tsuckysのブログ

詩ともポエムとも迷言ともつかぬ言葉のつらなり

あわいの宴

 花は白、小鳥は緑、夜は黒。

 だんだん互いに色めき合って、遠くの眩しさに目を細める。

 言葉はいつになく自由で、私を縛りつけるものなど何もない。

 空は青、鼓動はオレンジ、道は金。

 いいえ、これは何でもない。

 詩でも歌でも音でもない。

 本当のところというものは、私の裏側に隠れている。

 いつだってそう、真実なんて隠されていなきゃ気づけない。

 

 

 目の端に私から出たひとはじきの酔いが溜まって、疲れていることを自覚した。

 論文を追う目が空滑りしているともう何時間も前から知っていたにもかかわらず、私はいっそ最後まで滑り降りてしまおうと、ウワバミの羅列のような文字からひとときも目を離さなかった。

 目頭を軽く揉み一息つくが、論文集の隣に放置してあった手紙に指先が触れ、さながら押麦の間の黄色い縦線のような現実に突きあたった。

 

 花は白、小鳥は緑、夜は黒。

 

 何が言いたいのか、さっぱりわからない。緑の小鳥、インコだろうか。

 この奇妙な手紙を私がもらったのは、昨日の夕方のことだった。瞬く間に暮れなずむ空に少しばかりの郷愁を刺激されつつ、大学の南門から帰路についた私は見事な夕陽に向かって歩いていた。

「せんせい」

 平仮名が一人歩きしているような厚みのない声に歩みを止め振り返った。大きな瞳とそれを縁取る不自然にひん曲げられた睫毛が印象的な女が私を見上げ小首を傾げていた。

「何か、用ですか」

 女の茶色い頭皮を見下ろしながら私は言った。

女は私が受け持っている講座で、よく一番前に座り過剰なほどノートにメモをしている学生だった。ぬいぐるみにしか見えない、と言うかほとんどぬいぐるみでしかないであろう馬鹿でかい筆入れを机の右側に置き、左側にはコーヒーのカップを置いて、教壇に立つ私をじっとりと見つめてくる。私は女の粘ついた視線と、コーヒーのパッケージの緑色のマークを必ずこちらにに向けて配置する偏った律儀さに、神経をすり減らしていた。

「おてがみあげます。よんでくださいね」

 平仮名はどこまでも歩いて行き、他の者が辿り着けない地まで到達したらしい。私はああ、とも、おお、ともつかぬ返事をしたのち、丁寧に両手で差し出された真っ白い封筒を静々と受け取ったのだった。

 女はこの不可思議な文章の束を、手紙と言った。詩でも何でもないと書いておきながら、これはある種の詩ではないのか。直接的な感情が込められていないように見せかけて、その実、奥底深く深くに私への思慕などが埋め込まれているのだとしたら。私はぶるると身震いをした。

 手紙を封筒にしまい、もう二度と読まないつもりの至極つまらなかった小説の間に挟んだ。分厚い小説は便箋一枚の薄い手紙を飲み込んだところで、その佇まいも趣きも何一つ変わらなかった。

 椅子に浅く腰かけ、背もたれに寄りかかる。私は私の身体を貫く重厚な寂寞の正体を突き止めようと、悪戯に両手の指を絡ませた。考え事に耽るような素振りはできても、それは単なるポーズでしかなく、私の思考は冷めた鉄瓶のごとくしんと静まるばかりだった。

 思考が深みにはまるとき、私はこの上ない幸福感に包まれる。私は思索の中でしか呼吸をすることができず、思索から解き放たれた現実世界ではかりそめの呼吸しかしていない。えら呼吸の魚が陸上では生きられないように、私も深淵なる思索の海の中で怠惰に過ごしたいと願う。

 迫り来る現実の波は、いつのときも私にわずかばかりの厳しさを運んでくる。甘い蜜でも吸いたいという私の希望は厳正に却下され、遥か昔の記憶をかき回すような塩辛い海水が喉の奥に引っかかる。

 ガタ、とリビングから珍妙な音が聞こえた。私は複雑に組んだ指をほどき、椅子から立ち上がった。

 廊下を進み不透明なガラスの引き戸を開ける。広がった光景に思わず声が漏れる。

 母親が転がっていた。リビングの真ん中に。

 仰向けになり手と足をピンと伸ばした状態で天井をぼんやりと見つめている母親の姿は、まな板の上にしっぽりと乗った鶏肉のようだった。

「母さん」

 声が裏返った。母親はごろりと頭を動かし、こちらを向いた。

「こうして寝っ転がっているとね、色んな人が目の前を横切って行くの。面白いの」

 母親はガラガラと痰の詰まったような声でそう言った。

「裕之もやってごらんなさい」

 私の名は裕之ではない。父親の名前でもなければ、母親の兄弟の名でもない。裕之はどこにも存在しない。いや、母親の中には居るのだろう。私が知らないだけで、母親には母親の生きてきた過去の世界が無限に点在しているのだ。

 私はソファを少しずらし、母親の隣に寝転がった。天井を見上げる。照明がある。どこから侵入したのだろう、小さな虫の影が九つばかり照明カバーの内側に散っていた。それ以外は何もない。天井の壁紙は全体的に黄ばんでいるが、特に目立った模様も染みもない。

「面白いの」

 再び母親がそう言った。うっとりとした目は焦点が合っていない。

面白さを共有できないことは後ろめたくもあったが、私は私の感性で床に転がっているのだから仕方がないとも思った。けれど、それをあえて母親に伝えることはしない。かと言って、話を合わせるわけでもない。私は私の感性を尊重し育もうとしているのだから。

 五分ほどそうして過ごしたのち、私は起き上がった。股関節が外れるような痛みが走ったが、いつものことなので気にしない。三十七にもなれば、体のどこかに不調の一つや二つあるものだ。

母親は私には目もくれず、ひたすら天井を眺めている。邪魔するのも悪いと思い、声はかけずにブランケットをそっとかけてやった。母親は何も言わない。半開きの口元は時折楽しそうに震えるだけだった。

 自室に戻り、椅子に座る。今度は深く腰かけ、論文の続きを読もうと背筋を伸ばした。

 明け方見た夢が記憶の大半を支配していた。私は何もない、黒いだけの空間を浮遊している。右を見ても左を見ても、奥行きのある黒が多方面に伸び広がっている。他にもさまざまな色があるということを忘れてしまいそうなほど、どこまでも漆黒に包まれていた。

 無重力空間なのか、内臓が皮膚を破って出てくるような浮力を感じる。腕はいくら伸ばしても何も掴まない。足はいくら動かしても何も蹴らない。私はもどかしくなり、腕と足を同時に動かした。その拍子に体がでんぐり返しのように一回転し、同じスピードでいつまでも回り続けた。そんなよるべもない夢だった。

 またしても、集中力を別の思考に根こそぎ奪われてしまった。私のなけなしの集中力は一体いつになれば私に定着するのだろうか。

 昔は、とりわけ学生の頃は、こんな状態になることはなかった。いつ如何なるときも目の前のやるべきことに集中できたし、どんな場所でも、例え真横で女子高生の黄色い噂話が繰り広げられようとも騒音レベル九十デシベルの工事音を延々と聞かされようとも、私の集中力にはまったく影響がなかった。

 それに比べて、最近はどうだ。小さな虫の羽音でさえ、私の静寂の糸を断つ不快な騒音になってしまっている。気づけば関係のない考えで脳がフル回転してしまう。いい加減にしてほしいと思うが、関係のないことを考えてしまうのもまた私なのであって、自分自身を非難するという負の螺旋階段を一人ぐるぐると降りて行っても仕方がない。

 デスクに頬杖をつき長いため息を吐き出したところでリビングから、ドンガラ、と奇天烈な音がした。私は重い腰を上げ、再び母親の様子を見に行った。

 母親はさっきと同じ体勢で、今度は目を閉じていた。母さん、と声をかけるが反応しない。胸が上下しているから、寝ているだけなのだろうと推測する。よくもこんな硬い床で寝られるものだ。一応母親の横に膝をつき呼気を確かめる。換気の行き届いていない羊小屋のような匂いの生温かい息が、私の鼻をついた。口腔ケアをもっと入念にしてやらなければ、と思った。

 先程の大きな音は母親でないとしたら何だったのだろうと、私は十二畳のリビングを見渡した。

 ああ、奴らか。

 私は浅く納得した。窓側の日のよく当たるところ、レースのカーテン越しに差し込む光がリビングの隅に透明な影を作るところに、得体の知れない生き物たちがピラミッドのように折り重なっていた。

彼らの生体は甚だ不明だ。大学の頃生物学を専攻し今や学生たちに教える立場となった私であっても、彼らについては何も知らないという有り様だ。私の知るところ、それは彼らは恐らく私にしか見えておらず、この世界のどんな生物にも属さないということだけである。

 離れて暮らしていた母親を私の住む家に引き取ってから、彼らの姿が見えるようになった。最初はそれこそレースのカーテンのように曖昧な色彩でリビング中をうろうろと歩き回っていたが、日が経つにつれ徐々に実体を持つようになり、今では体のほんの一部が透けているだけのほぼ完全な姿になっている。触れたことは一度もないが、きっとしっとり柔らかいのだろうと想像できる。

 そんな見た目の彼らだが、立てる音は人一倍やかましい。バウムクーヘンのような肌触りであろう彼らのどこから、ドンガラなどという奇怪な音が出てくるのだろう。今にも崩れそうなピラミッドを見て、そう思う。

 母親に目を移す。気持ちよさそうでも辛そうでもない寝顔に、ベッドに運ぶかどうか逡巡する。結局、風邪を引くといけないという結論に達し、母親を抱きかかえリビングの隣の和室に運んだ。和室は引き戸一枚でリビングに繋がっており、昼間はいつも開け放っている。昇降式ベッドと鏡台があるだけの質素な空間だ。

 母親はベッドに横たえても起きる気配を見せなかった。羊小屋臭い息を吐いて安らかに眠っている。肩まで布団をかけてやり、寝やすい位置にベッドを調節して部屋を出た。リビングを一瞥すると、生き物たちは傾いたピラミッドのまま日向ぼっこをしていた。彼らの糸みたいに細く閉じた目と母親の寝顔が重なる。もはや彼らは生活を共にする家族になりつつある。そのことに不快感はなかった。

 自室に戻るが、もう何もする気は起きなかった。読みかけの論文集の左端をめくっては閉じ、まためくっては閉じて無意味な時間を過ごす。

 休日に仕事をするものではないのかもしれない。休日は休むのが仕事であって、普段の仕事を休日にやるという行為は、むしろだらけているのかもしれない。もっと要領よく生きなければ。休日は好きなことに時間を使うべきだ。私は分厚い論文集をデスクの奥に放った。大きく伸びをしてから、気づく。私には好きなことなどなかった。

 結局、私は放り投げたばかりの論文集を手元に引き寄せ、集中力の欠けた頭に内容を無理矢理詰め込んだ。貴重な休日がこうして過ぎ去ってゆく。私は自宅にいるより大学の研究室にこもっているほうが数倍ましな自分でいられる気がする。つまりは仕事中のほうが私の精神はピンと均衡を保ったシーソーのように安定方面に整うのである。

