tsuckysのブログ

詩ともポエムとも迷言ともつかぬ言葉のつらなり

ネージュ・ララマンの鮮血

ネージュ・ララマン様

 

 光の血というものを見たことがありますか。

 光はあれです、光がまぶしいとかの光です。

光の血というのは、赤い光のことじゃありません。ぽっかり空いたきず口から、真っ赤ですきとおった血が流れてくるんです。

光の血は人間が転んだときみたいにじわりじわりとにじんでくるんじゃなくて、台風みたいないきおいで周りもたくさんまきこんであふれていきます。

 でも、バターをとかしたような甘いにおいがするのでぼくは光の血を見るとうれしくなります。

どこにも行くところがなくて、血管にうっかりつまってしまう血のかたまりは不幸です。出して、出してよと毎ばん泣いているのが、ぼくには聞こえてきます。その泣き声はあまりにもあざやかで、ぼくは耳が黄色にそまっていくのを感じます。

 こんな話は、たいくつですか。

 ぼくはふだん手紙を書かないから、何を書いていいのかわからないんです。

 クラスの女の子たちはみんな手紙を送り合うのが好きみたいだけど、ぼくはちょっと苦手です。だって、手紙って思ったことや感じたことを書くんでしょ?

 ぼくはとても多くのことを思って感じているから、便せんが文字で真っ黒になっちゃうよ。

 思ったことや感じたことはぼくがえんぴつを動かすよりも速く進んで行ってしまうから、やっと追いついてもすぐに遠くへ行ってしまいます。

 ネージュ・ララマンは何を思っていますか。いつも何を見て、何を考えて、だれに会いたくて、何を食べていますか。

 ぼくの知らないところでのあなたのことが知りたいです。

 

                                 久遠雪日

 

 

 昔の手紙が出てきた。

 とうに色褪せたと思っていたまばらな記憶が、針に糸を通すような速さで蘇ってきた。

 渡せなかった手紙だ。

 宛名に書いてあるロックスターみたいな名前の彼は、僕の唯一の友達だった。

 光の血というのも、本当に見たことがあった。今でもときどき見る。僕はここに書いてあるように、多くのことを思い、感じ、考えて生きている。けれど、それは多分他の奴らも同じで、僕とどこが違うのかと聞かれてもきっと答えられない。

母さんは僕に、「雪日はみんなと同じ、そう思っていればすべてうまくいくのよ」と言った。実際にその言葉を呪文のように唱えていれば、教室中に張り巡らされた銀色の硬い糸は気にならなくなったし、給食のカレーの中で子豚がか細く鳴いているのも見なかったことにできた。僕は目を閉じるのが上手な子供になった。

 僕はしばらく、机の引き出しの奥から出てきた手紙を見つめた。小学生の頃の僕の字は右肩下がりで、お皿に最後まで残ったパスタのようにくねくねとひん曲がっていた。右肩下がりに書く癖は今も変わっていない。

 ネージュ・ララマンという友達をなくしたとき、僕はどんなことを思ったのか思い出せない。何も思わなかったわけはないのに、彼の姿形のままそこだけパネルが外されたみたいに、僕の感情ごと抜き取られていた。

 彼が僕にしてくれたこと、与えてくれたもの、それらは既に曖昧で僕の中には排気ガスのように切ない匂いしか残していなかった。僕はその残り香を吸うことでしか彼を思い出すことができなかった。

 手紙を封筒にしまい、机の上に置いた。部屋の片付けは一向に進まない。手紙は捨てようかどうか迷ったが、一生訪れることのないだろうたった一つの機会に対する期待が抑えられなくて、結局向こうへ送るダンボールの隙間にそっと入れた。

 一階のリビングから母さんの呼ぶ声がする。そろそろ引っ越し屋が来る頃なのに、僕の六畳の部屋には本や服や雑貨類が無秩序に散らばっていた。全ての荷物を持っていくわけではないから、仕分けをしなければならない。僕の苦手な作業だ。持って行く物たちの喜びに満ちた声や、置いていく物たちの寂しげに啜り泣く声が聞こえていちいち心を揺さぶられるからだ。

彼らは手に取ると自分の魅力をアピールするようにオレンジの光を煌々と放つ。置いていくと決めて手放そうとすると途端泥のように重くなり、濁った目で睨んでくる。感じないように目を閉じても、今度は匂いで訴えてくるので切りがない。

 家を出て行く選択なんてしなければよかった、と淡い後悔がよぎる。片付けが終わらなくて弱気になっているだけなのかもしれない。これは僕が望んだことだ。住み慣れた、でもどこか息苦しかった実家を出て、新しい土地に住み着くことを僕は切望していた。

 僕はもう一度、ネージュ・ララマンのことを考えた。水槽の中を泳ぐ魚のように、記憶の中の彼と目が合いそうで合わない。ぼんやりと霞んだ視界は、彼を今にも消し去りそうだった。

 リビングから母さんの声がする。引っ越し屋が到着したようだ。僕は床に散乱した物たちを掻き集め、いっしょくたにダンボールに詰め込んだ。こうなったらすべて持って行くしかない。すでに仕分け済みの置いていく物たちが、恨めしそうな目で僕を見てくる。

「ごめんな」

 と呟いて、僕はダンボールを抱え部屋を出た。

「北海道までで間違いないですね」

 引っ越し屋のお兄さんがメモを見ながら僕に訊ねた。その地名を聞いた瞬間、母さんがかすかに眉をひそめた。

「はい、お願いします」

 僕は頷いた。

 お兄さんの周りを白い羽が飛んでいた。ゆらゆらと漂う羽は彼の右肩に降り立ち、雪が溶けるように消えた。彼の体温が熱かったのだろう。僕がじっと見ていることを、彼は気づいていない。

 振り返ると母さんが僕を見ていた。うっすら寄った眉根に、僕は咄嗟に心の中で呪文を唱えた。僕はみんなと同じ、僕は普通。何も見えないし、何も感じない。普通の人間と何も変わらない、同じ同じ同じ。

 けれど僕は、呪文を唱えながら同時に思い出していた。遠い昔、しんと降り敷く雪の中、幼い僕が聞いた言葉。

「君は、宝石の目、を持ってい、るんだね」

 それはネージュ・ララマンが僕にくれた宝物みたいな言葉だった。

 僕はここにいては息ができない。僕は深海魚じゃないから、空気のないところでは生きられないんだ。ネージュ・ララマン、君は僕の友達だった。あの場所へ行けば、思い出せる気がする。君に会える気がする。

 引っ越し屋のお兄さんたちが去って身軽になった僕は、最低限の荷物を詰めたリュックを背負って玄関に立った。母さんが僕のコートの襟を直して、

「いい? 雪日。あなたはどこに行っても普通なの。みんなと同じ、どこも変わったところなんてない。それを忘れないで」

 と言った。

「わかってるよ、母さん」

 僕は微笑んで見せた。

「何も北海道になんてしなくたって……」

 母さんは僕が実家から離れることをまだ根に持っている。大学受験のときも散々言われた言葉を、この期に及んでまだ呟いている。

母さんの顔は三重にぶれていた。はっきりとした陰影をつけて、三重の母さんの顔は少しずつ表情が違っていた。

「じゃあ、行ってくる」

 僕は軽く手を上げて玄関のドアを開けた。閉まる瞬間の母さんの顔は見なかった。

 一歩外へ出ると、僕の両肩を掴んでいた重苦しい歪は爪痕を残すことなくごとりと落ちた。僕は家を振り返らず、早足で駅に向かった。母さんの言葉は忘れることにした。

空に虹色の飛行船が浮かんでいた。飛行船がじりじりと通った跡は、青い空に機体の色が移って虹がかかったようになっていた。飛行船は進むほどに虹色が剥げて、鉛色になっていった。

 北海道で生活をする。そう決めたときから、僕の体に収まっている内臓たちが騒ぎ出した。ふわふわと浮き足立って、ときどきでんぐり返しをしたりしていた。僕の体は、僕が生きられる場所を選んでくれた。僕が深く息が吸えるところへ、寸分の狂いなく導いてくれた。

「君は、君にとて、も愛され、ているんだ、ね」

 家を出ると、ネージュ・ララマンの言葉をよく思い出せる。僕はもしかしたら彼に会うために住む場所を変える決意をしたのかもしれない。なくしたと思っていた、もう会えないと思っていたけれど、彼はまだ僕のそばから消えていないのかもしれない。

 

 ***

 

「ねーじゅ、らまらん?」

 舌足らずな四歳の僕は、初めて聞くその名前を正確に言ってみせることができなかった。彼は熱い紅茶に息を吹きかけるようにやさしく笑うと、ネージュ・ララマン、と再び早口で言った。小さな子供相手だからゆっくり発音してあげよう、とかそんなことははなから頭にないようで、彼は彼のペースを貫いていた。

「ねーず、らららん」

「ネージュ・ララマン」

「ねーじゅ、らままん」

「ネージュ・ララマン」

「ねーじゅ……」

「ネージュ・ララマン」

 彼の早口が僕の言葉を押しのけてきたので、僕はついに黙ってしまった。俯く僕の顔を、彼はカクカクと腰を折り曲げて覗き込んだ。

「大丈夫、ですか」

 僕は首を横に振る。心配されるとつい甘えたくなるのは、この年頃では仕方のないことだ。彼は四角い目をハの字にして、

「困り、ましたね、え」

 と言った。その声が思いのほか柔らかかったから、僕はまた首を振った。

 人前では特にいい子にしなさい、と母さんから言われていたのに、彼の前での僕は駄々をこねる困った子供だった。初対面の彼は母さんともおばあちゃんとも形が違っていて、もちろん僕や幼稚園の友達や先生とも全然似ていなかった。

