてくれない。兄の荒い息遣いが夕闇に沈んでいく。いや、これはわたしの息遣いだ。兄の部屋からはじりじりとした沈黙が滲んでいた。  でも、窓は閉めないんだな。  前はぴしゃりと閉められたのに、今日は何も喋らない割りに窓は開けたままだ。 「拓波」  もう一度だけ、兄の名前を呼ぶ。兄のくしゃくしゃな頭をやさしく撫でるイメージで。  やはり、沈黙。  それでもわたしは兄の言葉を待った。 「大切、だった」  突然ぽっかりと穴が開くように、兄が呟いた。 「え?」 「それだけ。じゃあな」  窓が閉まる。シャッとカーテンを引く音も。  大切、だった。  兄は確かにそう言った。過去形に少し引っかかる。けれど、それ以上は考えてはいけない気がした。兄とわたしの間にある愛おしい隔たりが、深追いすることで掻き消えてしまいそうだから。  夕闇の濃い紫色を一瞥して、わたしは窓を閉めた。  ***  その出来事が起こったのは、わたしが高校二年の春だった。  学校帰りに友人と二人でマックに寄り、化学の先生の眼鏡がいつも曇っていることだの、クラスの男子の顔面レベルが著しく低いことだの、数学マジ鬼テストやばい絶対赤点だの、とめどなく溢れる湧水のように話したあと。「塾だるい」と言う友人に「頑張って」とファイティングポーズをすると、本気で嫌そうな顔をされた。  友人の乗るバスを一緒に待ち、三分遅れのバスに乗り込む彼女に手を振ると、わたしは急に手持ち無沙汰になった。何かを物色したい気分になり、いつもはあまり寄ることのない駅の東側のスーパーに寄ってみることにした。  名前がローマ時代の人名にありそうな田舎のスーパー。入り口が狭くて、商品の陳列も雑なパッとしない店。これと言ってめぼしいものも見当たらず、三分足らずで飽きた。  踵を返し棚の間から出ようとすると、反対側からこちらの棚に移ってくる人影があった。陳列された商品をぼんやりと眺め、足を気怠そうに突き出しながら歩くその人は、わたしの兄だった。  兄とこんなところで出くわすなんて。前にこのスーパーは品揃えが悪いから行かない、などと言っていたのに。どういう風の吹き回しか、わたしたち兄妹は同日同時刻に滅多に行かない不便なスーパーに来た。  兄はまだわたしの存在には気づいていないようだった。小さなお菓子の箱を手に取り、パッケージをじっと見つめている。  そっと近づいて驚かせようと思った。一歩踏み出そうとしたそのとき。  す、と音がしそうなほど流れるような手つきで、兄は肩にかけていたトートバッグの中にその箱を入れた。そして、周りを見渡すこともせず、さっきと同じ気怠げな足取りで逆側の通路に消えて行った。  耳の穴が詰まったような感覚に陥った。バックで流れていたはずの馬鹿みたいに商品名を繰り返すCMソングが、不気味なくらいに静かになった。  わたしはしばらくその場から動けなかった。兄が引き返して来て、箱を棚に戻すかもしれない。そんな淡い期待は、店内の床を滑るように渡る粉塵にも満たない憐れなものだった。  ここにいてはいけない。  わたしはそんな思いに駆られた。わたしの存在を揺るがす、とてつもない脅威が迫っていた。嘘には見えなかった。今起こったことは、兄がしたことは、嘘なんかじゃない。  わたしは自分のやるべきことを咄嗟に探した。兄の妹であるために。兄と家族でいるために。兄と心地よい関係を続けるために。わたしはどう振る舞って、世間にどんな風に笑いかければよいのかを必死で探った。  家に帰ったあとも、わたしは兄に何も訊けなかった。兄は平然としていたし、けれどどこかぼんやりとした雰囲気でもあった。陳列棚を眺めているときのような目で、食卓の上の箸や皿を見ていた。食べ終わってすぐに部屋に戻るのは、いつもと同じだった。  わたしは兄に聞きたかった。どうして、と。盗んだことなんかじゃない。そんなことじゃない。どうして、あれなの。あのお菓子なの。  小さな箱。その中にはラムネしか入っていない。あとはシールが一枚。ポケモンのシール。十分の一の確率でカビゴンが出る。兄が盗んだ箱の中には何のポケモンが入っていたのだろう。  わたしは途中で考えることをやめてしまって、それからずっとわからずじまいだ。  ***  鉛の匂いの重怠い一日が、また始まる。  