 日が傾き始めた頃、私は母親の夕食の準備をするため自室をあとにした。読んだ枚数は、数えてみるとたった二ページだった。これだけの枚数のために何時間かかったのだろうと頭を抱えながら台所に立った。

 

 

 朝は陽の光がカーテンの隙間を縫って私の顔に降り注ぐ。太陽の光を浴びると体内でビタミンDが生成されて健康にいい、手のひらに浴びるだけでも効果があると聞くが、私はそれを顔面でやってのける。意図しているわけではないが。まだ染みなどはできていないけれど、油断はできない。いつまでも白いむきたまご肌でいられるわけではない。メラニンは私の皮膚の奥で確実に息をしているのだろう。

 ベッドから起き上がり、軽く肩を回す。最近よく起き抜けに肩が凝っている。枕が合わないのかもしれない。十分に睡眠をとっているはずなのに疲れが私の肩にぶら下がり、腰にまとわりつき、足首を掴んでいる。朝からため息など吐きたくもないのに、唇の間から漏れ出てしまう。

 顔と口を洗い、仕事へ行く支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。上はセーターを着ていたが下はトランクスのままだった。これではいけないと急いでスラックスを履く。

 玄関のドアを開けると、まず黄色いニット帽の先についたポンポンが目に飛び込んできた。

「おはようございます」

 ニット帽の下に真弓さんの朗らかな笑顔があった。四十には見えない童顔な彼女は、笑うとさらに無邪気な小学生のように見える。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 私はそう言って彼女を家の中に招き入れた。

 真弓さんは私が仕事へ行っている間、母親の身の回りの世話をしてくれるヘルパーだ。週五日、一日八時間が彼女との契約になっている。母親は彼女のことを大変気に入っており、真弓さん真弓さん、と小動物のように彼女の後ろをついて歩く。母親は日常生活動作は自立しているので、彼女と一緒であれば食事を作ったり掃除をしたりすることができた。

「あら、またカーテンも開けないで。陽の光を浴びると体が元気になるんですよ」

 リビングに入るなり、真弓さんは閉じたままになっていたカーテンをドラマティックにざざっと開けた。そして、隣の和室を覗き、

「みーさん、おはよう」

 と母親に声をかけた。

 ベッドの淵に腰かけぼんやりとした目で宙を見つめていた母親は素早く立ち上がり、飛び出したイカのような速さで真弓さんの元へ駆け寄った。こんな機敏な動きができるのかと、私は昨日リビングに寝転がっていた母親の姿を思い浮かべ、妙に感心してしまった。

「学さん、仕事に遅れちゃいますよ」

 真弓さんが顔だけこちらを向いて言った。私の心配までしてくれるとは、まったく頭が下がる。彼女に再度よろしくお願いしますと言い、私は自室に戻って支度の続きに取りかかった。

 家を出るとき、真弓さんが見送ってくれた。毎朝のことだが、誰かに見送られるというのは案外嬉しいものだ。母親は私が仕事に行こうとしても家から出てこないことが多い。真弓さんが、

「ほら、みーさん、息子さんに行ってらっしゃいしましょうよ」

 と誘っても、

「わたし、お洗濯があるから」

 とか、

「今日はお部屋にいる日なの」

 などと理由をつけて出てこない。外が嫌いなわけでもないのだが、私が出勤するときは頑なに玄関に来ようとしない。私も私で母親に見送られるのはどこかこっ恥ずかしい気持ちがあるので特段気にしてはいない。

 曲がり角のところでちらりと家を振り返る。真弓さんはもういない。さすがに角を曲がるまで見送るのは出過ぎた真似だとわきまえているのか、単に雇い主にそこまでする必要がないと思っているのか、彼女の胸中はわからない。

 街路樹も枯れ果てた殺風景な通勤途中の道に、うっすらと積もった雪がわずかな彩りを添えていた。白は他のどんな色より華やかでたおやかな色だと私は思っている。雪の降り初めは殊にそう思う。一瞬にして異世界に連れて行くだけの引力があるのに、やさしくやさしく、丁重に空から降りてくる白は冷たさなどない、私の目にはただただあたたかい色に映る。

 息を吸うと肺の細胞がパキパキと一つずつ凍っていくような痛みを感じる。鼻の奥もツンと痛む。春にも夏にも秋にも感じることのできない、冬だけの特別な感覚が私は好きだった。この痛みを辿ることで私は生きていく上で必要な気力だとか精神力を補っているのだと思う。冬の間に蓄えたそれらを、冬以外の季節に少しずつ使う。まるで冬眠する動物たちと真逆のことをしているなと、自嘲気味な笑みが溢れた。

 道路の端の真新しい雪を踏み踏み歩いていると、地下鉄の入り口に着いた。雪の上の無数の足跡が大きな怪物の口のように変形し、階段へと続くタイルが灰色に湿っていた。私は取り残された穴のごとくぽっかりと空いた入り口を下って行く。

 改札を抜け、ホームに降り立つ。生足をべろりと出したブレザー姿の少女たちが壁際にペンギンの群れのようにかたまっていた。寒さをものともしない、それとも平気そうな表情に隠した内心は今にも凍えそうになっているのか、彼女たちのむちむちとした太ももからふくらはぎのラインが眩しかった。

 掲示板が赤く光り、三十秒もしないうちに電車が滑り込んでくる。突風が吹き、少女たちの短いスカートを巻き上げる。こんなとき、チャンスとばかりに目を見開いて凝視するような下卑た私ではない。目をそらしてやる。どうせ学校指定の芋くさい短パンでも穿いているのだ。

 降りる人を待って電車へ乗り込む。後ろからぎゅうぎゅうと押される。混雑しているので仕方がないとは言え、他人と体を密着させるのはどうにも不快だ。私の体から半径二メートル以内も私に含まれる。自我を持っているのだ。その自我が他人の鞄や妙な匂いのする頭やダウンコートの毛皮つきフードなどに侵されている。絶対的領域である私の体でさえ、足は踏まれ、腕は動かすこともできず、鳩尾には前に立つ背の低い女の鋭利な髪飾りがぐいぐいと突き刺さってくる。

 生温かい空気も苦痛だった。何か体に悪い物質でも含んでいそうな温風が鼻の辺りを漂っている。深く息を吸ってはいけない。浅い呼吸を意識する。

 三つの路線が交差する駅で塊になってごっそり人が降りて行った。途端に息苦しさから解放される。むしろ足場が急にひらけたためよろめいてしまった。誤魔化すように空いていた端の席に座る。次の駅で降りるのだが。

 地下鉄を降り、地上へ出た。再び刺すような空気が私を包む。やっと満足に呼吸ができる。私は思いきり冷たい息を吸い込んだ。もっと凍りつけ。もっと痛め。全身を凍てつく冬の空気で満たせ。駆け巡る血も凍るほどに。

 駅から大学までは徒歩十分もかからない。交差点を渡ってから裏通りに入ればあとはずっと一本道だ。民家同士が背を向け合っている、車がすれ違えるかどうかの細い道を歩いて行くと、大学の南門が見えてくる。門を越えるとオオモミジの大木が迎えてくれる。秋には高い空に映える見事な紅葉ぶりを見せてくれるが、今はすっかり葉も落ちている。私には寂しくなった枝を粉雪が飾り立てているように見え、その健気な様子に頬が緩むのだった。

 私の研究室は南門からさらに五分程北に歩いたところにある。理学部棟の二階の一番手前の部屋だ。ドアを開けて左側には天井まである本棚とデスク、窓際には物置代わりになっている小さめの机とプリンター、中央が通り道になっており、右側には応接用のテーブルとソファ、その横には左と対になる天井までの本棚。このほぼ真四角の部屋で私は日々研究を重ね、論文を読み、講義のためのパワーポイントを作成している。

冬の朝は外気よりほんの少しましな程度に冷えている。私は出勤するとまず深呼吸して部屋の冷たさと、本にまみれた空間特有の熱がこもったようなぶ厚い空気を体内に染み込ませる。そして、デスクの上や本棚の中にある適当な本を引っ張り出して、手触りとその温度を確かめる。暖房をつけるのはそのあとだ。

 応接セットの奥にある洗面台で手を洗い、湯沸かし器に水を入れる。沸騰したらコーヒーを飲むのだ。二つ隣の部屋の同僚は、コーヒーは豆から挽く派だと言っていたが、私はインスタントで十分だ。コーヒーは好きで飲んでいるわけではない。眠気を払うために飲んでいるのだから味や香りなどどうでもいいし、深みやコクなどもわからない。じんわりと暖かくなってきた部屋で湯沸かし器のぐつぐつする音を聞きながら、私は二限目にある講義の準備に取りかかった。

 

 

 講義は予定通りのペースで滞りなく進んだ。教壇に立ちレーザーの赤い光を指し棒代わりにパワーポイントに沿って説明を加えていく。

今年の一年生は大人しいと言うか、自己主張が少ない。毎年、講義十五分前になると我先にと教室に飛び込んできて、一番前の真ん中の席に瞬く間に座り、手を耳の横にぴたりとつけて垂直に挙げ、「質問いいでしょうか!」と唾を散らしながら叫ぶ学生が最低一人はいるのだが、この講義ではそういう者は一人もいない。

真面目さに羽が生えて今にも飛び立っていきそうな学生というのは面倒ではあるが、教える身からすれば可愛げがあり扱いやすくもある。講義中は寝ているくせにテスト前になると友人間を渡り歩きノートを借りて落第ぎりぎりの成績で滑り込み合格する、要領のいい学生が私は一番嫌いだった。この度の一年生はそういうタイプが多い印象だ。

「今日はここまでにしますが、何か質問はありますか」

 案の定、誰も手を挙げない。講義後にわざわざ質問に来る者もいないだろう。いつもそうなのだ。

 学生たちには最初に配ったプリントに講義の感想を書くように指示し、使ったノートパソコンを閉じる。書き終えた者からぞろぞろと行列を作り、教壇の空いているスペースにプリントを置いて去って行く。

どうせ今日も大した内容は書かれていないのだろう。一言でもいいからと言ってはいるものの、本当に一言だけ書いていく奴が多すぎる。「ためになった」だの「興味深かった」だの。「眠かった」と書いた奴もいた。ここまでくると怒りも湧かない。そうか眠かったかなら家に帰って存分に寝るといいそしてもう大学にはクルナ。

 一人また一人と学生が教室を出ていく。がらんとした扇型の室内を見渡すと、二段目の右端の席にビニール傘が置かれていた。誰かの忘れ物だろうが、教務に持っていくのも面倒くさい。気づかないふりをして荷物を持ち、教室を出ようとする。

「せんせい」

 平べったい声が私を呼び止めた。私は心底驚いた。肩が跳ね上がる。振り向くと昨日私に手紙を渡してきた女子学生がマフラーに顔を埋めながら立っていた。いつの間に後ろにいたのだろう。

「何か」

「しつもんがあります」

 パンに塗ったバターのようにどこまでも平らな口調で女は言った。

「おてがみよみましたか」

 私は失望した。質問と言うのだから講義に対するものかと思ったが、至極個人的な、私にとってはどうでもいい内容だった。女はジャングルにでも生えていそうな植物じみた睫毛を伏せ、もじもじと体をくねらせた。