彼は真っ白で少し粉っぽい腕をしていて、足は大きく平らでよく歩けそうだった。胴体は細いけれどふっくらと柔らかで、首はなく、頭の部分にはゴム毬みたいなものがちょこんと乗っていた。鼻がなくて目が四角で唇はドーナツみたいに大きい。そんな顔をしていた。喋り方はラジオのノイズのようだった。自分の名前を言うときだけは、すらすらと滞りなく喋るのに。

「大、丈夫です、か」

 彼は再度僕に尋ねた。僕は彼の顔をきっ、と見上げて言った。

「なまえ、ながいよ。ねーじゅさんでいい?」

「ネージュ・ララマン。正しく、呼んで、ください」

「ららまんは?」

「ネージュ・ララマン」

 彼は頑なに名前を省略させたがらなかった。口調は穏やかなのに、並々ならぬこだわりがあるようだった。

 僕が彼の名前をきちんと発音できるようになるのは、もう少し先の話だ。それでも彼は飽きもせず、僕に正しい呼び方を教え続けた。

 

 ***

 

 引っ越しが落ち着いて、十畳一間の新しい部屋にも慣れた頃、大学が始まった。

 街のど真ん中にだだっ広いキャンパスを構えるH大学は、端から端まで地下鉄三駅分もある。構内を貫くようにメインストリートが南北に伸びていて、その両脇に学部棟が悠々と並んでいる。

 新入生は最初の一年を北端にある教育棟で過ごすことになっていた。二千人を超える学生が、一つのさほど大きくもない建物の中で一斉に講義を受ける。みっちみちに箱詰めされた図を思い描いていたけれど、意外にも、と言うか当たり前だけれど、教室には多少の余裕があったし、廊下もお祭りのようにすれ違うのもやっと、というわけではなかった。

 初日のオリエンテーションを終え、僕は新品の自転車に乗って大学を後にした。空がまあるく見えるほど青い日で、まっすぐ家に戻るのはもったいない気がした。南に向かってペダルを漕ぐ。歩道の潰れた縁石の上を通ったとき、振動でベルが小さくりんと鳴った。

 五分ほど走ると、並木公園が見えてきた。これもまた市街地の真ん中、東西に長く伸びるこの街のシンボル的な公園だ。噴水がある。ベンチがある。遊び場がある。有名な彫刻家が作ったというロールケーキみたいな滑り台がある。桜の蕾がむくむくと開花の準備をしていた。

 ベンチに座って、シラバスをめくる。向かいの噴水が水を吐き出すたびに、風に乗って細かい水滴が僕の周りに飛んでくる。シラバスのページにてん、と落ちて、黒く滲んだ。水はぶどうの房のようにひとまとまりになって後から後から噴き上げる。日の光を反射して、透明な薄い膜ができている。

 僕は思わず瞬きをした。まだほの寒い四月のなか、噴水の下の水溜りに足を浸す女の子を見つけたからだ。僕と同じくらいの歳だろうか。黒くてもさもさとした長い髪に隠れて、顔はよく見えなかった。

 女の子は落ちてくる水に透かすように両手をかざし、じっと動かない。着ている白いシャツや膝丈のスカートに水滴が飛んでも、気にする素振りも見せない。覚えたての歌を口ずさむように軽やかな佇まいで立っている。彼女の淡く発光したような白い肌に、僕は見惚れていた。

 絶え間なく降りそそぐ水は、彼女の全身をゆるやかに濡らしていった。しっとりと湿った彼女の髪は、時折宝石が埋まっているようにきらきらと瞬いた。

 僕は晴れた空をもっと彼女にあげたくなった。剥き出しの太陽を、美しいと言われるすべての景色を、彼女に手渡したいと思った。今にも踊り出しそうな雰囲気で、けれど足は水中に根を張ったまま、彼女は噴水のてっぺんを見上げていた。

「お姉さん、風邪ひくよ」

 ふいに新聞を片手に持ったおじさんが、彼女に声をかけた。おじさんは前屈みでのしのしと交互に足を出して歩きながら、彼女に近づいて行く。

 彼女は振り向き、そう言われることがわかっていたような顔で、

「わたし、水を浴びていないと乾涸びちゃうの」

 と言った。水分をたっぷりと含んだみずみずしい声だった。

 おじさんは冗談だと思ったのか、そりゃあ大変だ、と笑って、しばらく彼女を物珍しそうに眺めていた。彼女が、

「でも、もう上がるわ」

 と言って傍に置いていた鞄からタオルを取り出すと、おじさんは興味を失ったようにのしのしと去って行った。

 周りには他にも人がたくさんいたけれど、水から上がってタオルで足を拭いている彼女とそれを見ている僕は、この場に二人きりのような気がした。

 彼女は濡れた髪や服はそのままに、鞄を肩にかけてまっすぐ僕のほうへ歩いてきた。僕はシラバスを閉じようとして、地面に落としてしまった。慌てて拾おうと身を屈めると、白い手が伸びてきてさっとシラバスを取り上げた。

「さっき見てたでしょ」

 彼女は潤んだ声でそう言い、シラバスを僕に差し出した。

「えっと」

「わたしのこと」

 彼女は笑った。雨が乾いた土にじんわり染み込んでいくような笑顔だった。やっぱり僕は、彼女に最高の青空をあげたいと思った。澄み渡った空を彼女で満たせばいい。耐え切れず落ちてきた水は、霧雨となって僕の体中濡らせばいい。

「今朝のオリエンテーションにいたよね」

「え」

「わたし、あなたの後ろに座ってた」

 それは気づかなかった。僕は前しか見ていなかったし、教室は全員知らない顔で埋め尽くされていて、終わった後も僕は俯いたまま部屋を出たから。

「名前は?」

「久遠、雪日」

「綺麗な名前。わたしは澄川陶子」

 陶子は鞄の紐を肩にかけ直しながら言った。君だって、と言おうとしたけれど、黒々とした彼女の瞳が僕を捉えていたから、僕は言葉を奪われてしまった。

 陶子は僕の隣に座り、同じオレンジ色のシラバスを鞄から取り出した。胸下まである彼女の髪はまだ湿っていた。毛先から水滴が垂れてページを濡らした。

「髪拭かないの?」

 僕が訊ねると、

「わたし、体のどこかが湿っていないとダメなの。干あがっちゃうの」

 陶子は事も無げにそう言った。

「髪とか皮膚とか目とか唇とか。常に水気がないと大変なの。だからわたし、たくさん水を飲んだり水浴びしたりしなきゃなの」

「乾くとどうなるの?」

「死んじゃうんじゃない」

 他人事のような言い方だった。未来のことなんてわからないよ、とでも言いたそうな顔で足をぶらつかせている。

「雪日くんは?」

「何が」

「雪日くんも何か特別なんでしょう?」

 僕は目を見開いて陶子を見た。声が掠れた。

「どうしてわかるの」

 彼女は得意げに微笑んで言った。

「目が宝石みたいに綺麗だから」

 

 ***

 

 ネージュ・ララマンは背が高かった。五歳の僕は彼と手をつないで、庭の大きな桜の木を見上げていた。ネージュ・ララマンは僕のほうに体を傾けた不自然な格好で、覗き込むように木のてっぺんを見つめていた。桜はとうに花を散らしていて、深い緑色の葉が太陽の光に当たろうと目一杯身を伸ばしていた。

「ゆ、きか。この木、に登れ、ますか」

「ぼくはのぼれないよ。かあさんがだめっていうから」

「私、は、どうです、か」

「ねーじゅ・ららまんならのぼっても、いいんじゃない」

 そう答えると、ネージュ・ララマンは僕の手をさっと離し、幹を軽く蹴った。ネージュ・ララマンの頼りない足に蹴られても、桜の木はびくともしなかった。それを確かめるように、彼はもう一度だけ逆の足で根元を蹴った。

「登りま、す。雪日、見ていて」

 ネージュ・ララマンは一番低い枝に両手をかけ、右足を浮かせた。そのまますいすいと登っていくかと思いきや、

「手が、手、が足りな、い」

 と喉から絞り出すような情けない声を上げた。僕はどうすることもできず、あたふたと木の周りを行ったり来たりした。

ネージュ・ララマンはは両手でしっかりと枝を掴んだまま、足だけで登ろうとしていた。手を片方離して近くの枝を掴めばいいことくらい幼い僕でもわかると言うのに、彼は滑稽なまでに頑なに枝から両手を離そうとしなかった。足だけがつるつると幹を滑っていた。

 程なくして、ネージュ・ララマンはぼたっと木から落ちてきた。衝撃で彼のがらくたみたいな手足がバラバラになってしまわないか不安になったけれど、素早く起き上がった彼の体には傷一つついていなかった。

「私、には、木登、りは向いて、いな、い、ようで、す」

 心底残念そうな声で彼は言った。けれど顔を見上げると、口笛でも吹きそうなほど飄々とした表情をしていた。ネージュ・ララマンはときどき顔と言動が一致しないことがあった。僕は彼のどっちを信じればいいのかわからなくていつも困ってしまう。