体は日に日に重量挙げのバーベルのように重くなっていき、ベッドから起き上がることもままならない。食事をまともに摂っていないのだから軽くなってもいいはずなのに、何故だろう。机の上のヘッドホンに手を伸ばすことさえ億劫だ。  仕方がないから、耳を澄ます。かすかに雨音が聞こえる。停滞している秋雨前線は、いつになったら移動するのだろう。弱々しくてBGMにもならない。  何をしているのか、自分でもわからない。わたしはずっと大して広くもない部屋の中に閉じこもって、秒針が一四四〇回回るのをぼんやりとやり過ごしている。一日が水を吸った乾燥わかめのように、ふやふやと増殖していく。増えに増えた一日は、わたしをさらに部屋の奥へ追いやって、がんじがらめに縛りつける。商品棚に隙間なく詰め込まれた牛乳パックのようだ。  息ができないから、兄を呼ぶ。窓を開けると、沈澱した一日がゆっくりと撹拌されてほんの少しの空気穴ができる。兄と話すと、そこから新鮮な空気が送り込まれるのだ。  兄の横顔を思い浮かべる。お菓子の箱をトートバッグにしまったときの、ゆるく閉じられた唇。長い前髪の間から見え隠れしていた切長の目。  泣いていたのだろうか。兄は何かに締めつけられていたのだろうか。華奢な胸を、固く激しく。  わたしは兄の何分の一なのだろう。兄の中でわたしが占める割合、ということではなくて、兄の全身、全心、全魂の何分の一がわたしなのだろうか。  深い秋の裾野に佇む兄を、わたしは初めて見た気がした。兄の心にはわたしや両親ではたどり着けない裾野が広がっている。兄自身でさえ最後まで歩き切ることができないのかもしれない。  兄曰く、わたしは考えすぎるタチらしい。確かにそうだ。思考が止まらない。とりとめもないことを永遠に考えている。時計を見ると九時を過ぎていた。母が食事を持ってきた気配がしなかった。考えの深みにはまって気づかなかったのかもしれない。ドアを開けて確かめることはしなかった。わたしは再び目を閉じた。  夕方に目が覚めた。あと一時間もしたら兄が窓を開ける時間になる。決まっているわけではないけれど、いつも大体似たような時間帯に窓が開く。ベッドの中にいるとまた眠ってしまいそうなので、這い出て窓辺まで移動した。  本棚に寄りかかり、英和辞典をぱららと開く。真ん中あたりに一枚の写真が挟まっていた。小学二、三年の頃の写真。兄とのどアップのツーショットは珍しい。わたしは兄に頬を寄せ、満面の笑みでピースをしている。髪が短く、前歯が一本ない。兄は正面ではなくわたしのほうに目をやり、微笑んでいる。片側にできたえくぼがあどけなさを残している。  わたしはこの写真が大好きだった。リビングで撮った何気ない一枚。けれど、兄とわたしのすべてが詰まったような一枚。草食動物のようなやさしい目をした兄と、生意気そうな笑顔の妹。肌身離さず持っているのは何だかこそばゆいから、本棚の適当な本に無造作に挟んでいる。  わたしは写真をページの隙間に戻し、そっと辞典を閉じた。ぱたん、という音に合わせ、わたしを構成するどこか一部分のサイクルが終わった気がした。もしかしたら、何かが始まった音だったのかもしれない。体の内外で起こるさまざまな事象はいつも、気の抜けた突拍子もない独りよがりの音で始まり、終わる。触れることのできないあやふやな音。それが始まりか終わりかもわからない。  けれど、確実に音とともにやってきて、音とともに去ってゆくのだ。音楽ともつかない、不可思議な揺れの塊。  単調なリズムが恋しくなってきた。ピアノで言えば、右手は自由にメロディーラインをなぞっていても、左手はずっと同じ音を奏で続けているイメージ。ラヴェルのバレエ曲、ボレロなんかちょうどいいかもしれない。ピアノではなく小太鼓だけれど、曲の最初から最後までずっと狂いなく刻み続けられる小気味いい音は、今わたしが欲している類のものだった。  時計を見る。あと十分もしないうちに兄が窓を開けるだろう。ボレロを聴くのは兄と話したあとにしよう。わたしは机の上のヘッドホンに伸ばしかけた手を引っ込めた。本棚に背を預け、耳を澄ませる。隣の部屋にいる兄の足音一つ聞き逃さないように。  ああ、兄との会話もわたしが求めているリズムだ。  そう気づいた。