「ああ、読みましたよ」

 読んでないと言ったほうが話が早く済んだかもしれないが、私は正直に答えた。変なところで嘘をつきたくないのだ。

「どうでしたか」

「どう、とは」

「かんそうです」

 感想。手紙とは果たして読んだあとに感想を求められるものだったか。

「えーと、あれは詩か何かだったのかな」

「いいえ、おてがみです」

「返事を書いたほうがいいですか」

「いいえ、いまここで、かんそうをください」

 返事はいらない感想を言え、と迫ってくる女の意図が読めず、困った私は時間稼ぎに一つ咳払いをした。

「せんせいは、どのようなおきもちで、おてがみをよみましたか」

「気持ち……」

「たのしいきもちでしたか、それともくるしいきもちでしたか」

「うーん、楽しくはなかったですが、かと言って苦しくもありませんでしたね」

「そうですか」

 女は急に満足したように頷き、再びマフラーに顔を埋めた。前髪とマフラーの間の目が一瞬細くなる。笑ったのだろうか。

「ではまた」

 白く華奢な手をコートの袖からはみ出させ、女は手を振った。

とうに荷物はまとめてあったが、すぐに教室から出ると女とまた鉢合わせる可能性があるため、無意味に教壇の前を二、三歩うろうろしてから外へ出た。研究室に戻る際窓の外に目をやると、雪が静かに降っていた。このまま何十センチも積もりそうだ。もっと降ればいい、積もればいい。鮮やかな白で無情な日常を覆い隠してしまえばいい。そんなことを考えながら、私は自分の研究室のドアノブを回した。静電気が駆け抜けて行った。

 

 午後からは副担当をしているゼミの四年生の女子学生二人が、研究室へやって来た。私に用があるのは丸眼鏡の背の高い学生、佐藤だけらしい。もう一人の小柄でやけにカラフルなニットを着た斉藤は、手持ち無沙汰に本棚に並んだ専門書を眺めていた。

 佐藤に論文の章立てについて少し指導をする。彼女はメモを取りながらはい、はい、と真剣な表情で聴いていた。しかし、そのメモはスマホにチャカチャカと打ちつけているものだから、どうしても誰かとメッセージ交換でもしながら聴いているようにしか見えない。

この子は社会に出ても、上司や先輩の言葉をスマホに打ちつけるのだろうか。今のうちに忠告しておくべきかとしばし逡巡するが、考えるうちに、スマホにメモすることの何がそんなにいけないのだろうかと思い始めた。深みにはまり抜け出せなくなる前に、もういいと切り上げる。いずれ誰かに指摘されるだろう。私はその役目ではない。

 私が佐藤に指導している間、斉藤は本棚を勝手に物色していた。目の前をちらちらと斉藤の派手なニットが横切るので気が散る。佐藤の顔を見ながら話しているつもりでも、気づけば斉藤のニットに目がいってしまう。何という柄なのだろう。日本で売っている品物ではないのかもしれない。

 加えて、斉藤は気まぐれに、

「せんせえー、この本借りてもいいすか?」

「せんせえ、小説なんて読むんすねー」

「きちっと本揃ってんなあ、せんせえめっちゃ几帳面だね」

 などと声をかけてくるので、私はその度にいちいち言葉を返さなければならなかった。

 一時間程で彼女たちは部屋から出て行った。佐藤はスマホをいじりながら、斉藤は本棚から抜き取った三冊の本を脇に抱え、私の顔も見ないで、

「失礼しましたー」

 と言った。

 ドアが閉まって一分もしないうちに、再びノックの音がした。忘れ物でもしたのかと開いたドアに向かって、どうした、と声をかけると、顔を覗かせたのは二つ隣の研究室にいる同僚、小向だった。

「いやあ、清野先生モテますねえ」

 まったく心当たりのないことを言いながら勝手に部屋に入ってくる。

「モテる? 私がですか」

「清野先生はカッコイイから、女子にモテモテですよ」

 俗っぽいこと甚だしい。指導が終わって佐藤と斉藤が部屋を出ていったところを見られたのだとしたら、いい勘違いだ。

「さっきの学生たちのことでしたら、論文の話をしていただけですよ」

「まあそうでしょうけどねえ」

 小向は含みを持った言い方をして、これまた勝手に洗面所で手を洗い始めた。タオルが目の前に下がっているというのに、手を振って水気を飛ばす。応接ソファーや本棚に水滴が散っていくのを、私は黙って見ていた。

 小向は長い方のソファーにどっかりと座ると、まだ半分濡れている手を座面で拭いた。べらべらと業務に関係のないことを喋り出すが、私はリネン地のソファーに水滴が染み込んでいく様が気になり、彼の話は耳に入ってこなかった。

「あ、清野先生、コーヒー飲んでもいいですか?」

 思いついたように小向が言う。ああどうぞ、と言ってもにこにことしながら座ったままなので、私が用意するのかとバレないようにため息をついて立ち上がった。

「この部屋にはコーヒー豆とミルはないんですもんねえ」

「ないですね」

「いいんですいいんです、インスタントで構いませんよ」

「はあ、すみません」

 謝ってから、どうして私が下手に出なければならないのだと憤りを感じた。

 お湯を沸かし、適当なマグカップにコーヒーの粉を入れる。ミルクと砂糖はどうするのか聞こうと思ったが、余計なコミュニケーションを取りたくないので、シュガースティックとコーヒーミルクを一緒に机の上に置くことにする。

「僕はコーヒーはブラック派なんですよ」

 小向にそう言われ、私は無言でマグカップだけを机に置いた。確かこの前、カフェオレにはまっていると言っていなかったか。彼の嗜好はころころと変わるらしい。

 小向はコーヒーの匂いを嗅ぎながら、

「うーん、やっぱり豆から挽くより香りが劣りますねえ」

 と言った。名もない苛立ちに似た感情が私の全身を駆け巡った。猫であれば、毛を逆立てていただろう。

「それで、小向先生。私に何かご用事でしたか」

 さっさと用件を聞き出し、速やかに帰ってもらいたい。けれど、小向はコーヒーをずず、と一口飲み、ゆったりとした口調で、

「別に用事はありませんよ。仕事が一段落したから遊びに来たんです」

 と言った。ただでさえ細い目を溶けてなくなりそうなほど細めて、私を見ている。

 はあ? と言いそうになるのを必死に堪える。私の仕事はまだ終わっていない。と言うか、いちいち邪魔が入るせいで集中できない。学生の指導は仕事のうちなので邪魔とは思わないが、お前の相手をするのは明らかに業務外だ。

 どんな顔をしているのか自分ではわからないが、よほどひどい顔をしていたのだろう。小向は取り繕うように、

「冗談ですよ、清野先生。用事、ちゃんとありますよ」

 と多少慌てた様子で言った。

「今日仕事終わりに一杯どうですか」

「え?」

「ちゃんと清野先生とサシで飲みに行ったことなかったから、今日あたりどうかなって」

 小向はおちょこをくいっとやる真似をして、にへらと笑う。

「夜は母親の世話があるので遠慮しておきます。残念ですが」

 大して残念でもないが、一応礼儀としてそう言っておいた。小向はええーっと大袈裟にのけ反り、不満げな表情をした。

「すみません」

「わかりました、また今度にしましょう」

 渋々という様子で小向は頷いた。

 その後も彼は無駄口を叩きながら部屋に居座り、三杯もコーヒーを飲んで腹をたぷたぷ言わせながら帰って行った。

 夕暮れが迫っていた。母親がいるので、帰りが遅くなるわけにはいかない。早く帰って真弓さんと交代しなくては。結局自分の研究は何一つ進まなかったが、今日はもう切り上げるしかない。いつにも増して盛大なため息をつき、私は帰り支度を始めた。

 

 玄関の鍵を開け家の中へ入ると、ちょうど真弓さんが廊下を走ってくるところだった。私には目もくれず、トイレの前に立って叫んだ。

「みーさん! みーさん!」

 トイレのドアは開いており、電気がついている。

「みーさん、ほら、リビングに行きましょうね、みーさん」

 何事かと思い、靴を脱いで真弓さんのそばへ行った。開いたドアの間からトイレの様子を覗く。

「ああ……」

 情けない声が出た。持っていた通勤鞄を床に落としてしまう。自分がこんなに漫画やドラマでありがちなリアクションを取れるなんて意外だった。

「あ、学さん、お帰りなさい」

 真弓さんが私に気づき、事のついでのような口調でそう言った。それからすぐにトイレの中に向かって、

「みーさん、学さん、帰ってきましたよ。さあ、もうそのへんでお終いにしましょう」

 と声をかけた。

私は真弓さんに退くように言い、トイレの中へ一歩足を踏み入れた。そこには一心に便器をかき回す母親の姿があった。

 背中を丸め、時折水の中から何かを掬い上げるように両手を動かしている母親は、得体の知れない獣のようでありながらどこまでも小さく儚い胎児のようでもあった。その薄く乾ききった唇の間からは声一つ漏れてこない。皺が深く走った両手の間からは水に溶けきれず細切れになった便がぼたぼたと落ちるだけだった。

 母親とは、こんな生き物だったか。わからなくなり、私は膝から崩れ落ちた。

「学さん!」

 真弓さんの声が遠く聞こえる。立たないといけない。ここで負けてはいけない。途方もなく大きな敵は、きっとこれからだって現れる。幾度も幾度も姿形を変え、私の前に立ちはだかるのだ。

 幼い頃、母親にゲームを買ってもらえず、友達の家しかプレイできなかった壮大なバトルゲームが、何故か今脳内に蘇ってきた。

 私は震える膝を何とか黙らせ立ち上がった。

「母さん」

 声をかけるが、反応はない。取り憑かれたように必死な形相で茶色く濁った水をかき回している。

「母さん、何を探しているんだ? 私も手伝うよ」

 母親の横顔に頬を寄せて、囁くように言った。すると、母親が突然くるりと振り向いた。

「指輪がないの。落としたのかもしれない」

「指輪? トイレの中に?」

「川の中」

 そう言って、母親は便器の中に顔を突っ込もうとした。こればかりは慌てて止める。母親は私に腕を掴まれた状態で身を捩った。

「直接顔をつけたほうが早いもの」

「危ないよ、流されたら大変だろう」

「でも」

「私が探しておくよ。泳ぎは得意なんだ。ちゃんと見つけ出すから、指輪の特徴を教えてくれるかい」

 私は何とか母親の気を便器からそらそうとした。背中をさすりながらゆっくりと問いかける。

「桃色の、小さな貝殻がついた指輪よ。大事なものなの。ねえ、裕之、絶対見つけてよ」

「もちろん。任せてよ、母さん」

 母親は安心したように、ようやく便器から手を出した。

「服が濡れてるからとりあえず拭こう。風邪をひいてしまう」

 真弓さんが気を利かせて持ってきてくれたタオルでまず母親の手を拭き、糞尿まみれの服を脱がせた。綺麗なバスタオルで体をくるみ、真弓さんが母親を風呂場へ連れて行く。

私はトイレットペーパーで床に飛び散った水分を吸い取り、便器の中の汚水と一緒に流した。トイレクリーナーで便器と床を拭き、汚れた便座シートは丸めて捨てた。

 入浴を終え、母親に服を着せている真弓さんに、ありがとうございますと礼を言った。

「すいません、こんな遅くまで。時間外の分は残業代ということでちゃんと払いますので」

「いえいえ、お気にせず。それにしても学さん、神対応でしたね。わたしのほうが慌てちゃった。見習わなきゃ」

 真弓さんは鼻の付け根に皺を寄せて笑った。

 彼女が帰ったあと、一人で夕飯を食べながら長い息を吐いた。母親は私が帰宅する前に真弓さんと食べ終わっていた。今はソファーに座ってテレビを観ている。

 リビングの得体の知れない生き物たちは、皆母親の足元で丸くなっている。母親の足を囲むように半円になり、折り重なって眠っている。まるでドミノが倒れたようだ。私の足元にはちっとも寄ってこない。きっと母親のいるところには床暖が入っていてあたたかいからだろうと、勝手に理由を考えてみる。