「べつにのぼれなくても、いいんじゃないの」

 僕は少し突き放したように言ってしまった。ネージュ・ララマンはめざとく気づいて、

「雪日、どうし、たんです、か」

 と訊ねてきた。

 僕は彼が木に登れなかったことなんてどうでもよかった。やってみてできなかったことは仕方がないと思う。僕が面白くなかったのは、そういうことじゃない。

「ねーじゅ・ららまんは、ぼくよりきのぼりのほうがいいの」

「え、?」

「さっき、ぼくのてをらんぼうにはなした」

「ゆき、か」

「ぼくとてをつないでいたくなかったの」

 自分で言って悲しくなってきた。手をつないだとき、太陽が眩しくて彼の表情はよく見えなかった。彼は背が高いから、ちょうど光に反射していたのだ。もしかしたら嫌そうな顔をしていたのかもしれないと思うと、胸が千切れそうに痛くなった。

「雪日、そんなこ、とは、絶対に、ありま、せん」

 ネージュ・ララマンはグローブみたいな手で僕の頬を包みながら言った。四角い目が垂れ下り口がへの字になって、彼も泣き出しそうな表情をしていた。

「ずっと、大切、です。ゆ、きかのこ、とは、ずっと、ずっ、と」

 ネージュ・ララマンの手は温度がなかった。ビニールのように無機質な肌触りだった。けれど、僕の頬はきっと燃えるように熱かったのだろう。彼の手のひらに包まれてこもった熱が僕の皮膚にじんわりと染み込んできた。まるで彼の手が温かいかのように感じた。

 仲直りした僕たちは、手をつないで桜の木の周りをぐるぐると回った。ネージュ・ララマンは「楽しい、ね」と何度も言った。その度僕は彼の顔を見上げたけれど、彼はパーツが溶けてなくなってしまうのではないかと思うほど、ずっと笑っていた。太陽にも負けないくらい、眩しい笑顔だった。

 

 ***

 

 初夏、大学生活にも慣れてきて、構内のどこにどの教室があるのか、なんてことも把握できるようになった。メインストリートを自転車で駆け抜け、教育棟へ向かう。木々の緑の中から小鳥が三羽飛び出してきて、僕の頭上をかすめて行った。

 駐輪場に自転車を停めていると、急に風が冷たくなり空が暗くなってきた。ぽつ、とサドルに雨の粒が落ちた。僕は天気予報をあまり見ないから、よく突然の雨に降られる。教育棟に入っていく学生の中には、傘を持っている者も何人かいた。ああ今日は雨予報だったか、と自転車で来たことを少し後悔する。

 教育棟は中でN棟とE棟に分かれている。僕が受講している『アインシュタイン相対性理論』という講座は、N棟の三階で行われている。N棟の講義室は広くて、段になっている。それに対してE棟の講義室は小中学校や高校の教室と変わらない形で、五十人程度まで収容できる造りになっている。

 講義はいつもレポートの返却から始まる。レポートの右上にはA、B、C、Dの評価がついているのだが、僕はだいたいCかDしかもらったことがない。だって、お題が難しいのだ。『特殊相対性理論の二つの基本原理について』なんて、どう頭を捻ったって書けるわけがない。講義を聴いていたって、そう簡単に理解できるものではない。

 今日のレポートも案の定Dだった。僕は一応理系の学部に入ったはずなのに、数学や物理学はさっぱりできなかった。どうして苦手な学部に入ったのかと言えば、国語や英語はもっと苦手だからだ。ならばなぜ国立の大学に入ることができたのかと言うと、それはもうまぐれとしか言いようがない。とにかく僕は、実家から遠く離れたかったのだ。母さんから、逃げたかった。北海道は僕にとって最適な土地で、楽園にいるような気分にさせてくれる。

 窓側の一番後ろの席に座り、僕は教授の話を英語のリスニングのように聞き流しながら窓の外ばかり見ていた。僕と同じように頬杖をついて、うとうとしている学生が何人もいる。この位置からは講義室全体が見渡せる。

 外は雨が降っていた。やっぱり降ってきたか、と憂鬱な気分になる。別に雨が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。でも雨の中自転車を押して家まで帰るのは億劫だった。

 この講義は突然当てられたりしないから良い。教授がとろみのある声でずっと喋っているだけだから、眠くはなるけれど。

僕は窓ガラスにぶつかってはじける雨粒を数えていた。まるで命が尽きる瞬間の星のようにチカッと光る雨粒は、窓ガラスを滑り落ちる姿も流れ星みたいだ。窓に囲まれている講義室は、満天の星空に思えてくる。無数の星たちが流れる、流れる。外は薄暗くて、部屋の中も暗い。プロジェクターの光は、宇宙だったら何に例えられるのだろうか。

 雨粒の星空に夢中になっているうちに、講義が終わろうとしていた。教授がレポートについて説明している。講義をまったく聞いていなかったから、書ける気がしない。今回のレポートもまたD評価だろう。僕はちっとも使わなかったシャープペンと消しゴムをペンケースにしまった。

 外に出ると、まだ雨が降っていた。ピンと張った銀色の糸が左右に乱れて流されていく。そんな降り方だった。糸の中に髪の毛のように黒くてか細い生き物を見つけた。ゆらゆらと雨に逆らって空へ昇って行こうとする。龍のように体をくねらせ、雨の隙間を縫うように。けれど、雨に邪魔され思うように進まない。少し昇り、倍落ちる、を繰り返しながら必死に空へ空へと向かって行く。

 瞬きすると見失ってしまいそうなほど小さなそれは、多分僕にしか見えていない。傘をさし雨の中に沈んでいく学生たちは、立ち止まる僕を気にも留めない。僕の目線の先に何がいるのかなんてことも、当然考えない。

「あなたは普通なの。変なものは何も見えないし、見えたら駄目なの」

 母さんの声が耳の横から聞こえてくる。囁くように、でも胸に鋭く突き刺さる声で。

 ああ、僕はまだとらわれているんだ。遠い北の地に逃げたって、どうしたって僕は母さんの声から逃れられない。僕に普通を強いる母さんの声は硬く尖っていて、どんな体勢からでも確実に僕の心臓を貫く。

 存在しないはずの痛みが胸から全身に広がり始めたとき、僕のすぐ横を転がるように何かが駆け抜けて行った。横髪がふわりとなびいた。

 陶子だった。

 彼女は降り敷く雨のなか空に向かって両手を伸ばし、もっともっとちょうだい、とねだるように爪先立ちをしている。ステップを刻むようにくるくると回り、雨を全身に巻きつける。そんなに強い雨ではないけれど、彼女があまりにも無防備だからすでに髪もワンピースもずぶ濡れになっていた。

 動きを止めた彼女は鼻から深く息を吸い、はあっと思いきり口から吐いた。彼女の呼吸が、僕の目にははっきりと見えた。

 水色がかった透明な泡ぶく。涼しげで、金魚のおひれのようにゆうゆうと揺れる。泡ぶくは彼女の顔の周りを二周して、ばちん、とはじけた。彼女は雨の匂いを嗅ぐように鼻をひくひくさせると、最後の深呼吸をしてメインストリートのほうに歩き出した。

「陶子!」

 気づけば僕は彼女の名前を呼び、駆け出していた。振り向いた彼女の長い髪の毛の先から雫が跳ねた。それは僕の頬に当たり、静かに滑り落ちていった。

「雪日くん」

 陶子を構内で見かけたことは今まで二回ほどあったが、話したのは並木公園のとき以来だった。そう言えば、名前を呼んだのも初めてだ。いきなり呼び捨てにしてしまって失礼じゃなかっただろうか、と彼女の顔を見る。けれど、彼女は親しい友人を見るような目で微笑んでいた。

「傘持ってないの? 濡れちゃうよ」

 陶子はそう言って、教育棟まで引き返そうとする。

「持ってないけど、いいんだ」

「そう。わたしはね、傘は持ち歩かないの。雨の日が一番好き」

「好きなだけ水浴びできるからね」

「うん」

「陶子、一緒に昼ご飯を食べない?」

「いいよ。学食行く?」

「いや、外で食べよう」

 僕がそう提案すると、彼女は目を丸くした。

「わたしはいいけど……」

 遠慮がちに僕の顔を見上げる。

「僕も濡れたい気分なんだ」

 そう言った途端、彼女の顔が打ち上げ花火みたいにパッと明るくなった。満面の笑みで、

「そういう日もあるよねっ」

 と言う。僕も笑って頷いた。

 僕たちは購買でパンやおにぎりや唐揚げを買って、工学部棟と中央食堂の間にある池に向かった。ほとりに並ぶベンチに腰掛け、パンを頬張る。陶子はおにぎりの封を切るのに苦戦していた。

「わたし、こういう海苔がパリパリしたおにぎりを買うといつも海苔が途中で破れちゃうの」

 顔を顰めながら陶子は言った。

「あとね、パンのビニールを開けるときも、勢いよくパンが飛び出ちゃうの」

 僕はパンが飛び出したときの陶子の驚いた顔を想像して、思わず笑ってしまった。彼女は横目で軽く僕を睨むと、そろりそろりとおにぎりのビニールをはがした。

「ああっ、ほら、また破けちゃった」

 大袈裟に嘆いて、海苔のはげたおにぎりを僕に見せてくる。僕は声を上げて笑った。

「陶子は可愛いな」

 僕はぽそりと呟いた。それからはっと我に返った。なんということだ、心の声をうっかりそのまま口に出してしまった。

陶子は口をぽかんと開けて僕を見つめている。

「あ、ご、ごめん。つい……」

「馬鹿にしてる?」

 陶子の声が尖る。僕は慌てて首を左右に振った。

「まさか。本当のことだよ。言うつもりは、なかったんだけど……」

 恥ずかしくて、雨に濡れてひんやりしているはずなのに燃えるように顔が熱い。穴があったら入りたい、今すぐ目の前の池に飛び込んでしまいたい。雨はちっとも僕の熱を奪ってはくれない。