兄の打つぶっきらぼうな相槌、兄と話すときに出るわたしの口癖、短い言葉のテンポのいいやり取りは、兄とわたしだけが生み出すことのできる音楽だ。わたしだけでは到底不可能だし、兄以外ではテンポが違ってきてしまう。兄とわたしの組み合わせだけが、わたしの欲求を満たす音楽を奏でることができる。  素晴らしいと思った。兄と会話をする意義がまた一つ増えた。兄はわたしの音楽だ。窓が開いたら真っ先に言ってやろう。兄はまた低い声で笑うかもしれない。お前にしては哲学的だな、とからかわれるかもしれない。早く早く、兄と話がしたかった。  けれど、時間になっても窓は開かなかった。夕闇が降りて、外が真っ暗になって、雨足が強くなっても、兄の部屋の窓が開く音はしなかった。  雨がベランダの柵を叩く。夜の底辺から転げ落ちてきたような降り方だった。もう絶対兄は出てこないとわかる時間に、わたしは自室の窓を開けた。身を乗り出して、兄の部屋を覗く。カーテンが固く閉められていて、中の様子は見えない。兄の部屋はしんと静かで、雨で浸水しているのではないかと不安になるほどだった。  こんな日もあるのか、と無理矢理納得する方法をわたしは選んだ。眠っていた、勉強をしていた、何となく面倒だった。きっとそんなどうってことない理由なのだろう。  ボレロを聴くまでもなく、雨音もまたわたしの望むリズムで柵にあたり弾けていた。眠れない夜のお供にはちょうどいい、とわたしは形だけ目を閉じた。  ***  兄がお菓子の箱を盗んだ日から、わたしは兄との距離感がわからなくなってしまった。もともと兄から話しかけてくることはあまりなかったが、わたしから話題をふることもうまくできなくなった。口を開けば、ポケモンのシールの入ったお菓子を盗んだ理由を問いただしてしまいそうだった。  箱に入っていたシールはカビゴンだった?  もしカビゴンが入っていたら、どうしていたの?  兄のぼんやりとした横顔をこっそりと眺め、わたしは今にも飛び出しそうな質問を喉の奥に押し込んだ。  わたしが話しかけなくても、兄の時間は過ぎてゆく。大学に電車で通う兄は、徒歩通学のわたしよりも少し早く家を出る。朝、食卓でトーストを咀嚼していると、リビングを出て行こうとする兄と目が合った。ははっ、と掠れた声で笑う。 「お前、なんかリスみたいだな」 「む?」 「もきゅもきゅって音が聞こえてきそうな食べ方」  そう言って、兄は玄関へ向かった。  珍しいこともあるもんだ、と兄の背中を見送りながら思った。笑い声に気怠さは含まれていなかった。口調も皮肉っぽくて、いつもの兄のものだった。ただ表情だけは、最後の力を振り絞るように儚げだった。すべてを出し切ったと語るスポーツ選手のように、発光した表情にも見えた。  閉まったドアを見つめ、わたしは今日やるべきことを一つ思いついた。それをわたしがやったからと言って兄がどうにかなるものでもないけれど。兄が世間から、家族から、嫌われたりしないように、擦っても取れないレッテルを貼られないように、わたしがどうにかしようと思ったのだ。  学校帰り、友人からのカラオケの誘いを断り、足早にスーパーへ向かった。品揃えの悪いくたびれた駅の東側のスーパー。  店内に入るとき、何もしていないのに心臓がぐるんとひっくり返る心地がした。野菜コーナーを左に曲がり少し進むと、お菓子の棚がある。通路を挟んで両面に並んだスナック類やチョコレート菓子。左の棚の中央あたりに、あの箱が置いてある。通路の向こうの精肉コーナーからは、やたらとトーンの高い女性の「ジューシーでやっわらかぁ」と言う、ステーキのCMが聞こえてくる。  あの箱に手を伸ばす。パッケージに描かれたピカチュウイーブイがわたしを見据える。箱を手に取る。裏側に小さくカビゴンも描かれてある。しばらくパッケージを見つめる。あれ、ピカチュウの顔ってこんなだっけ、と思い至る一秒前までじっと見つめる。  はっと我に返った。体が前のめりになっていた。慌てて周りを見渡す。誰もいない。一番いて欲しくない人の姿もない。わたしは唾を飲んで、箱を持ったまま一歩踏み出した。  レジには誰も並んでいなかった。髪を一本に結わえた、兄と同じくらいの歳頃の女の子が暇そうに爪を撫でていた。普通小さな子供が手に取るポケモンのシール付きのお菓子を、制服を着た女子高生が買う。