 母親は風呂に入ると、けろりと指輪のことは忘れたようだった。便器の中をかき回していたことなんてすっかり忘れて、

「今日はお風呂早いのねえ」

 などと呑気な様子で言っていた。

 母親は色々なことを徐々に忘れていく。すでに息子である私の名前もわからないようだ。学、と自分でつけた名前を呼ぶことは最近ではもうない。何かを唐突に思い出して、そしてしばらくすると忘れるの繰り返しだ。

 私は母親の横顔と得体の知れない生き物たちを交互に見比べた。どちらも穏やかな表情をしている。ふいに込み上げるものがあって、私は目頭を強く押さえた。賑やかなテレビの音とともに夜が更けていった。

 

 

 翌朝、一段と積もった雪を踏み締め、私は大学へ続く細道を歩いていた。塀の上のかまぼこ形の雪は、手で触れるとさらさらとコートにかかった。黒いコートに真っ白い雪が散らばって、まるで宇宙に浮かぶ無数の星のような模様になった。その雪もすぐに溶け、後には水晶の玉のような小さな水滴が残った。手で払うと水滴は四方に弾けていった。

 指先が燃えるように熱かった。雪は火と同じ性質を持っている。こんなことを言ったら、物理学を教えている小向に馬鹿にされてしまうだろう。

「清野先生、妙なことを言いますねえ。雪と火が同じ性質を持つのは文学の世界だけですよ。詩人ですねえ、清野先生」

 だとか何とか。小向の下の歯茎を突き出す笑い方を思い出し、眉をひそめた。

 南門を抜けると、オオモミジの木にも雪が積もっていた。重たそうに枝をしならせている。立ち止まって木のてっぺんを見上げていると、後ろで平たい声がした。

「せんせい」

 振り向くと、手紙の女がしきりに長い髪の毛先をいじりながら立っていた。毛先を束にしてくるくるとねじりながら指先に巻きつけている。白く細い人差し指に目がいく。

「おはようございます、せいのせんせい」

「ああ、おはようございます」

「せんせいにおてがみあげます。よんでくださいね」

 女は肩にかけたトートバッグの中をごそごそとまさぐり、一通の白い封筒を取り出した。

「ええと、また私に手紙をくれるんですか」

 また、の部分を強調して言ったつもりだった。わけのわからない手紙をまた書いてきたのかという、うんざりした気持ちを表そうと思った。だが、あまりにも露骨に表現するとこの女を無闇に傷つけてしまいかねないので、あくまでも滲ませる程度に、表情は穏やかに保ちながら言った。

「はい、たくさんかきます。おのぞみならば」

 間違っても望んでなどいないのだが、女は嬉しそうに口角を上げた。両頬にくっきりとえくぼができる。

「ありがとう」

 そう言って封筒を受け取った。女は深々と頭を下げると、校舎とは反対の南門のほうへ歩き出した。一限から授業があるわけではないのだろうか。女が私に手紙を渡すためだけにこの時間に大学へ来たのだと思うと鳥肌が立った。

 理学部棟に入り、自分の研究室の鍵を開ける。外ほどではないものの、ピンと張り詰めた寒冷の糸が私の体を分断しようとする。上等だ。私は冬の冷たい空気になら八つ裂きにされてもいい。切断された四肢を眺めるとき、私はどんな気持ちになるのだろう。

 暖房を一番低い温度に設定し、手洗いとうがいをしてコーヒーを淹れる。暖房も私一人なら本当はつけなくてもいいのだが、学生がいつ訪問してくるかわからないから、彼らのために一応つけている。以前、冷え切った部屋で悠々と仕事をしていると学生が質問に来て、

「先生、部屋さみいよ! 南極に住んでんじゃねえの!」

 と怒られたことがある。そのときの彼の怒気がこもった大きな目があまりにも恐ろしくて、私は研究室では二度と自分の快適さを優先させることはしなくなった。彼が卒業するまでは、暖房は常にマックスの温度にしていた。

 マグカップを片手に、椅子に座る。コーヒーを一口啜り、先ほど女からもらった封筒をデスクの上に置いた。到底読む気にはなれないが、また感想を求められるかもしれない。私は左目をこすり、意を決して封を切った。

 

 

 そこはかとなくゆれるカーテンの

 そのはしっこをつかんで

 窓の外はいろいろで

 わたしはもういっぱいいっぱいで

 レースのカーテンから透ける光を

 所在無げにながめていた

 わたしはわたしを言い切る強さがほしい

 それを踏み台にして

 街へ繰り出す勇気が欲しい

 半透明で液体のようにほとばしるわたしを

 背中が熱くて切り出せない

 何ものも目を通させない

 人の眼差しで生きることを濾過する

わたしを

 

 

 これは詩だろう。少なくとも私には詩に見える。上手なのか下手なのかはよくわからない。あいにく私には文芸に関する素養がない。だが、彼女の詩は私の胸を打たない。そもそも彼女の詩に感動したところで、私には返事を書くことも評価することも、ましてや同じように詩を書いて贈ることもできないのだ。

 彼女が私に何を求めているのかわからなくて不気味だった。恋文とも思えない、けれど蔑ろにするわけにもいかない、扱いに困る代物を渡してこないでほしい。

 便箋を封筒にしまい、ひどく稚拙な内容だった啓発本の間に挟んだ。これももう二度と読むことはない。つまり、彼女の詩も読み返すことはない。

 読みかけの論文集を手に取る。いつまで経っても読み終わらない、読もうとすると必ず邪魔が入る、いや学生の訪問は邪魔とは思わないが、でも本当は少し疎ましいけれど、とにかくこれを読まないことには私の研究が進まないのだ。

 それなのに、今日も読めない。あの女の詩が脳内にちらついて気が散る。半透明で液体のようにほとばしるわたし? 何だそれは。ちっとも心の琴線に触れはしないのに、私の集中力を奪うだけの力はある。しかも強力だ。

 胸をかきむしりたい衝動に駆られた。論文集をデスクの上に叩きつけ、拳を突き立てる。

「私は生物学者だ」

 腹の底から低い声を出してそう言うが、今この場面で言うべき言葉なのかは甚だ不明だった。自分でも何をしているのかわからなくなってきた。吐き出した声がほの寒い部屋の中を旋回し、隠れ場所を探しているようだった。

 

 二限目の講義が終わり、学食で昼食を摂った後、研究室に戻ろうとした私は小走りでやって来た小向に引き止められた。突き出た腹がたぷんたぷんと揺れている。そこまでして私にどんな用があると言うのだろうと思うほど、額に玉のような汗を浮かべていた。

「清野先生、やっと見つけた。研究室にいないから」

「講義の後そのまま学食に行っていたんですよ」

「ああ、そうでしたか。なるほどなるほど」

「私に何か用事でしたか、小向先生」

 小向は研究室に入りたそうにちらちらと把手に目を向け、もじもじと体をくねらせている。そうはさせるかとばかりに、私はあえて小向の位置から把手が隠れるように立ちはだかった。ここは何としても立ち話で済ませる。奴を部屋に入れようものなら、延々と無駄話に付き合わされる羽目になる。

「清野先生、どうですか、今日あたり一杯行きませんか」

 何かと思えば、また飲みの誘いか。夜は母親の世話をするから無理だとこの間断ったことをもう忘れたのだろうか。

「すいません、夜はちょっと。母親を看なくてはならないんで」

「そうは言いますけどねえ、清野先生。たまには息抜きも必要ですよ。先生は真面目だから、つい根を詰めすぎちゃうでしょ。いけませんよ。潰れてしまいます」

 まったくの正論なのだが、何故だろう、どこかがおかしい。そうか、私の気持ちが置いて行かれているのだ。

「でも、私の帰りが遅くなるとヘルパーさんに迷惑がかかりますし」

「ヘルパーがいるんですか。じゃあちょうどいい。遅くなると連絡を入れればいいじゃないですか。一時間くらいだからそんなに迷惑でもないでしょ」

 この男には話が通じない。断っても断っても、勇敢な騎士のごとく引き退らない。ある意味これは勇気なのかもしれない。他人の畑を耕そうと躍起になって鍬をふるう、トンチンカンな奴だ。諭すだけ無駄だろう。

「わかりました。では一時間だけ。ヘルパーさんに迷惑がかかるので、本当に一時間だけですよ」

 おそらく一時間では済まないと思うが、少しでも気に留めてもらいたくて念を押した。小向はあからさまに嬉しそうな顔をして、

「いいですいいです、一時間でいいです! 今夜! 仕事終わり! 行きましょう!」

 と叫んだ。今にも踊り出しそうな勢いだ。

「早く仕事終わらせちゃいましょう! 先生の研究室に迎えに行きますね!」

 そう言いながら自分の研究室まで、生まれて初めて草原を前にした小ヤギのように駆けて行った。

 たかが私と一杯飲むことがそんなに嬉しいものなのかと訝しむが、あんなに無邪気な反応を見せられては悪い気はしない。正直なところ小向と飲みに行くのは憂鬱であったが、誰かを喜ばせることができたという事実だけを見れば、私の自己肯定感を高めるには十分だった。たとえその誰かが小向であっても。

 私は満更でもない気持ちで、真弓さんに連絡を入れた。最初、仕事が終わりそうにないのでと打ったが、酒を飲んで帰ったらさすがに嘘がばれると思い正直に、飲んで帰るのでと打ち直した。

 真弓さんからは数分後に返信があり、たまには息抜きしてきてください、とのことだった。奇しくも息抜きというワードが小向の言葉と重なり、私は思わず文面を二度見した。

自分では気づかないだけで、実は私は息抜きが必要な状態なのかもしれない。昨夜母親が掻き回したトイレの匂いを思い出し、ため息とともに首を振った。

 

 どうしてこうなったと、私は天に問いたい。いや、一番問いたいのは目の前の男にだ。

「要するにねえ、清野先生は人見知りが過ぎるんですよ。誰でも彼でも愛想よくしろって言ってるんじゃありませんよ。でもねえ、せめて僕には笑った顔を見せてくれてもいいんじゃないですかねえ。せっかく同じ理学部で教えてるんですから。研究室も近いし、年も近いし。清野先生には気を許せる友達っていますか? きっといないでしょうねえ。清野先生はハンサムだけどちょっと冷たい感じがしますからねえ。達観しているというか、何でも本質をついてやるぞって目をしてる。いや、僕はいいと思いますよ。僕はいいんだけど周りがね。どう思うかですよねえ。清野先生だって嫌われたくはないですよねえ。だからね、何が言いたいのかっていうと、あれ、何でしたっけ。あはは、忘れちゃいました。まああれです、清野先生。仲良くやりましょうってことですよ。そんな豆食った鳩みたいな顔してると幸せが飛んでいきますよおお」