「雪日くんって、やさしいんだね」

 ふふ、と陶子が笑った。一人で悶えていた僕は、びっくりして彼女の顔を覗き込んだ。

「やさしい?」

「うん。わたし、自分の容姿が嫌いなの。髪の毛はもさもさしているし、目と目の間が離れ過ぎているし、鼻は団子だし、唇は厚いでしょ。全然好きになれなくて卑屈になっていたら、そのうち性格もひん曲がってるって言われるようになって。わたし、自分の見た目も中身も大嫌いだった」

 そこまで話すと、陶子は口をへの字に結んで黙り込んだ。言葉が続くのを、僕は待った。

 やがて、でもね、と陶子が呟いた。彼女の厚い唇からこぼれ出た短い言葉は、一瞬弧を描いてすぐに消えた。

「誰もわたしのこと、可愛いなんて言ってくれたことがないけど、雪日くんは言ってくれた。あなたはやっぱり特別ね」

 陶子はまっすぐ僕の目を見つめ、そう言った。底が見えそうなほど透き通った彼女の瞳は、僕が今まで見てきたどんなものよりも美しいと思った。それを彼女に伝えたいのに、非力な僕はうまく表現できなかった。ちょうどいい言葉が見当たらないことを理由に、僕は口をつぐんでしまった。

 陶子が微笑んでいるのに、僕は彼女から目をそらした。本当は心臓が破れてしまいそうなほど高鳴っていた。彼女は僕の憂鬱を吹き飛ばしてくれた。いつまでも母さんの声に支配される僕の心にはびこる蛆を、あっという間に払い除けてくれた。彼女の純粋で透明な魂は、きっと僕にしか見えない。他の人には見えてほしくない。

「雪日くん、ありがとね」

 陶子はもう一度僕に微笑みかけた。僕は心を掻き集めて、

「陶子は、綺麗だ」

 と言った。それだけしか、言えなかった。ひどくシンプルで凡庸な言葉だと思ったけれど、彼女は今にも泣き出しそうな顔でへにゃりと笑った。

 それから、僕たちは雨のなかでご飯を食べ、昼休みが終わる直前まで他愛のない話をした。濡れたパンとおにぎり、しなしなの唐揚げ、雨粒が踊る池。それらは僕たちの朗らかな会話を涼やかに彩っていた。

 

 その夜、クラスの飲み会があった。飲み会と言っても、僕を含め現役入学組はまだお酒が飲めないので、ソフトドリンクで乾杯する。一浪や二浪している他のクラスメイトたちは堂々とビールや日本酒などを頼んでいた。タバコを吸っている奴も何人かいた。

 H大学では一年次に一組から五十三組までのクラスに分けられる。二年になると学部に分かれ、教育棟ではなくそれぞれの学部棟で授業が行われる。僕や陶子が所属する予定の農学部は、メインストリート上で教育棟とは真逆側に位置する。

 陶子とは、学部は一緒でもクラスが違うので今日の飲み会に彼女はいない。昼間、彼女にとても恥ずかしいことを言ってしまったことを思い出し、また頬が熱くなってきた。

 飲み会は大学の近くの格安居酒屋で行われていた。ソフトドリンクが一杯九十九円で飲める。酒類も百円台だった。料理は正直、味がいまいちなものもあったが、量が多くて学生にはありがたい。クラスメイトたちは店内奥の小上がりで騒ぎに騒いでいた。僕は一番端っこで、座布団の上に体育座りをしながらみんなの様子を眺めていた。

 入学して二ヶ月経ったが、僕はまだクラスに親しい友人はいなかった。クラス行事もいくつかあったし、クラス単位で受ける授業もあるけれど、僕はなかなかみんなと打ち解けることができずにいた。友達の作り方が思い出せない。高校までは、必ず誰か彼か話しかけてきてくれる人がいた。自分から積極的に行かなくても、友達になることができた。

 大学は、何と言うか、個人主義の集まりのような気がする。一人で食事をするのも普通だし、誰かと一緒に行動しなくてもいい。浮くこともないけれど、だから一人でいる人を仲間に入れようとすることもあまりない。

 楽と言えば、楽だった。僕はその場しのぎの友達なんて求めていなかったし、どうせ仲良くなるならお互いの心に根を張るくらいの深い付き合いがしたいと思っていた。

「久遠、どうした、元気ないぞー。飲め飲めー」

 ときどき、絡んでくるクラスメイトには、

「飲んでるよ、ソフドリだけど」

 とウーロン茶のグラスを傾けて返事をした。付き合いが悪いと思われない程度にゆるく彼らと同化していればいいか、と思っていた。木や草に擬態する虫みたいだ、と一人苦笑する。

「久遠くん、何笑ってるのー?」

 茶色の巻き髪を左右に垂らした女の子が、僕に話しかけてきた。彼女は僕の名前を知っているようだが、僕は知らなかった。

「あ、えーと」

「紺野」

「紺野さん」

 見ると紺野さんは右手にビールのジョッキを持っていた。

「久遠くん、一人でにやにやしてキモいよー。誰かタイプの子、いる?」

 へら、と笑ってジョッキを飲み干す。いい飲みっぷりだった。彼女は僕がクラスの女の子を見て妄想を膨らませているとでも思ったらしい。

「残念ながら、いないよ」

「なんだー、つまんないのー」

 紺野さんはジョッキをテーブルにドンッと置いて、けらけらと笑い声を上げた。

「久遠くんて、可愛いよね。かっこいいって言うよりは、可愛い」

「え、そう? そんなこと言われたことないよ」

「かっこいいは言われたことあるのー?」

「それもないけど」

「えー、みんな見る目ないなあ。あ、店員さん、生一つ」

 通りかかった店員にビールを頼み、紺野さんはまた僕に向き直る。

「紺野さんは二十歳超えてるんだね」

「まだ十九だよ」

「えっ、でもビール……」

「こんなん今どき普通っしょー」

 彼女は届いたビールに口をつけて、鼻の下をあわあわにする。

「久遠くんは真面目だねー」

 彼女が鼻の付け根にくしゃっと皺を寄せて笑った。

 僕は陶子に会いたくなった。昼間会ったばかりだというのに、彼女の無邪気な笑顔や仕草が見たいと思った。紺野さんが僕に寄りかかってくる。僕は彼女からやんわりと離れ、席を立った。幹事を探し、飲み代を払って先に店を出た。

 雨はとっくに止んでいた。半分の月が洗い立てみたいにぴかぴかと輝いていた。雨あがりの夜の街は、すべての光がたなびいて見えた。アスファルトに反射した信号機の赤や黄や青、街灯のオレンジ、マンションの一室から漏れてくる白い明かりが、立ち止まる僕を急かすように瞬く。自転車を押して、僕は光に満ちた賑やかな道路をてろてろと歩いた。お酒を飲んでもいないのに、酔いがさめていくようだった。

いや、これは酔いじゃなくて夢だ。僕は今、この瞬間に、夢から醒めていくんだ。永遠の、夢から。

そんな詩人みたいなことを思いながら、家に帰った。

 

 ***

 

 実家からそう遠くはない距離に星見ヶ丘展望台という、その名の通り星がよく見える展望公園があった。確か正式名称ではなかったはずだ。誰が呼び始めたのかは知らないが、僕が六歳の頃にはもうすでにその名が定着していた。

 小学生になって初めての遠足で星見ヶ丘展望台に行ったとき、担任の先生が、

「ここは夜になると星がとっても綺麗に見えるのよ」

 と説明した。僕はどうしても星が見たいと思った。

「ゆき、か。だめで、すよ、こんな、夜遅く、に」

 ネージュ・ララマンの必死な声が後ろからついてくる。僕は振り返り、彼が追いつくのを待って、

「だいじょうぶだよ! ぼくにはネージュ・ララマンがついてるからね」

 と言った。

 母さんがリビングで仕事をしているときを見計らい、僕は早く寝るふりをして玄関からこっそり外に出たのだった。追いかけてこないから、気づかれてはいないはずだ。

 ネージュ・ララマンはギシギシと油不足のブリキみたいな音を立て、懸命に僕に歩幅を合わせた。僕は一刻も早く展望台に着きたくて小走りになっていた。

「おかあ、さん、に、叱られ、ま、すよ」

「バレなきゃへいきだよ」

 展望台が見えてくると、僕はとうとう走り出した。ネージュ・ララマンは悲鳴みたいな甲高い声を上げた。走りながら彼に目をやると、体がバラバラになってしまいそうなほど不安定に両足を動かしていた。泣きそうな顔でギクシャク進む姿が何だか可哀想に思えた。

僕は仕方なく彼のところまで引き返し、腕を掴んで再び展望台へと駆けた。彼は「うわ、わわわ、わ」と言いながら僕に引きずられていた。

 石段を登り、てっぺんに到着した。展望台には街灯がなく、ぽつんと小さなあずまやがあるだけで辺りは真っ暗だった。ネージュ・ララマンの腕を離すと、彼はその場に崩れ落ちた。

 見上げると、藍色の空一面に星が敷き詰められていた。チカチカと光を放ち、まるで星同士が語り合っているかのようだった。星たちは目尻に溜まった涙みたいに、ぽろりとこぼれ落ちて来そうだった。

「みて! ネージュ・ララマン! ほしがきれいだよ」

 僕はまだ地面にへばりついて荒い呼吸をしている彼に向かって言った。彼はよろよろと立ち上がり、首を傾けた。

「わあ、あ」

 彼の口から声が漏れる。疲れきって歪んでいた顔が、日が差し込むように明るくなった。

「綺麗、です、ね、ゆ、きか」

彼は目を細めたり見開いたりしながら星空を見ていた。僕たちはどちらからともなく手をつないだ。辺りはしんと静かで、ほんの少しのざわめきすら聞こえなかった。風もなく、全身で星空を感じることができた。