別に誰が買ってもいいはずだけれど、若い店員がパッケージにバーコードリーダーをあてる瞬間、思わず目をぎゅっと瞑った。  表示された金額をちょうど払い、レジをあとにする。財布とお菓子の箱をリュックにしまい店を出ようとしたところで、はたと気づいた。もう一度リュックから財布を取り出し、小銭を数える。ポケモンのお菓子は七十二円。財布の中には百円玉が二枚と十円玉が四枚。わたしは百円玉をつまみ上げ、出口の手前に設置されてある募金箱に入れた。数年前に起こった震災の被災地へ送る募金だった。わたしは何食わぬ顔に見えるよう必死で装って、店を出た。  家に帰る途中、何度も後ろを振り返りながら歩いた。一番いて欲しくない人の姿は、家に着くまでどこにも見当たらなかった。  明日になれば兄と普通に話せるだろう、と思った。二十八円分の善良とつぐないと優越が、わたしの心臓の上でやじろべえのようにゆらゆらと揺れていた。  家に着き玄関のドアを開けると同時に、階段の下に倒れている母の姿が目に飛び込んできた。ひどく震えていて、一人では起き上がれない様子だった。階段から落ちて怪我をしたのかと思い、「お母さん!」と慌てて駆け寄る。  母は赤ん坊のように「あー、あ、あ……」と繰り返し、わたしにしがみついてきた。指の力は強く、爪がわたしの両腕に食い込んだ。母は小さな子供がいやいやをするように首を振って、何かを言おうとしている。 「おに……い……おにい……」  口がうまく開かないようだった。床に投げ出された足もびくんびくんと波打つだけで、力が入らないようだ。なのに、皮膚を突き破るほどとてつもない力で、わたしの腕に縋っている。 「どうしたの、ねえ、お母さん!」 「お、お、にぃぃぃ……」  母はぶるぶると手を震わせながら、階段の上を指差した。 「おにい……ゃん……」 「お兄ちゃん?」  言葉に出してみると咄嗟に違和感が走った。お兄ちゃんなんて普段呼ばないから。緊迫しているのにもかかわらず、違和感に足止めされている自分が滑稽に思えた。  わたしは立ち上がって二階へ向かった。やさしく体を離したのに母はどたっと床に崩れ落ち、つんざくような悲鳴を上げた。  階段を駆け上がり、わたしの部屋の前を通り過ぎる。空気がひゅんと冷たくなった気がした。  兄の部屋のドアは開いていた。開いていて、中の様子がはっきりと見えた。  わたしの部屋と同じ間取り、でもベッドと机の位置が違う、久しぶりに見た兄の部屋。その奥で、兄は、  兄は  ***  ぱちん、と弾けるように音が鳴った。シャボン玉よりは強固で、風船よりは虚無な音だった。部屋の中から鳴ったのか、外からなのかわからない。あるいはわたしの体のどこかから鳴った音なのかもしれない。雨が上がるように醒めていくのがわかった。  真夜中だった。わたしはベッドから飛び起き、隣の部屋に走った。  固く閉じられたドアを力任せに開ける。勢いよく開いたドアが、廊下の壁に激突した。手探りで部屋の電気をつける。明るくなった兄の部屋。  ベッドが左の壁側に、机が右に。本棚はわたしの部屋と同じ右の窓側。家具は揃っているのに、がらんどうの部屋。少し埃っぽい。カーテンレールがひっそりとたわんでいた。  兄はいなかった。当たり前だ。  中へと足を踏み入れる。目が痒い。机の上と本棚には、ぶ厚い哲学関係の本が並んでいる。どれも手に取る気にならないほど難しそうだ。  本棚の一番下の小さなかごの中に、見覚えのあるカセットプレイヤーが入っていた。  なんだ、やっぱり拓波が持っていたんじゃん。  聴こうとは思わなかった。兄と一緒に聴きたかったのだ。  崩れるな、と思ったらもうだめだった。うっすらと埃が積もった兄の部屋で、わたしはついに声を上げた。  ごうごうと窓を叩く激しい雨が体を潰してしまいそうだった。階段を駆け上ってくる足音がかすかに聞こえた。  兄の部屋の匂いを、わたしは知らなかった。嗅いだことのない匂いが、わたしをますます遠く遠くへ押し流していった。  わたしの声は、からっぽな兄の部屋に吸い込まれる。吸い込まれて、かき消える。  何もなかった。言葉一つも。  きっと幻だったのだ。停滞していただけなのだ。秋雨前線のように。  降り止まぬ雨のただ中で、わたしはほんの短い夢から醒めた。