 小向の行きつけだという駅前の居酒屋に入って三十分。秒速で出来上がってしまった小向は日本酒のお猪口をぷらぷら揺らしながら、説教だか何だかよくわからない戯言を私に向かって延々と垂れている。個室なのをいいことに、小向の声は三段跳びのごとく大きさを増していく。

 注文しただし巻き卵やエイヒレの炙り、たこわさなどに秩序なく箸をつけ散々に食い散らかす小向は、口に物を入れながらも喋るのをやめない。奴の唾がふんだんにかかった料理には手をつける気にならない。私は小向に箸でつつかれているたこわさを見つめながら、来るんじゃなかったと深く後悔した。

 これでは息抜きになるはずもない。こうしている間にも小向の声は叫んでいるかのように大きくなる一方で、私は個室とはいえ周りの客に迷惑ではないかと気が気ではなかった。やはりこの男と飲んでもろくなことにはならないと確信した夜だった。

 一時間経っても、小向は私を解放してくれなかった。

「僕の時計ではあと十分ですねえ」

 などと寝ぼけたことを言い、私はふつふつと業を煮やした。

 店に来てから二時間が過ぎた頃、ついに小向が潰れた。テーブルに突っ伏したままいびきをかいている。絵に描いたような酔い方をする奴だ。このまま放置して帰りたいと思ったが、そういうわけにもいかない。タクシーを呼び、運転手に手伝ってもらって小向を後ろの座席に押し込む。

「清野せんせええ、楽しかったですねええ。また行きましょおおねええ」

 呂律が回っていない口調で小向は呑気に手を振った。手がタクシーの天井にぶつかっているがお構いなしだ。ドンドンと突き上げながら気が狂ったように手を振っている。

 タクシーが発車して、眩しい街の明かりの中に消えていく。まるで嵐のようだった。私は急いでスマホを見た。時間を大幅に過ぎてしまったため真弓さんから電話やラインが入っているかと思ったが、通知は一件もなかった。気を利かせてくれたのだろうか。申し訳なく思い、私は地下鉄乗り場まで走った。冷たい風が私の頬を切るように吹きつけてくる。いっそ微塵切りにでもしれくれ、跡形も残らないほどに。

 

 家に着いたのは二十一時過ぎだった。玄関のドアを開けると、リビングから明かりが漏れていた。急いで靴を脱ぎ、中へ入る。

「真弓さん、すみません。遅くなってしまって」

 真弓さんは食卓に座って文庫本を読んでいた。私の顔を見ると唇に人差し指を当て、

「しぃ。みーさんもう寝てるんですよ」

 と小声で言った。和室に目をやると、襖が閉まっていた。

「みーさん、今日はご飯よく食べてましたよ。ぶり大根、お好きなんですね。学さんの分もあるから、明日の朝にでも食べてくださいね」

「ありがとうございます。遅くなって、本当に申し訳ありません」

「いいんですよ。たまには羽を伸ばしてください。それで、今日は楽しく飲めましたか?」

 真弓さんは柔らかい笑顔で訊ねてくる。散々だったとは言えず、私は曖昧にええまあ、と答えた。

 真弓さんを玄関先まで見送り、再びリビングに戻ってようやく一息ついた。コンロの上には赤い鍋が置いてある。蓋を開け中を覗くと、出汁のきいたぶり大根の匂いがほわりと香った。

 そう言えば、小向が箸で料理をつつき回していたせいで、ほとんど何も食べられなかった。腹に手を当ててみれば、ぐうと小さく鳴った。

 ぶりと大根を二切れずつ深皿に盛り、おたまで汁を入れてレンジにかけた。戸棚にしまってあった日本酒の瓶を取り出し、一人で晩酌をする。

 ほろほろとしたぶりの身と味の染みた大根が、私のささくれた心を癒してくれた。母親は真弓さんの介添えのもと昼食や夕食を作っている。昔から日常的にやってきたことは体が覚えているのだろう。物事を忘れていくとは言え、体で覚えたことは考えるより先に動けるのかもしれない。母親は料理が上手だった。

 リビングの生き物たちは重なり合って私に尻を向け、ピサの斜塔のように傾いて眠ってる。夢でも見ているのだろうか。ぷひぃぷひぃと寝息を立てている。

この奇妙な同居人たちがいる生活にも大分慣れてきた。彼らは私にも母親にも真弓さんにも危害を加えることはない。ただ好き勝手に歩き回り、集まり、寝るだけだ。私たちを見守っているわけでもなく、今のところ何のご利益もないが、彼らがリビングの一角を陣取ってすやすやと眠る姿を見ると、不思議と穏やかな気持ちになる。普段特別に考えているわけでもないが、私はここにいていいのだと肯定されたような心持ちになる。

 不可解なリビングの生物たちを眺めながらの晩酌も悪くはないと思いながら、また一つ夜が深まっていった。

 

 

 今日はいつになく晴々しい気分で仕事を終えることができた。理由はわかっている。小向が休みだったからだ。昨夜の深酒が祟ったのか、体調不良で全休を取ったらしい。いい大人のくせして自己管理ができていないと思いつつも、私には好都合だった。

小向の仕事の進捗状況によって私の研究室に入り浸られると、私の仕事が遅々として進まずたまったものではない。しかし、今日は奴はおらず学生が訪問してくることもなかったため、溜まっていた雑務をこなし、長らく手つかずのままだった論文集を区切りのいいところまで読み、来週の講義のパワーポイントまで作成できた。気分がすこぶるいい。これで邪魔が入らなければ仕事が捗るのだということが証明された。私の能力不足や怠慢のせいではない。

 定時五分前から片付けを始め、時間きっかりに研究室を出た。外は雪が降っていた。見上げると、はらはらと舞う雪が私の頬に降りてくる。体温で溶け、つつ、と流れて顎の先からこぼれてゆく。底冷えするような夕暮れの寒さも手伝って、私の気分は最高潮に達していた。

 頬の雪を手の甲で拭っていると、

「せんせい」

 後ろで真っ平らな餅のような声がした。手紙の女だ。

「せんせい、ないているのですか。だいじょうぶですか」

 女は背伸びして私の顔を覗き込んできた。眉がハの字に垂れ、心配していますという顔つきになる。

「いや、顔についた雪を拭いていただけです。涙ではありません」

「そうですか。せんせいはかなしくないのですね」

「そうですね、今は別に」

 ほっとしたような顔を作り、女は踵を下ろした。

「それで、せんせい」

「何でしょう」

「おてがみよみましたか」

 来た。また感想を聞かれる。私は咄嗟に身構えた。内容はもう忘れたが、詩のようであったことはぼんやりと覚えている。カーテンがどうとかこうとか。

「読みました、けど」

「いかがでしたか。かんそうをききたいです」

 この女は予想を寸分も裏切らない。私は用意していた言葉を女に伝えた。

「素敵な詩だと思いますよ」

 微塵も思っていない言葉を口にするのは心苦しいものがあったが、正直に言うことだけが正義ではない。優しい嘘というものもこの世には存在するのだ。けれど、微笑みすら見せてやったというのに、女はひどく不満げな顔で、

「あれはしではありません」

 と言った。

「あれはしではなく、おてがみです。せんせいのためにかいた、おてがみなのです。ほんとうにちゃんとよんでくれたのですか」

 咎められるとは思ってもいなかった。読んだことには、読んだ。目を通しただけと言われればそれまでかもしれないが。内容を噛み砕こうとはしなかった。でも、手紙とはもっとわかりやすい言葉、伝わる言葉で綴ったものではないのか。あんな、解釈が必要な一方的なものではなく。

「読みましたよ。私には詩に思えたのですが、違ったのならすみません」

 ここは一応謝っておく。穏便に済ませるのが一番であることを、私は三七年間生きてきた経験から知っている。しかし、女は駄々をこねるように身を捩った。

「あやまってほしいわけではありません。わたしはただ、せんせいにおてがみをちゃんとよんでほしいだけです」

「ですから……」

「もうらちがあきません。せんせい、わたしとおちゃをしましょう」

 突然の提案に私は思わず、はあ? と言ってしまった。埒が明かないからお茶? どういう思考回路をしているのか、本気で女の頭を開けて覗いてみたいと思った。

「いちじかんだけでいいです。このちかくのかふぇにいって、わたしとおはなししてください」

 一時間だけ。どこかで聞いた台詞だ。こういうときの時間設定は大抵その通りにいかないということも、私は経験上知っている。

「すみません、これから帰宅して母親の世話をしなければいけないので」

 私は丁重に断った。昨日の今日で、また真弓さんに迷惑をかけるわけにもいかない。こう言えば、良識のある人間ならば引き下がってくれるだろう。小向は丸裸で敵陣に乗り込んで来たが、この女は奴よりは遠慮というものがわかっている気がした。

「おかあさんのせわ、ですか」

「はい、私の帰りを待っているので」

 ヘルパーがいることは言わないでおく。女は小難しそうな顔をして考え込んだ。その隙に私は踵を返し、それでは、と言った。

「せんせい、まってください」

 女が私の正面に回り込む。

「わたしもいきます」

「えっ」

「せんせいのおかあさんにごあいさつしたいです」

「いや、それは……」

 この女は何を言っているのだろう。私はわけがわからなくなってきた。お茶に誘われ、断ったら母親に挨拶したいと言う。この子の目的は何だ。

「悪いけど、それはできません」

「どうしてですか」

「どうしてって」

「せんせいにいつもおせわになっているみとして、あいさつしておきたいだけです」

「気持ちだけもらっておきますよ」

「なんですか、それ。わたしはせんせいのおかあさんにあいさつをしたいといっているのに、どうしてせんせいがわたしのきもちをもらうのですか。こどもにあげたおとしだまをははおやがとりあえずあずかっておく、みたいなことですか」

「ちょっと意味が……」

「わたしはせんせいとおちゃしたいんです。でもせんせいがことわるから、おかあさんにあいさつするのでもいいっていっているんです。それもことわるのですか。せんせいはあいてのようぼうをことわるとき、だいたいあんもていじせずに、むげにことわるだけなのですか」

「代替案……」

 女の言っていることは概ね正しいと思う自分と、いやいや根本からしておかしいだろうと思う自分がせめぎ合っていた。私より一回り以上も年下の女に言い返せないとは、何とも恥ずかしいことだ。だが、くねくねとした柔軟な植物のような女の論理を破れるだけの技量を私は持ち合わせていない。何か鋭いことを言ってやりたいが、私の唇はぱくぱくと空動きするだけで反論することはできなかった。

「わかりました。お茶しましょう。少しだけなら」

 仕方がなく折れることにする。真弓さんに連絡を入れようとスマホを取り出す。女の顔を見ると、要望が通った安堵と第二の要望が通らなかった不満が織り混ざったような複雑な顔をしていた。要望が通って当然という一匙の傲慢も垣間見え、私は釈然としない気持ちになった。