目の玉に星が映り込み、どこからかやさしい匂いがし、唇が震えた。手足にかすかな電流が走り、背中がむず痒くなった。心臓はトクトクと穏やかに波打ち、お腹のあたりがじんわりとあたたかくなった。

部屋の窓から見上げる星空は街の灯りが滲んでいるし、一部を切り取ったようにしか見えない。僕はそんな星空にしか触れたことががなかった。

「綺麗で、すね、ゆき、か」

 ネージュ・ララマンがまたそう言った。

「きれいだね、ネージュ・ララマン」

 僕は彼の左手をきゅっと握った。彼もそっと握り返してきた。僕たちは時間も忘れて満天の星空を見上げ続けた。

空が明るくなってきた頃、慌てて家に帰った。そっと玄関のドアを開けると、家の中は薄暗かった。何とか気づかれずに済んだらしい。僕はほっと胸を撫でおろし、音を立てないように二階の自室まで戻った。

 ベッドにもぐってもまだ胸がどきどきしていた。目を閉じると、さっきまで見ていた星空が瞼の裏に映し出された。星空の次に、ネージュ・ララマンの瞳が蘇ってきた。彼の瞳の中にはキラキラと光る星が一粒埋め込まれていた。その星は、間違いなく夜空からやって来たものだと確信した。だって、こんなに輝いているんだもの。

「おやす、み、ゆ、きか」

 ネージュ・ララマンの声が聞こえた気がした。それとほぼ同時に、僕は眠りに落ちていった。

 

 ***

 

 本格的な夏がやってきた。北海道の夏は涼しくて過ごしやすいとばかり思っていた僕は、連日のうだるような暑さに驚きつつまいっていた。本州のように湿気を含んだ暑さではないだけ、まだましなのかもしれない。夜になると少し過ごしやすくなる日もある。けれど、暑いのが苦手な僕にとっては、北海道の夏は涼しいという勝手なイメージを抱いていた分だけ、なんだか裏切られたような気分になった。

 僕のアパートがまた、暑さを助長させているのかもしれない。南西向きで、日光がこれでもかというくらいふんだんに入ってくる。リビング側にベランダがないから遮るものが何もなく、ローテーブルで勉強していると太陽が直線的に顔を覗かせる。

 レースのカーテンをつけたらいいけれど、今さら面倒くさい。どうせ北海道の夏は短いのだ。それは確からしい。僕は扇風機の首を固定して、一瞬の隙も与えないくらい体に冷風を浴びせた。

 夕方五時から大学近くの居酒屋でバイトの面接があった。バイトをするのは初めてだった。大学が夏休みの今のうちに、集中して稼ごうと思ったのだ。授業が始まってからも、両立できそうであれば続けたらいい。実際にバイトをしながら大学に通っている学生はたくさんいた。と言うか、そっちの方が多い。僕も入学したての頃よりは生活にも精神的にも余裕が出てきたから、ちょうどいい頃合いなのかもしれない。

準備をして家を出ると、いくらか暑さが和らいでいた。だいぶ体に馴染んできた自転車にまたがり、まだまだ明るい街並みを走る。居酒屋には五分前に着いた。

 開店は六時からと求人誌に書いてあったので、今は暖簾や看板は出ていない。引き戸を開け、薄暗い店内に入る。厨房で仕込みをしている大柄の男の人と目が合った。

「あ、あの、五時から面接の……」

 そう言いかけたとき、奥の扉から黒いTシャツを着た女の人が出てきた。僕に気づいて、

「あら、面接の子? 入って入って。一番奥のテーブル席に座って待ってて」

 と言った。四十代くらいだろうか。ハキハキとした物言いが気持ちいい。大きな目に快活な印象を受けた。

 彼女はレジの横から黒いバインダーを持ってきた。厨房にいた男の人もホールに出てきて僕の向かいに座った。

「じゃあ、始めますね。わたしは佐伯真紀子、ホール担当。こっちは店長で夫の雅文。よろしくね。履歴書は持ってきた?」

 僕は頭を下げ、あらかじめ用意していた二つ折りの履歴書を彼女に差し出す。

「ふんふん、久遠雪日くんね。変わった名前だねえ」

「はい、よく言われます」

「そうでしょう。えーと、今大学の、一年生か。H大学なんだー、頭いいのね。家もこの辺?」

「はい」

「なら近いわね。バイトは初めて?」

「初めてです」

「久遠くんは厨房希望って書いてあるけど、どうして? 料理が得意なの?」

「料理はそんなに得意じゃないです。でも、作れるようになれたらいいなと思って。こちらのお店の求人に、未経験でも包丁の握り方から丁寧に教えます、と書いてあったので、やってみたいと思いました」

「なるほどねえ。まあこの人、無愛想だけど教え方は丁寧だし、上手にできなくても絶対怒らないから初めての人にはいいかもね」

 そう言って、真紀子さんは雅文さんの太くて頑丈そうな二の腕を軽く叩いた。雅文さんは僕の履歴書を見つめたまま何も反応しない。確かに愛想はない。

 それからいくつか質問をされ、答え、笑ったり戸惑ったりしたのち、僕はその場で採用された。真紀子さんは笑顔で、

「久遠くん、よろしくね。さっそく明日から来てね」

 と言って笑った。目尻と口元にできた皺が、僕を歓迎してくれているような気がした。雅文さんは無言で大きな手を差し出し、握手を求めてきた。僕が握り返すと、ほんの少し表情が柔らかくなったように見えた。

 一礼して店を出た。自転車に乗りながら、バイトが決まったお祝いにちょっとだけ贅沢をしよう、と思い立った。家に向かっていたけれど進路を変え、スーパーに寄ることにする。惣菜やお菓子を買って、一人でささやかなパーティーをするのだ。僕はわくわくした気分でスーパーの駐輪場に自転車を停めた。涼しい風が吹き抜けていった。

 

 

「雪、包丁はまな板に対して直角に使うんだ。そうだ。それから包丁っていうのは手前に引いて、奥に押すときに切れるんだ。引いて、押す。引いて、押す。そう、上手いじゃないか」

 バイト初日、昨日の面接時間と同じ五時に『居酒屋 文』へ行った。制服代わりの黒いTシャツとエプロンを支給され、タイムカードの押し方を教わった。そのあと厨房に入り、雅文さんに包丁の持ち方と使い方を習った。雅文さんは僕のことを「雪」と呼んだ。雪は小学校の頃のあだ名だったので、懐かしくなった。真紀子さんには「雪ちゃん」と呼ばれた。

「キュウリの輪切りはだいたいいいな。じゃあ次はニンジンのイチョウ切りだ」

 雅文さんは料理のことになるとよく喋る。相変わらず表情は乏しいけれど、できたら褒めてくれるし教え方はとても丁寧だった。

イチョウ切りはどうやって切ると思う」

「えっと、こう、ですか?」

 雅文さんに訊ねられ、僕はたどたどしく包丁を動かした。彼は腕を組み、僕の手元を黙って見ていた。

キュウリの輪切りの要領でニンジンを先っぽのほうから切っていく。まな板の上には大きさの違うニンジンの輪切りがたくさんできた。そのうち一つを十字に切り、雅文さんの顔をちらりと見た。

「違うな」

 雅文さんがぼそりと言った。

「それだと効率が悪いだろう。こうやるんだ」

 彼はニンジンを袋からもう一つ取り出し、正しいイチョウ切りのやり方を見せてくれた。彼の手捌きはその見た目からは想像もつかないくらい繊細で、瞬く間に形の整ったイチョウの形のニンジンがまな板の上に生まれていった。

「すいません、ニンジンを無駄にしてしまって……」

 僕は自分が切ったでこぼこして不恰好なニンジンの残骸を見つめ、謝った。雅文さんは目を細め、

「無駄じゃないさ。形のわからない料理に入れるから気にするな」

 と言った。僕は頷きながら、彼の周りを綿毛のような小さな生き物がたくさん飛んでいるのを見ていた。半透明な白色のまあるい綿毛。彼のがっしりとした肩に降り立っては、月面に着陸した宇宙飛行士みたいにふわんとジャンプする。

綿毛たちは楽しそうに彼の肩の上で遊んでいる。母に抱かれて眠る幼い子供のように、安心しきっているように見える。雅文さんはきっと心やさしい人なんだな、と思った。やさしい人の周りには、何かしらの生き物がくっついている。僕の目には、それが映る。本当は見えちゃいけないものなのだけれど。

 ふいに母さんの言葉を思い出しそうになり、僕は慌てて首を振った。せっかく穏やかな気持ちになっていたのに。

 キャベツを千切りにしたりジャガイモの皮を剥いたりしているうちに、一時間が経った。

「おはようございまーす」

 間延びした挨拶とともに、女の子が厨房に入ってきた。僕と同じバイトの子だろうか。僕が顔を上げて彼女を見るのと、彼女が「あ」と言うのが同じタイミングだった。

「久遠くんだー」

 彼女は僕を指差して明るい声を出した。茶色い巻き髪に、どこかで会ったことのあるような気がする。

「同じクラスの紺野だよー。前、飲み会で話したじゃん。久遠くんシラフだったのに忘れるなんてひどーい」

 思い出した。未成年なのに堂々とビールを飲んでいた紺野さん。まさかここで働いていたとは。

「何、瑠奈ちゃん、雪ちゃんと知り合い?」

 カウンターを水拭きしていた真紀子さんが話しかけてくる。

「大学の同じクラスなんですー」

「あら、そうなの。雪ちゃん、友達がいて心強いねえ。初めてのバイトだもんね」

 にこやかに真紀子さんが言った。今のところ紺野さんとは友達ではないけど、と思いながらも僕は曖昧に微笑んで見せた。紺野さんは長い巻き髪を手首につけていた黒ゴムでしばり、