 真弓さんからは、了解です、とだけ返信が来た。すみません、ともう一度謝り、私と女は駅前のカフェへと歩き出した。

 女はさっきまでの勢いはどこへやら、私の隣を思い詰めた様子でちんまりと歩いている。私は話しかけるべきかそっとしておくべきか悩んだ末、そっとしておくほうを選んだ。無言で学生と一緒にカフェに向かって歩くというのは、これから洗礼でも受けに行くような神妙な心持ちになる。

 気づけば雪が降っていた。女のつむじに雪の粒がついている。女のコートのフードを縁どるファーにも雪が積もっていく。私はこのまま雪に埋もれてしまいたいと思った。輪郭を残さないくらい真っ白に埋め尽くして、一生春が来なければいいと思った。

春は嫌いだ。花粉症だからというわけではない。夏はもっと嫌いだ。薄着でいるというのがどうも苦手だった。秋はまだましだ。冬の匂いを連れてくるから。

 終始一言も喋らないままカフェに着いた。駅前にカフェはいくつもあるが、女はメジャーなコーヒーチェーン店の前で立ち止まった。

「ここでいいですか」

 女が言った。久方ぶりに女の声を聞いた気がした。ほんの十数分前に聞いたばかりだというのに。私は頷いた。

 先に注文するシステムで、私はホットコーヒー、女はなんたらフラペなんたらという長い名前の毒々しいほど甘そうな飲み物を頼んだ。窓側の席に向かい合って座る。

「せんせいはこーひーがおすきなんですね」

 女は太いストローでなんたらをかき混ぜながらそう言った。別に好きではないがメニューが見づらくて一番無難な飲み物を注文しただけ、とは言わなかった。まあ、と曖昧に答えておく。

「君のは随分甘そうですね」

「みさとです」

「え?」

「みっつの、むずかしいほうのさととかいて、みさとです。わたしのなまえ」

「あ、ああ、三郷さん」

「そしてこれはとーすてっどほわいとちょこれーとふらぺちーのです」

「とーす……」

「とーすてっどほわいとちょこれーとふらぺちーの」

 恐らくカタカナなのだろうが、女の平べったい言い方では気味の悪い呪文のようにしか聞こえない。女は口をすぼめ、ちゅるちゅると音を立てながらとーすを飲んでいる。

 女はここに来ても何も始めようとしない。女に噛まれて楕円形になったストローの先に目をやり、私はうっかり承諾してしまったことを後悔し始めていた。

 ペーパーカップの小さな飲み口からコーヒーをずず、と啜る。やはりインスタントコーヒーとの味の違いがわからない。多少香りはいいのかもしれない。わかるのはそれだけだ。

「せんしゅうのこうぎ」

 ストローから唇を離し、女が呟いた。講義と聞いて何か質問があるのかと思い、私は身を乗り出した。

「とてもおもしろかったです。せんせいのこえはやっぱりわたしのこころにしみわたります」

「声?」

「はい。せいぶつとむせいぶつのちがいについてのこうぎでしたが、こえはどちらにぶんるいされるのでしょうか」

 質問は質問だが、思いもよらない内容だった。声は生物か無生物か、そんなこと考えたこともなかった。答えに困って口をつぐむ。

「せんせい、わたしはこえはいきているとおもうんです。せんせいのこえは、わたしのむねのなかでどんどんぞうしょくしていきます。からだのなかでえねるぎーをうみだしているし、これってせいぶつのじょうけんにあてはまりますよね」

「確かに生物の増殖方法、代謝という観点からすれば、ある意味当てはまっているとも言えますが。でも細かく見ていったときに、それは有性生殖なのか無性生殖なのか、生命活動をしていると言えるのか、という問題が出てきますよね。そもそも声とは空気の振動でしょう。音、ですよね。肉眼では見えないという点では細菌類と似ているかもれませんが、これを一口に生物と言うことが果たしてできるのか」

「せんせいはせいぶつがくしゃさんだから、こえはせいぶつではないというんですね。わたしはじつはぶんがくぶなんです。このせかいのものごとすべてをろまんちっくにとらえてみたいとおもってぶんがくぶをせんたくしました」

「では何故理学部の私の講義を?」

「せいぶつって、ろまんちっくだなっておもうんです。せいぶつとむせいぶつのあいだにはけっていてきなちがいがあるようで、そのじつ、ひどくあいまいなものだとおもうんです。ふたつのあいだにはあいいれないていぎがある。でも、どうしてもとどかないほしみたいなひかり、おりひめとひこぼしのようにおたがいをつよくもとめているようにかんじます。ほんのひとつのさでせいぶつがむせいぶつに、むせいぶつがせいぶつにひっくりかえることもあるんじゃないかと。てをのばして、おたがいつなぎとめているのだとおもうんです」

「それは素敵な考えですね。私には文学の素養がないので、三郷さんの言うようにロマンチックに考えることはできませんが、自分なりの解釈で専門分野以外の学問にも興味を持つことは素晴らしいことだと思います」

「ありがとうございます。せんせいにそういっていただけるととてもうれしいです。せんせい、もっとぎろんをしましょうよ。わたし、せんせいのこうぎがほんとうにおもしろくてすきなんです。ぶんがくちっくなしこうのわたしと、りけいのあたまのせんせいとでぎろんをしたら、ぜったいたのしいとおもいます」

 

 実際、女との議論は興味深いものだった。斜め上から繰り出されるロマンチックを根底にした女の見解は、私の探究心を大いに刺激した。触れたことのない柔軟な考え方に、私は感心していた。学問の垣根を越え、二つ、いやそれ以上の分野に関連を持たせることのできる思考は、研究者にはもってこいの素質だ。私は既に女を同志として見ていた。こんなにも心が震える会話をしたのは、誰と、いつぶりのことだったろうか。

 私は女のことを見直していた。勝手に奇妙な女だと決めつけてしまっていたことを恥じた。見直すというのも私の傲慢であるかもしれない。女は最初から聡明で、手紙を渡してくるという解せない行動もあるが、それは恐らく常識にとらわれない感覚を持っているがゆえの行為なのだろう。私の狭い固定概念の柵を、女は思い切りひん曲げた。柵の外に出た私は、これほどまでに爽快に呼吸ができるものなのかと驚き、感動した。

 ゆうに三時間が過ぎていた。途中から時計を気にすることも惜しくなり、夢中で女との議論に花を咲かせた。女の新鮮な思考を目の当たりにするたび、私は脈々と研究意欲が湧くのを感じた。

 女がトイレに立って初めて、私はスマホに何件もラインが来ていることに気づいた。すべて真弓さんからだ。文面から彼女の感情は読み取れないが、何件も送ってくるということは相当ご立腹なのだろう。昨日に続き、今日までも迷惑をかけてしまった。

 女がトイレから戻って来た。私は椅子から立ち上がって、

「さすがにもう帰りましょう。あまり遅くなると三郷さんも危ないので」

 と言った。

「そうですね」

 女は素直に頷いて、二人で店を出た。

 地下鉄の入り口まで来ると、それまで黙っていた女は急にもじもじとし始めた。

「それじゃあ、気をつけて」

 軽く手を上げたところ、その手をいきなり掴まれた。驚いて身を固くすると、

「せんせい、たのしかった。ほんとうにたのしかったです。わたし、このたのしさをわすれたくありません。もっとかんじていたい。せんせい、わたしのへやにきませんか。ひとりぐらしなので、だれもいないです。せんせいともっといろんなはなしをしたいです。いろんなことをしたいです」

 眉はハの字に、瞳をたっぷりと潤ませながら女は言った。私の右手を両手でぎゅっと包み込む。

 言葉を無くしていると、女はさらに畳みかけるように、

「せんせいと、ひとつになりたいです」

 と唇を震わせた。喉の奥から何かがせり上がってきた。体の芯がきゅうう、と固くなり、口の中に唾液が溜まる。

「せんせい……」

 女の艶やかな眼差しが痛い。私は堪らず目をそらした。

「すみません、家には行けません。もう遅いので、私はこれで」

 そう言うのがやっとだった。私は女を見ず、握られた手を振り払って地下鉄乗り場へ続く階段を駆け降りた。途中足を踏み外しそうになるもなんとかこらえて、ちょうどやって来た電車に飛び乗った。

 失礼な去り方だったかもしれない、と後になって悔やんだ。仮にも学生、教え子に対して取る態度ではなかった。女経験の乏しさが露呈してしまった。私は電車の中だというのに、ああ、と声を出して顔を押さえた。なんたる失態。これから先、どんなふうに彼女と接すればいいのか。

 ポケットの中で、再びスマホが震えた。真弓さんからだ。

 学さん、今どちらですか。心配しています。

 私はのろのろと画面をタップして返信した。

 遅くなってすみません、今地下鉄です。あと十五分程で家に着きます。

 正直、女の家に行ってみたい気持ちはあった。恋愛感情では決してないが、女と体を重ねてみたい衝動もないわけではなかった。しかし、それは自身の破滅につながってしまう。職を失うかもしれないという恐れが咄嗟によぎり、次いで何故か母親の顔が浮かんだ。

私は自分がわからなくなった。真っ暗な地下鉄に乗っていることと相俟って、どこへ向かっているのだろうという不安が私を襲った。答えの出ない問いを自分に課すのは得意であるはずだが、今日ばかりは気が滅入った。ドアに体を預け、体の奥底の泥濘から出たような深いため息をついた。

 

 

 藻屑になる夢を見た。最初、私の足に藻屑が絡まっているのかと思ったが、振り落とそうとしても足に力が入らない。よく見ると足が藻屑になっていた。

 次いで、左腕も藻屑になった。右手の指先が戯れ合うようにゆっくり藻屑になっていく。全身が藻屑となり、顔だけが最後に残った。それも侵食されるように顎の先から藻屑になっていき、ついにはただの藻屑の塊となったところで目が覚めた。

 何故こんな夢を、と思うも夢は大抵現実の物差しでは測れない巨大な矛盾の集まりなので、気にするだけ時間の無駄だ。ベッドから起き上がる。

 昨日は家に帰ってから真弓さんに怒られた。自分の帰りが遅くなるから、とか時間外労働について責めるのではなく、彼女が怒ったのは母親が不安そうにしていたことだった。

「わたしは別にいいんです。でも、みーさんが学さんの帰りが遅いことをすごく心配してて、落ち着かなくて部屋中うろうろしていたんです。たまには息抜きも必要だと思います。けど、みーさんのことも考えてあげてください」

 そう言われてはっとなった。私はここ最近、あまりにも真弓さんに母親のことを任せすぎていた。清野美春は誰の母親なのか。私の、だろう。本来ならば私が看るべきなのだ。雇い主とは言え、真弓さんに負担をかけすぎてはいけない。

 顔を洗い、仕事着に着替える。そろそろ真弓さんが来る頃だ。リビングへ行き、カーテンを開ける。襖を少し開き、母親の様子を確認する。まだ眠っている。

 仕事へ行く準備ができてしまった。真弓さんはまだ来ない。スマホを見るも、連絡はない。いつもなら既に交代している時間だ。ラインをしてみようか迷ったが、もう少しだけ待ってみることにした。