「雪ちゃんは厨房かー。私はホールだけど、よろしくね」

 と言った。いつの間にか僕の呼び方が「久遠くん」から「雪ちゃん」になっている。まあいいか、と思い、僕も「よろしく」と返した。

 開店して間もなく、一組めの客が入ってきた。会社帰りのサラリーマンらしき二人は席につくなり、

「生二つね」

 と注文をした。

「生二つー」

 紺野さんが元気よく繰り返し、グラス用の冷蔵庫からジョッキを二つ取り出した。僕はバイト初日なので、今日はひたすら皿洗いをすることになっている。

「今日は金曜だから忙しくなるぞ」

 雅文さんが僕にそう耳打ちしてきた。僕は気合を入れるつもりで、「はい」と答えた。

 

 十一時になると、雅文さんが皿洗いをしていた僕に、

「雪、もう上がっていいぞ」

 と声をかけた。

「でも、まだ少し残ってますけど」

「あとは俺がやっておく」

 彼の言葉に甘えて、僕は手を止めた。

「お先に失礼します」

「おう、お疲れ」

 厨房をあとにし、レジでお金を数えていた真紀子さんにも声をかける。

「雪ちゃん、今日はありがとうね。初めてで緊張したでしょ。また火曜日、よろしくね」

 真紀子さんはにっこりと笑い、僕を労ってくれた。初めてバイトをする店が、やさしい二人の元でよかったと思った。

 奥のロッカー室に入ろうとすると、ちょうど中から私服に着替えた紺野さんが出てきた。僕より一足先に上がっていたようだ。

「お疲れー」

 彼女が僕の肩をポンと叩く。僕は思わず身を固くした。こういうスキンシップは慣れていない。

「何緊張してんのー。雪ちゃん、おっかしー」

 けたけたと紺野さんが笑う。僕はどういう顔をすればいいのかわからなくて戸惑った。

 じゃあね、と手を振り、彼女がロッカー室の前から離れて行った。僕はほっとして中へ入り、着替えを始めた。

どうも紺野さんは苦手だ。彼女と話していると息苦しくなる。僕は苦手な人と接すると、息苦しくなってしまうことがよくあった。どこで苦手だと判断しているのかは、僕自身もわからない。嫌い、とはまた違う。でも、えら呼吸の魚が陸に上がると死んでしまうように、肺呼吸の動物が水の中でずっとは生きられないように、僕が苦手な人の前で息苦しくなるのもある意味自然なことと言えるのかもしれない。そうやって、自分を正当化してみる。

 僕には人には見えないものが見えてしまう。小さな違和感や大きな喜びなど、自他関係なく感情も見えることがある。普段は見ないようにしているけれど、ふいに滲み出るように見えてしまうこともある。見えてしまって、それが僕にとって心地よいものであれば特に気にしないが、見たくないものであれば自己嫌悪に陥ってしまう。母さんや紺野さんに関しては、僕が苦しくなるものが見えてしまいそうで怖い。

 これは僕が見えているものだから、その人の本質とは関係がないのだと思う。僕にとって息苦しくなる人でも、他の人にとっては良く映っているのかもしれない。あくまでも、僕に合うかどうかの個人的な感覚によるものだと思っている。だから、その人を否定するわけじゃない。

 でも、苦しいものは苦しい。僕は敏感すぎるのだろうか。陶子の顔が浮かぶ。ああ、陶子に会いたいな。今は夏休みだし、連絡先を交換したわけでもないから、気軽に会うことができない。彼女は今、何をしているのだろう。毎日暑いけれど、乾涸びてはいないだろうか。雨に向かって手を伸ばす彼女の姿が目に焼きついて離れない。

 ぼんやり考え事をしながら着替えていたせいで、二十分近くもロッカー室にこもってしまっていた。店を出るとき真紀子さんに、

「雪ちゃん、まだいたの」

 と驚かれた。お疲れ様です、と会釈して外に出た。

 店の前では、紺野さんがタバコを吸っていた。僕に気づき、

「もう、雪ちゃん遅ーい」

 と口を尖らせる。

「紺野さん、まだいたの」

 真紀子さんが僕にかけた言葉と同じことを彼女に言う。

「雪ちゃんを待ってたんだよ。一緒に帰ろ」

 彼女はタバコを排水口に捨てながら言った。

「ちょっと、そこに捨てたら駄目だよ」

「何で?」

「何でって、ごみ箱じゃないし」

「あはは、雪ちゃんって真面目」

 紺野さんは身を翻すように歩き出した。

「雪ちゃん、家どこ? わたしは北のほう」

 釈然としない気持ちを引きずりながら僕は答える。

「ここから東のほうだよ」

「えー、じゃあ方向違うじゃん。ねえ、送ってよ」

 紺野さんは甘えるような上目遣いで僕を見た。僕は早く帰りたかったけれど、女の子が夜道を一人で歩くもの危ないと思い、「わかった」と言った。彼女は嬉しそうに、にっと笑った。

 紺野さんの家は僕の家と真逆というわけでもなかった。僕の家は店からちょうど真東だったが、彼女の家は東よりの北だった。他愛のない話をしながら、と言ってもほとんど彼女が喋っていたけれど、僕たちは並んで歩いた。

 彼女の家は十五階建てのマンションだった。エントランスがホテルみたいに綺麗だった。学生が住むには随分と立派だな、と思いながら見上げていると、

「寄ってく?」

 と彼女が言った。囁くようなその声に、僕はびくりと肩が震えた。

「いや、いいよ。じゃあ、またね」

 慌てて自転車にまたがると、

「せっかく送ってくれたんだから、お茶くらい出すのに」

 彼女が食い下がってきた。腕を掴まれそうになったところで、僕は首を振った。

「もう遅いし、僕は帰るよ」

「なんだー、つまんない」

 彼女は両手をだらんとおろした。

「じゃあ、今度明るいときに来てね」

「え」

「だって遅いから寄って行かないんでしょ?」

 そういう意味じゃない、と思ったけれど、彼女には言えなかった。でも曖昧なことを言いうと本当に行く羽目になりそうなので、僕はそれには答えず、

「おやすみ」

 と言って、自転車を走らせた。彼女はそれ以上追及してはこなかった。

 夜の風が頬を滑っていく。僕は無性に陶子に会いたかった。もし彼女の家を知っていれば、今すぐにでも行ってしまいそうだった。知らなくてよかった。ぐんぐん自転車のスピードを上げる。ままならない思いを振り切るように。

 

 ***

 

「ほら、はやく入ってよネージュ・ララマン」

「ゆ、きか、私は、中へは、入れ、ま、せん」

 その日は雨が降っていた。ネージュ・ララマンはいつも家の庭に立て看板みたいに突っ立って、二階にある僕の部屋を眺めていた。それまでは気にしたことはなかったけれど、七歳のある日、僕は雨の中ひっそり佇んでいる彼が急に寂しそうに見えた。だから、せめて雨が降っている間だけでも家の中へ入れてあげようと思ったのだ。

「だめ、ですって、ゆき、か」

 けれど、ネージュ・ララマンは頑なにそれを拒んだ。僕が彼の腕を引っ張って玄関のドアをくぐらせようとしても、背中を押して無理矢理入れようとしても、抵抗するばかりだった。

「どうして入らないの、かぜひいちゃうよ」

「私、は、風邪な、んて、ひき、ません。だいじょう、ぶ、です」

「いいから、入ってよ」

 今思えば、彼の好きにさせればよかったものを、僕も意地になっていた。雨がしとしとと降る玄関先で、僕とネージュ・ララマンは押し合いへし合いしていた。

「雪日? 何やってるの?」

 僕が玄関のドアを開けたり閉めたりして騒いでいるのを不審に思ったのか、母さんが様子を見にきた。その瞬間、ネージュ・ララマンの動きが止まった。手足をまっすぐ伸ばし、一本の棒のようにピシッと立った。極度に緊張した空気が彼から伝わってきた。

「雪日、何をやってるのかって聞いてるの」

 まごまごと母さんとネージュ・ララマンを見比べる僕に、きつい声が飛んできた。

「まさか、また何か見えているの」

 母さんが目を見開いた。同時に鼻もぴくりと動いて、怒っているのだとわかった。

「雪日」

「ううん、何も、何も見えてないよ」

「じゃあその手は何なの」

 僕ははっと自分の右手を見た。僕の右手はネージュ・ララマンの左腕を掴んでいた。でも、母さんには彼の姿は見えない。母さんに見えているのは、中途半端に宙を掴む僕の右手だけ、ということになる。

「な、何でもないっ」

 僕は慌ててネージュ・ララマンから手を離した。その拍子にぐらりと彼の体が傾いた。咄嗟に彼の体を支えようと手を伸ばす。

「雪日! いい加減にしなさい!」

 母さんが声を荒げ、僕の腕を掴んで玄関の中へと引きずり込んだ。ドアがゆっくり閉まっていく。泣きそうな顔で僕を見つめるネージュ・ララマンが、ドアの向こうへ消えていく。バタン、とドアが閉まったと同時に、母さんが僕の両肩を強く揺すった。

「あなたは何も見えない、何も感じない、普通の子なの! 他の子と一緒! わかった?」

 あまりの剣幕に、僕は声が出なかった。わかった、と言おうとしたのに、わ、わ、わ、と頼りなく繰り返すばかりだった。母さんはまだ僕を睨んでいる。

「あなたは普通、何も見えないの。見ちゃだめなの」

 僕は泣きながら頷いた。激しく、首を縦に振った。歪んだ唇の間から涙が入ってきてしょっぱかった。

 ドアの向こうで母さんの言葉を聞いているであろうネージュ・ララマンのことを思うと、心が痛かった。彼のことも、本当は見えちゃいけないんだ。彼と友達でいることは、僕を普通の子から遠ざける。でも、僕はネージュ・ララマンと友達でいたかった。彼のことが大好きだから。

 母さんに家の中に入るように言われ、僕は靴を脱いで部屋に戻った。窓から庭を見下ろすと、濡れそぼったネージュ・ララマンと目が合った。寂しそうな目で僕を見上げていた。窓を開けようとすると、彼が静かに首を振った。彼の口が、ゆ、き、か、と動いた。それから、だ、い、す、き、とも。僕は嬉しくなって何度も頷いた。ぼくもだよ、という意味を込めて。嬉しいのに、また涙が溢れてきた。雨に打たれて顔までびしょ濡れのネージュ・ララマンも、泣いているように見えた。気のせいだろうか。でも僕にはそう見えたのだ。

 

 ***

 

 秋になった。

 後期の授業が始まって一週間。僕はもはや立派な相棒になった自転車を漕いで、教養棟へ向かっていた。いつもはメインストリートをまっすぐ行くのだが、今日は途中まで大学の外を走り、東門から構内へ入った。門をくぐってすぐ、黄金に輝くイチョウ並木が僕を迎える。空高くそびえるイチョウの木は、どれももりもりと栞のような葉をつけている。四百メートルほどの並木道を、僕は自転車の速度を緩めて走った。

 空からは絶え間なくはらはらとイチョウの葉が舞い落ち、地面を見ると一面黄色の絵の具を撒いたようにてかてかと光っていた。地面に敷き詰められたイチョウの葉は、重なり合ったり踏まれたりして色の濃淡がまろやかになっていた。じんわりと滲んで、これは黄色であると決めつけられないような色になっている葉がいくつもあった。

 イチョウ並木は、夜になるとライトアップされるらしい。暗闇の中で強い光に照らされたイチョウは、きっとまた違う表情を見せてくれることだろう。僕はそんな想像してうっとりとした。

 駐輪場に自転車を停めて、教養棟に入る。今から第二外国語の授業がE棟の二階である。僕はフランス語を選択している。

 着席してしばらくすると、前のドアから教授が入って来た。白髪まじりのふわふわした髪の毛と、とろんとした眠たげな垂れ目が、どこか羊を思わせる。

教授は日本人だけれど、最初から最後までフランス語で授業をする。和訳は一切しない。オリエンテーションのときからすでにフランス語しか喋らなかった。だから僕たち学生は日本語で書いてあるシラバスと彼の話すフランス語を照らし合わせながら、必死に意味を理解するしかなかった。

 教科書を開いて、というようなことを教授が言った。五ページ、と彼が指を五本開いて皆に見せる。さすがに多少のジェスチャーはしてくれるからまだいいのだけれど。

 五ページにはフランス語の例文とそれに合った挿絵が載っていた。

 

 こんにちは、初めまして、私の名前はみどりよ。

 初めまして、僕はたけしだよ。今日は寒いね。

 そうね、あとで雪が降るそうよ。

 それなら僕の家でコーヒーでもいかが?

 いいわね。そうしましょう。

 

 僕は会話の展開の速さに驚いた。女の子が雪が降ると言った直後に、家に誘うなんて。しかも会話の内容からして、初対面で。文化の違いなのだろうか。男女逆だが、バイト始めの日、紺野さんに家に寄っていかないかと誘われたことをふと思い出した。

紺野さんとは夏休みの間、何度かシフトがかぶった。僕のほうが先に上がる日もあれば、彼女が先のこともあった。同時に上がるときは必ず僕を待っているので、彼女を家まで送って行った。手を替え品を替え、彼女は僕を家へ上げようとしたけれど、僕はなんだかんだ理由をつけてかわし続けた。そのたびに陶子に会いたくなったが、結局夏休み中は一度も会えなかった。

 教科書に意識を戻す。右端に、例文に出てきた単語の説明が載っている。こんにちは、ボンジュール。初めまして、アンシャンテ。寒い、フロワ。雪、ネージュ。

 ネージュ……?

 僕ははっとして顔を上げた。教授が眠そうな声で教科書の例文を読み上げている。黒板と前の人たちの背中。それ以外は特に何も見えない。けれど、僕の目にはカクカクとした懐かしい友達の姿が映っていた。そうか、君は、僕と同じ名前だったんだね。

 ゆ、きか。

 彼の声が聞こえた気がした。

 ネージュ・ララマン。

 僕も心の中で彼の名前を呼ぶ。

 知らない間にいなくなってしまった、僕の友達。大丈夫だ、きっと僕たちはまた会える。そう確信して、僕は教科書のネージュの文字をそっと撫でた。

 

 

 五限目の授業が終わり、僕は自転車に飛び乗ってバイト先へ急いだ。五限まで授業がある日は、バイトは六時半からになっていた。夏休み中は週五で働いていたけれど、後期が始まってからは火、金、土に減らしてもらった。

 到着して、ロッカー室で着替える。ホールに出ると、紺野さんがすでに客に料理を運んでいた。僕に気づいて、小声で「おはよ」と言う。僕もぺこりと頭を下げる。

厨房に入り、雅文さんと挨拶を交わす。仕込みは彼がやってくれているから、今日は注文された料理を彼と手分けして作る。

僕は盛り付けはもちろん、簡単な料理であれば作ることができるようになっていた。刺身やサラダの盛り付け、揚げ物全般、焼き物が僕の担当だ。任される品が増えるたびに、やりがいも増していった。包丁の使い方も上手になったと、この前雅文さんに褒められた。

 家でも料理をするようになった。カレーライスを初めて作ったとき、少し水っぽくなってしまったけれど味は美味しかったし、野菜も綺麗に切れて感動した。一人暮らしをしている実感が湧いてきて、わくわくとした気分になった。レパートリーはみるみる増え、節約のために昼もお弁当を作るようになった。バイトで習ったことが実生活にも活かせているので、僕は満足だった。

「雪ちゃん、ザンギ一つ」

 カウンターに座った常連さんから直接注文を受けることもあった。

「雪日くん、頑張ってるね」

「雪ちゃん、生一つ」

常連さんに顔と名前を覚えてもらえるのは嬉しいことだった。

「雪ちゃんの顔見に来たよ」

 そんなふうに言って店に来てくれる人もいた。だから、僕は精一杯任された料理を作る。ほんのわずかでも僕にできることは心を込めてやろうと思う。笑顔になってくれる人がいるのなら。

 

「はあー、今日も働いたあ」

 客がいなくなった店内に響く声で、紺野さんが言った。大きく伸びをしている。

「瑠奈ちゃんも雪ちゃんもお疲れ様。上がっていいよ」

 真紀子さんがカウンターに割り箸を補充しながら言った。

「お先に失礼しまーす」

 紺野さんが素早くロッカー室に入っていく。今日も彼女は店の前で僕を待っているのだろうか。僕のように自転車で通えばいいのに、と思う。夜道を歩きで帰るよりは、自転車のほうが安全だろう。

 紺野さんがロッカー室から出てきた。お互いお疲れ様と言ってすれ違うのは、いつものことだ。

 僕も着替えて店を出ると、案の定彼女は店の壁に寄りかかりながらタバコを吸っていた。

「雪ちゃん、帰ろ」

 と言って、まだ長く残っているタバコを携帯灰皿にしまった。歩き始めた彼女の背中を、自転車を押しながら追う。

 いつもは一人で喋っているのに、今日の紺野さんはなんだかおとなしい。じっと前を見つめながら歩いている。何か悩み事でもあるのだろうか。どうしたの、と声をかけたほうがいいのか、そっとしておいたほうがいいのかわからずに、僕も黙って彼女の隣を歩く。

 晴れているのに、月が見えない夜だった。ビルに隠れているわけでもなさそうなのに、と思ったところで、今日は新月か、と気づく。新月の日に始めたことは長く続く、とか願いが叶いやすいのだと以前真紀子さんが言っていたのを思い出した。