 時計の秒針を目で追い、一回りして長針がカチリと動くのをぼんやりと見つめた。五回ほど動いた頃、これでは仕事に遅刻してしまうと思い玄関へ向かった。靴を履きながら真弓さんにラインを打っていると、ドアの向こうがにわかにざわざわし始めた。彼女が到着したようだ。

 彼女を迎え入れるためドアを開けようとすると、

「だから言ってるでしょう、もう少しよ、もう少し」

 と彼女の声がした。誰か一緒にいるのかと訝しんだが、喋っているのは彼女一人だ。どうやら電話をしているらしい。

「昨日遺言状の話をしておいたから。まあ忘れてると思うけど、今日もう一回してみるつもり。その場で書いてもらってもいいしね」

 声は途切れ途切れだがどうにか聞こえる。しかし、内容がまったく掴めない。遺言状という単語が聞こえて、彼女の親族や近しい人に死にそうな人がいるのだろうかと想像する。

「そうよ、認知症なの。わたしのことをすごく慕ってくれているから、多分ね。保険金、結構かけてるみたいなの。そのままだと息子にまるまる入るけど、遺言状があれば別でしょ。全額とは言わないわ。でも半分くらいはもらう権利あるんじゃないかって思うのよ。だって週五日、ほとんどわたしが面倒を見てるのよ。給料? うーん、結構もらってるほうだと思うけど、でも、労力からすれば全然見合ってない。介護ってすごく大変なのよ。あなたにはわからないかもしれないけど。え、息子? 大学の教員をやってる。金取りいいんだから、親の遺産なんてそんなにいらないでしょ。いい年して独身よ。顔は結構いいのに、雰囲気が暗いもの。あれじゃあ女は寄りつかないわ」

 真弓さんはまだ喋り続けている。いや、ドアの向こうにいるのは本当に真弓さんなのだろうか。信じたくなかった。

 カチカチカチ、という音がして手元を見ると、爪がドアノブに当たっていた。小刻みに、何度も。手が震えているのだと気づくのに時間がかかった。

 間違っている。こんな現実など霧散してしまえ。目をきつく瞑り、頭を振った。しかし、ドアの外で小声ながらも下品に笑う女は、間違いなく真弓さんなのであった。

 今まで懸命に母親の世話をしてくれていたのは、母親の遺産をもらうためだったのか。そう思うと、やるせなさが足元から全身を駆け抜けていった。

 真弓さんの会話はもうすぐ終わりそうだ。今にチャイムが鳴り、飄々とした顔で彼女は私に挨拶をするのだろう。私はどんな顔をすればいい。お世話になります、お願いします、ありがとうございます、行ってきます。そう言って、家を出ればいいのか。彼女は今日、母親に遺言状を書かせようとしているのに?

 遺産なんて、正直どうでもよかった。真弓さんが望むのなら、全額彼女にあげてもいい。ただ私は彼女との間に築いてきた信頼関係が、例えそれが雇用関係であっても、選ばれた者同士にしか結べない固い糸が、ほつれてほどけていくことが悲しかった。母親のことをみーさんと呼び、熱心に語りかけ笑顔で接し、汚れ仕事も厭わないでやってくれたそれらの行為が、真心などではなく下心であったことが虚しかった。

 私の母親を、金の成る肉の塊だと思っているのだろうか。どうしてもそんな考えが頭から離れない。いや、彼女が今までしてくれたことは下心あってのことだったかもしれないが、仕事は丁寧にこなしてくれたし、母親も彼女を気に入っていたではないか。裏切りだと思う前に、彼女が私たち親子に与えてくれたものを思い返せ。

 チャイムが鳴った。出なくてはいけない。仕事にも遅刻してしまう。けれど、足が動かなかった。もう一度チャイムが鳴る。踏み出せない。

 ガチャ、とドアが開き、真弓さんが顔を出した。清々しいまでにいつもの朗らかな表情だった。しかし、私の姿を見て目を見開く。

「学さん、どうしたんですか、大丈夫ですか」

 彼女はバッグからハンカチを取り出して私の目元に当てがった。私は泣いていた。涙は製氷器のように次から次へとこぼれ落ちる。私が受け取らないので、真弓さんは不思議そうな顔をしてハンカチを引っ込めた。

 私はその場にしゃがみ込んだ。顔を覆い、ぼろぼろと涙を流し続けた。

「もうどうしたんですか、学さん」

 真弓さんが背中をさすってくれる。服の上からでも彼女の手の温もりが伝わってきた。

 胸が千切れそうなほど痛かった。昔、友達との喧嘩に負けて泣きながら帰って来たとき、母親が背中をさすってくれたことを思い出した。

「学は弱くない、優しいんだよ」

 私はそうか、と思った。真弓さんが母親の遺産目当てで今まで親切にしていたこと、母親に遺言状を書かせようとしていること、信頼関係が壊れてしまったこと、私のことを悪く言っていたこと。それらが悲しいのではない。私が一番悲しくて虚しくて悔しいのは、母親が彼女のことを慕っていることだ。何も知らないで無邪気に真弓さん、真弓さんと彼女の後をついて歩く姿が、不憫でならなかった。彼女が来たら目を輝かせ、信頼しきっている姿が哀れだった。

 私は顔を上げ、真弓さんに向かって嗚咽混じりに言った。

「母を、よろしくお願い、します」

 彼女は一瞬怯んだような顔になり、けれどすぐに笑顔を作って、

「もちろんです」

 と言った。私はようやく立ち上がり、よろめきながら家を出た。走ったところで、仕事には完全に遅刻だった。

 空は晴れていた。空気は冷たいが、刺すほどではなかった。そのことがいっそう私の胸を苦しくさせた。

 

 

 今朝のことが頭の大半を占めていて、講義中だというのにため息が出てしまったり、意識が別のところへ行ってしまったりした。さらにプリントを配るのを忘れていたり、パワーポイントを一枚飛ばして進行していたりと、注意力散漫もいいところだった。

 教室に入って気がついたのだが、今日は女が私の講義を受ける日だった。昨日あんな去り方をしてしまっただけに気まずかった。一方の女は相変わらずぬいぐるみにしか見えないペンケースを机の右側に置き、左側にコーヒーカップを置いてじっと私を見つめている。いつも通りの女の様子に少し安堵する。

 やっとの思いで進めていた講義も中盤に差しかかり、一方的に話すのも辛くなってきたので学生に質問させることにした。

「何か質問はありませんか」

 誰も手を挙げなくとも、今日は目についた学生にでもこちらから当ててやろうと思っていた。

 案の定、誰も手を挙げない。教室をぐるりと見渡してみても、皆白々しく目をそらす。ならば、と一番後ろの席に座る茶色いパーカーを着た男子学生に当てようとしたところで、す、と視界の端に手が現れた。見ると、一番前に座る女が腕を耳の横につけまっすぐに手を挙げていた。

 よりにもよって、と身構えたが当てないわけにもいかない。

「じゃあ、そこの君」

「きみ、ではありません。みさとです。きのうおしえましたよね」

 椅子から立ち上がった女は、不満げな口調でそう言った。昨日教えたという言い方に心臓が跳ね上がったが、さほど不審な意味ではないかと考え直した。学生が教員に名乗ることは別におかしくも何ともない。

「ああ、三郷さん。それで、質問は」

「きょうのてーまは、ういるすはせいぶつかむせいぶつか、というはなしでしたよね。わたしはういるすはせいぶつであるとおもいます。というか、このよにそんざいするぶっしつはすべてせいぶつであるとおもっています。せんせいのおかんがえをききたいです」

「ウイルスが生物か無生物かという問いの答えは、科学者によって異なります。ある意味では、ウイルスは増殖して子孫に遺伝情報を受け継いでいるとも言えます。これは生物の条件に当てはまりますね。しかし、構造、遺伝情報、増殖方法、代謝という定義の上でウイルスは当てはまらない部分が多い。例えば、生物は代謝を行いエネルギーを生産しますが、ウイルスは一切代謝を行わないのです。理由はこれだけではありませんが、私はウイルスは無生物派です。あと、三郷さんはこの世に存在する物質はすべて生物だと思うとのことですが、それは少し無理があるように思います。考えとしては面白いのですが、例えばこのポールペン。これは生物ですか。これは代謝を行いますか、増殖する能力がありますか。答えはノーです」

「でも、たとえばせんせいがそのぼーるぺんをわたしにくれたとします。わたしのなかでぼーるぺんはせいめいをえます。わたしというばいたいがあってのことかもしれませんが、ぼーるぺんはいきいきとかつどうをはじめます。わたしにいきるえねるぎーをあたえてくれます。それはまぎれもないじじつです。せんせいであっても、それはちがう、うそだ、まちがっているということはできません」

 女はただでさえ大きな目を見開いて、鼻息荒くそう言った。間違っていると言うことはできない、と言われてしまえば、私は反論することが難しくなる。そうですね、と肯定しようにも、何に対するそうですねなのか私にもわからない。

 考え込むふりをして思考を整理していると、女がまた口を開いた。

「せんせいはきのう、わたしのことをすてきだといいました。わたしもせんせいにおなじことをおもっています。わたしのことを、すばらしいともいいました。これらのことからかんがえるに、せんせいはわたしのことがすきなのですよね。こういをいだくあいてのことは、すてきにみえますよね。せいぶつはほんのうてきにしそんをのこすことをせんたくするんですよね。よりいいあいてとひとつになって、よりいいしそんをのこす。これがせいぶつのほんのうなんですよね。せんせいはどうしてきのう、わたしをこばんだのですか。わたしはじゅんびはできていたのに。せんせいにほんのうはそなわっていないのですか。せんせいはしそんをのこしたくないのですか。それならせんせいはせいぶつではないのですか」

 言いたいことがたくさんあるのに、何一つ言葉にはならない。私は水槽の中の間抜けな金魚のように口をぱくぱくと動かし、冷や汗が額からこめかみを通って流れ落ちていくのをただ感じていた。

 勘弁してくれ、と思った。けれど、同時にやはり女の見解は興味深いとも思っていた。こんなときに思うことではないのかもしれないが。

 教室内がざわめいている。女の爆弾のような発言に反応しているのか、教員として情けない私の姿を嘲笑っているのか。もうやめてほしかった。私はただのうだつの上がらない生物学者なのだ。耳を塞ぎたい、目を閉じてしまいたい、小さく丸まって学生たちの視線から逃れたい。

 螺旋階段を降りているような眩暈が私を襲った。数えきれないほどの目、眼、め。私を見るな。視界が歪む。倒れてしまったほうが楽なのかもしれない、と思ったそのとき。

 コンコン、と前の出入り口からノックの音が聞こえた。答える間もなくドアが開き、教務の女性職員が入って来た。

「清野先生、少しいいですか」

「ああ、はい」

 彼女の後をついて教室の外に出る。まだ視界がぐるぐると回っていた。

「清野先生、今病院から連絡がありまして、お母様が……」

 視界だけでなく聴覚も歪んでいるのだろうか。彼女の声がよく聞き取れない。何を言っているのか理解できない。耳鳴りがする。今、病院と言ったか。私のほうこそ連れて行ってくれ。視覚も聴覚も、涙腺までも、ずっとおかしいのだ。

心の中の自分の声がうるさくて、彼女の話の内容が頭に入ってこなかった。それでも私は頷き、教室に戻り、

「急用ができたので、今日の講義はここまでにします」

 と学生たちに告げた。誰の顔も見なかった。

 

「学、あなたは優しい子ね。賢くて、優しい。わたしの自慢の息子」

 病院へと急ぐ道すがら、幼い頃から幾度となく母親に言われ続けた言葉を思い出していた。他人に優しくした覚えはない。私は誰よりも優柔不断だっただけだ。母親は私の何を見て優しいと言っていたのだろうか。

 今ではもう私の名前すら呼ばない。私を見ながらどこの誰だかわからない人物の名前を口にする。

「人生は学びの場よ。どんな出来事からも自分なりの学びを見つけて、深めていってほしい。だからあなたは学。素敵な名前でしょう」

 そう言って微笑んで見せた母親は、今や遠い記憶の彼方だ。何故忘れる。自分でつけた名前ではなかったのか。思いを込めてたった一人の息子に贈った名前ではないのか。未婚のまま親となり、誰の手も借りずにたった一人で私を育て上げた。あんなにも愛情を注いでくれたではないか。それなのに何故、自慢の息子とまで言った私の名前を忘れるのだ。

 幸い、母親が運び込まれたのは同じ敷地内にある大学の附属病院だった。雪でぬかるんだ道を私は走った。足元で泥が跳ね、私の靴やスラックスの裾を汚す。気温が高く、空はからりと晴れていた。吹雪だったならどんなによかったか。前も見えないほど絶え間なく吹きつける雪風に私は心から安心することができただろうに。

 病院に着き、受付で事情を話すと、四階の病室を告げられた。エレベーターに乗り、四階を押す。間違って三階も押してしまった。連打するがランプは消えない。三階で停まり、扉が開く。焦ったいほど開閉が遅い。

 四階に到着し、扉が開ききる前に飛び出す。右肩が扉にぶつかった。じんと痛むも構わず病室へ向かう。

 四〇一と書かれたプレートの下に母親の名前があった。どうやら個室らしい。コン、とノックをしてドアを開ける。真っ先に、ベッドの脇に立つ真弓さんの後ろ姿が目に入った。彼女が振り返る。

「あ、学さん」

「真弓さん、母さんは」

 部屋に入ると、母親がベッドに寝ていた。頭には包帯が巻かれているが意識はあるようで、目を開き天井を見つめていた。

「わたしがちょっと目を離した隙にみーさん、外に出ちゃったんです。すぐに気づいて追いかけたんだけど、曲がり角のところで自転車が飛び出してきて。ぶつかりはしなかったんだけど、みーさん驚いたのか、避けたときに塀で頭を打っちゃって。そのまま倒れ込んだから、急いで救急車を呼んで病院に。大事には至らなかったんですけど」

 真弓さんは説明しながらぶるぶると震え出した。

「ごめんなさい、学さん。わたしの不注意でこんなことに……」

 唇を真っ青にして謝る彼女を責めることはできなかった。母親に目を移す。虚ろな目で天井の一点を眺めている。染みでもあるのかと思い目を向けてみたが、白が広がっているだけでそれらしきものは見当たらない。

「命に別状はないならよかった」

 私がそう言うと、真弓さんは泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す彼女に何と声をかければよいのかわからず、悩んだ末に、

「いつもありがとうございます」

 と言った。顔を上げた彼女は唇を震わせ、学さん、と呟いた。

 母親がゆっくりとこちらを向いた。真弓さんのほうをじっと見つめ、

「真弓さん」

 と痰が絡まった声で言った。

「みーさん、ごめんね。わたしのせいでこんな目に」

 涙声の真弓さんの言葉に、母親は首を振る。今度は私に目を向け、しばらく静止する。目が不自然に泳いでいる。母さん、と呼びかけようとした瞬間、

「どちらさんですか」

 まるで異物を吐き出すような声で母親は言った。記憶をたぐるように目を細めたり見開いたりしている。隣で真弓さんが息を飲む気配がした。

「母さん……」

 弱々しい声が出た。母親は眉間に皺を寄せ首を捻る。

「母さん? わたしに子供なんていないですけど」

 白い闇が降りてくるようだった。母親の顔が白く弾けた。視界が狭まり、呼吸が重くなる。

「みーさん、何言ってるの、学さんですよ。あなたの息子さんじゃないの」

「裕之さんとわたしの間には息子はいないわ。だって付き合ってもいないもの」

 母親と真弓さんが何か話している。けれど、耳の穴にはんぺんが挟まっているように、ぶわぶわとした音にしか聞こえなかった。私はベッドから一歩後ずさった。

「学さん……」

 真弓さんが私の名前を呼んだ。それすらもはっきりとは聞こえなかったが、音の長さと雰囲気と状況的にそう判断した。何と答えればいいのだろう。名前を呼ばれただけでは私はどうしようもない。具体的な言葉を言ってほしかった。

 私は急速にここにいる理由がわからなくなってきた。真弓さんがもう一度、学さん、と呟いたが、それにも違和感を感じた。学、というのは私の名だったか。学、学くん、学さん、学、学、学。そんな名前がこの世には存在するのか、と不思議に思えてくる。学生の頃に何度も経験したゲシュタルト崩壊が、まさか自分の名で起こるとは。

 目の前の母親の、いや、母親と思しき老婆の顔が霞んでいた。この老婆には息子はいないらしい。ならば私はどうしてここに突っ立っているのだろう。走って来た。靴もスラックスの裾も飛び跳ねた泥で汚れている。エレベーターに肩をぶつけた。もう痛みは引いたが、無意味に肩に手をやる。

 気づけば、帰ります、と言っていた。その言葉は私の唇の間からぽとりと転がり落ちた。真弓さんが何か言っているが聞こえない、聞きたくない。ふらふらと病室を出た。徐々に視界が開けてくる。

 冷静になると、医者からの説明を聞いたり必要があれば入院の手続きをしたりと、やるべき作業がたくさんあることに考えが及んだ。今すぐ病室へ戻らなければ。しかし、歩き出した足が止まらない。ナースステーションを横切り、奥の病棟まで行こうとする。ぬくもりを求めて彷徨う亡霊のようだと思い、可笑しくなる。だが、笑うと別のものまで溢れ出してしまいそうで、必死に抑えた。

 行き止まりまで来ると、引き返すしかなくなった。結局私は、意味もなく四階を往復しただけだった。四〇一の病室に戻る。帰りますと言った手前、再び部屋に入るのは気まずかった。

「あ、学さん。よかった、帰ってきた」

 真弓さんが駆け寄ってきて私の腕を掴んだ。

「これからお医者さんが来るって。学さんもちゃんと居てくださいね」

 はい、と頷いて彼女の顔を見ると、私のことをさも気の毒と思っているような表情をしていた。それもそうだ、私は母親に存在を忘れられた哀れな息子なのだ。だが、何故だろう。一方で、今までは気にならなかった彼女の笑い皺が妙に浮き出て見えた。その皺が深く刻まれるときは、これでさらに母親の遺産が手に入りやすくなったとほくそ笑むときか。そんな底意地の悪い考えが頭を掠め、両手を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。その痛みでしか正気を保てそうになかった。

 医者の話を聞き、今日は念のため入院してくださいと言われたので、手続きを済ませた。私のことを忘れてしまったみたいなんです、とは言えなかった。もともと名前は忘れていたことだとか、頭を打ったショックで混乱しているのだろうとか、勝手に理由を探して納得しようとした。これ以上他人に哀れみの目を向けられるのは耐え難いというある種の見栄もあった。

 病院を出て、真弓さんとも別れ、一人帰路についた。研究室にノートパソコンを忘れたことに気づいたが、取りには戻らなかった。どうせ家でも何も手につかないのだ。

 昼食を食べていなかったが、腹は減っていなかった。一刻も早く家に帰り、布団に潜りたい。みみっちい世界を断絶したかった。だが、布団一枚で断絶できるほど世界は単純ではなく、薄くもなく、軽くもない。そんなことはわかっている。つまり、私はただ逃げたいだけだった。

 唐突に思い出す。女から初めにもらった手紙を挿んだあのつまらない小説は、逃避行がテーマだった。ままならない現実に嫌気が差した主人公は、幼馴染の少女とともに富士の樹海まで逃避行する。もちろん、死ぬつもりで。ありきたりなテーマと急下降が多いストーリー展開がどうにも解せなかった。

 逃げることはつまらないことなのだ。けれど、立ち向かう勇気がないときは一体どうしたらいい。打ちのめされたとき、霞のように漂う逃避の誘惑には抗い難いものがある。現実を指先で弄ぶくらいのしたたかさが欲しい。

 家に着き、靴を脱ぐと同時に玄関に倒れ込んだ。体からげっそりするくらい大量に疲れが溢れ出た。どうにかリビングまで這って行った。ドアを開けると、何やら楽しげなざわめきが聞こえてきた。

 リビングの中央で、珍妙な生き物たちが宴を開いていた。まるで花見でもしているかのように円になって座り、見たこともない酒を飲んでいた。彼らの声は耳障りというほど大きくもなく、一滴の煩わしさを含んだだけの底抜けに愉快なものだった。私はドアの前であぐらをかき、彼らの宴を見守った。

 さっきまでの疲れが嘘のようだった。私の体から流れ出た疲れはそのまま消えてしまったらしく、へんてこな生き物たちを見れば見るほど浄化されていく心地がした。

 でしゃばらず、踏み込みすぎず。私と彼らの間には絶妙な距離感があった。彼らは自分たちのしたいように日々過ごしている。わざわざこんな日に宴を開くなんて、と思わないわけではないが、彼らのそんな気楽さが救いであることもまた確かだった。

 私はふと思いつき、電話機の横のメモ帳とペンを手に取った。この状況を書き記したくなったのだ。幸と不幸、生と死、生物と無生物。そのあわいで宴を開く幻の生き物たちがいとおしく思えたこの瞬間を永遠に保存するために。

 

 

 世は常、日頃は迷ってばかり。

 意味のある問いは歴史の彼方に眩ました。

 流行りの本を手に取るが内容が頭に入ってこない。

 論じる必要性は多すぎる。

 しかし何を求めて筆をとるのか忘れ果てた。

 幻の生き物たちが、今日もリビングで宴を開いていて危ない。

 叱られることには慣れ、自分の母親の顔もかすむ始末。

 どこに着地したらよいのかわからず、飛び方すらも覚えていない。

 幻の生き物たちが今や生活を共にする家族。

 わかち合うことはできないが、干渉もしてこないちょうどよい距離感。

 人のことなど話すに事足りない。

 なんてことはない夕日に、今日も何も浮かばなかった。

 

 

 ペンを置いて、書き終えた文章を眺める。これは詩ではない。歌詞でもなければ、小説の一節でもない。ただの文字の羅列だ。状況や感情を乗せた、拙いニホンゴ。

 書いて満足した私はメモ帳からそれを破り取り、丸めてごみ箱に捨てた。夕日と書いたが、実際はまだ陽は高かった。レースのカーテン越しに柔らかな陽が差し込んでいた。ありもしない生き物たちが高らかにげっぷをした。