 僕だったら何を願うだろう、長く続いてほしいことってなんだろう、と考えていると、

「雪ちゃんさ」

 ふいに紺野さんが話しかけてきた。ん? と彼女のほうを向き、次の言葉を待つ。

「私と付き合う気、ない?」

「え?」

 彼女から出たのは、そんな言葉だった。彼女がゆっくりと僕を見た。潤んだ瞳に、本気であることを悟る。

「ぼ、僕は……」

「私と付き合ったら絶対楽しいよ。絶対退屈させないし、絶対満足させてあげられる」

 絶対、と彼女は繰り返した。自信満々の物言いとは裏腹に、彼女の顔は不安そうに歪んでいた。必死さが伝わってきて、僕は思わず言葉を飲んだ。

「ねえ雪ちゃん、付き合おうよ」

 軽い口調で紺野さんは言う。無理に弧を描く口元が痛々しい。彼女はきっともう、気づいている。

「ごめん、紺野さんとは付き合えない」

 僕は思い切ってはっきりと告げた。ぱっと彼女が顔をそらす。弱々しい声で、どうして、と呟く。好きじゃないから、と言うのは酷な気がして僕は口をつぐんだ。

 沈黙が流れる。彼女は足元に目を落とし、動かない。

「知ってたよ、そんなの。雪ちゃん、いつまで経っても私のこと苗字で呼ぶし、家に上がってくれないし。距離あるなって思ってた」

 下を向きながら、でも思いのほかしっかりとした声で彼女はそう言った。

「ごめん」

 僕がそう絞り出すと、彼女はやっと顔を上げ、

「別に。落ち込んでないから。あ、ここまででいいよ。今日は一人で帰りたい」

 とぎこちなく笑った。

「私のこと避けるのだけはやめてね。クラスもバイトも一緒なんだから、仲良くしよ」

「わかった」

 僕は頷き、自転車にまたがった。

「じゃあ、またバイトで」

「先に授業で会うでしょ」

「ああ、そうか。明日の数学か」

「そう」

「うん、じゃあ、また明日」

「バイバイ、雪ちゃん」

 手を振って、紺野さんは踵を返した。歩き出した小さな背中を見送って、僕も自転車を走らせた。

 月がないからといって星がよく見えるわけでもない、街明かりに満ちた空を見上げる。付き合うとかって、僕にはよくわからない。でも、今すぐ会いたいと思う人ならいる。紺野さんがいないとき、改めて会いたいと思ったことはなかった。

僕は、陶子に会いたい。夏休み中だけではなく、後期が始まってからも彼女には会えていなかった。クラスも違うし、取っている授業もかぶっていないのでなかなか会う機会がない。

僕は陶子のことを何も知らないんだな。

そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。見えない月に向かって、

「陶子に会いたいです」

 と呟いてみた。もう二度と会えないというわけでもないのに、体の中を冷たい風が吹いた。涙が一粒、こぼれ落ちた。溢れてくると思ったけれど、涙はそれ以上落ちなかった。鱗が一枚だけ剥がれたみたいだった。陶子の雨に濡れた笑顔が夜空に浮かんで、すぐに消えた。

 

 ***

 

 庭にコスモスが咲いていた。薄紅色の花弁が風になびいて、右へゆらゆら左へゆらゆらしていた。

 八歳の僕は、学校の宿題である植物の観察の一環で、庭のコスモスの絵を描いていた。背の高いコスモスの前にしゃがみ、土の部分、茎、葉、花びらの順に画用紙に描き込んでいった。

コスモスの茎の間を頭の尖った小さな生き物が、かくれんぼをするようにするすると通り抜けて行った。何だろう、とじっと見つめたけれど、僕の視線に気づいたのか慌てるように奥の茂みに逃げて行ってしまった。

「何し、ている、のです、か、ゆき、か」

 ネージュ・ララマンの声が頭の上から降ってきた。顔を上げると、僕を見下ろす彼と目が合った。

「コスモスのかんさつだよ。宿題なんだ」

「私、にも、見せ、て、くださ、い」

「いいよ」

 僕は彼にもう少しで完成しそうな絵を見せた。画用紙を受け取ると、彼は穴が開くほど顔を近づけて絵を見つめ、逆さにしてみたり横に持ってみたりしながら、色んな角度から眺めた。

「すごい、です、ゆ、きか。本物、そっく、りです」

「本当?」

「雪日、は、てんさ、い、画家、です」

 ネージュ・ララマンは僕の描いた絵を褒めちぎった。天才画家はさすがに言い過ぎだと思ったけれど、悪い気はしなかった。

「ネージュ・ララマンもかいてみる?」

 僕は彼に色鉛筆を差し出しながら言った。

「え、え、え」

 彼は困ったように後退りした。

「私、は……」

「かかないの?」

 もう一度訊くと、彼は諦めたように一歩前へ出て色鉛筆を受け取った。

「わた、し、は下手、です、よ」

「いいからかいてみて」

 彼はしぶしぶといった様子でコスモスを描き始めた。

さらさら、かりかり、色鉛筆が画用紙を走る音がする。僕は彼の絵が完成するまでそっぽを向いて待っていた。彼はどんな絵を描くのだろう。不器用だから、絵も下手なのだろうか。でも描く音は悪くない。上手な人が描いているみたいに均一だ。

「でき、まし、た」

 十五分ほど経った頃、ネージュ・ララマンがそう言った。少し離れたところにいた僕は、彼の元へ飛んでいって画用紙を覗き込んだ。

「わあ! 上手じゃないか! すごいよ、ネージュ・ララマン!」

 彼の描いたコスモスは、庭で揺れているコスモスそのものだった。切り取って貼り付けたのかと思うほど、忠実に再現されていた。土が盛り上がっているところ、すっと伸びた茎の感じ、繊細な葉の作り。そして、花びらの可憐な雰囲気と意志の宿った薄紅色。これは絵だとわかっているのに、彼の描いたコスモスは間違いなく生きていた。生命が宿っているとかじゃない、生命そのものだ。

「すごいよ、ネージュ・ララマン!」

 僕は自分のことのように嬉しくなって叫んだ。けれど、彼は浮かない顔をして、

「私、の絵は、下手く、そ、です」

 と呟いた。

「どこがだよ、とっても上手じゃないか」

「違う、んで、す、ゆ、きか。あな、たのほう、が、上手、なん、です」

「どうして? ネージュ・ララマンのほうがずっとずっと……」

「私、の、絵は」

 僕の言葉を遮って、彼は悲痛そうな声を出した。

「感情、が、こもって、いな、いので、す。感、情がない、絵は、上手、とは、言えま、せん。ゆき、かの絵、は、楽し、そうで、元気、で、見てい、て、とても、わくわ、くします。これ、が生き、ている、絵、です」

「ネージュ・ララマン……」

 彼は悲しそうに眉を下げて笑った。

「それでも、ぼくにはネージュ・ララマンの絵は素敵に見えるよ。ぼくも君の絵を見たらわくわくした。君の絵だって、生きてる」

 僕は言った。本当にそう思うから。

 ネージュ・ララマンは取れてしまいそうなほど目を潤ませて、僕を抱き寄せた。硬い胸の奥、心臓がどくどくと脈打っていた。

「ありが、とう、ゆき、か」

 彼の声は震えていた。大きな手で僕の頭を何度も撫でた。彼の腕の中、僕は「生きてる」と小さな声で言った。彼の絵も、彼も、僕も。

 涼しい風が吹いて、コスモスが一斉に揺れた。空は抜けるように青かった。秋の高い空に、コスモスの薄紅色がよく映えていた。

 

 ***

 

 新月パワーが効いたのか、次の日購買で陶子に会った。

「雪日くん」

 りんと澄んだ声が右肩のあたりから聞こえて振り返ると、水のペットボトルとサンドイッチを抱えた陶子が立っていた。うっすら微笑んだ顔に、僕はまた泣きそうになった。

 陶子だ。陶子だ。陶子だ。

 心なしかふわふわの髪が伸びて、肌がこんがりしている気がする。

「久しぶりだね」

 陶子が笑う。風に揺れるひまわりのような笑顔。

「会いたかったよ、陶子」

 素直な気持ちを言うと、陶子の目が泳いだ。

「雪日くんって、ときどきキザよね」

 そんなことを言う。本当のことなのに。けれど、陶子のほんのり赤くなった頬が、照れているのだということを伝えていた。愛おしさが込み上げてくる。

「今日は水浴びしなくていいの?」

 僕も恥ずかしくなって、話をそらした。

「水を買うから大丈夫。本当は手とか足だけでも濡らしておきたいけど、もう寒いし。頻繁に水を飲んでおけば、授業の間くらいは持つよ」

「そっか」

 陶子は、じゃあ買ってくるね、とレジへ向かった。僕はどうにかして彼女と一緒に過ごせないかと考えを巡らせていた。昼休みの一時間だけでは足りない。せっかくやっと会えたのだから、今日くらいは長い時間彼女と過ごしたかった。

 レジ袋を下げて戻ってきた陶子に、

「今からどこか行かない?」

 と訊いてみた。彼女は目を見開いて、

「どこに?」

 と言った。

「ええと、どこでもいいんだけど……並木公園とか」

「今から? 授業をさぼって?」

「うーん、並木公園はいつでも行けるか。じゃあ、そうだな、どこか遠いところ」

「それは今でなきゃだめなの? 授業が終わってからでもいいじゃない」

「そうだけど……」

 僕は口籠った。陶子の言うとおりだから、何も言い返せない。さっきは「会いたかった」と素直に言えたのに、なぜか今は「君と一緒にいたい」と言えない。気まぐれな感情に翻弄される自分が情けない。

 別に今じゃなくてもいいはずだった。けれど、今、離れたくないという気持ちが抑えられない。連絡先を交換するのでも、次に会う約束をするのでもなく、今、一緒にいなくてはいけないという想念が押し寄せてくる。僕はいったい、どうしてしまったのだろう。陶子に会ったのが久しぶりすぎて、気持ちの統制が取れなくなっているのだろうか。

 黙り込んだ僕の顔をしばらく見ていた陶子が、

「もう、しょうがないなあっ」

 と弾むように言った。

「そんなにわたしといたいなら、いてあげる」

 いたずらっぽく笑う。

「わたしの家に来る?」

 軽い口調で言う陶子の顔を、僕は二度見してしまった。陶子の、家。恐る恐る僕は訊く。

「いいの?」

「いいよ。どうせだから、お酒とか買って行こうよ。こんな時間から、贅沢に」

「陶子、お酒飲めるの?」

「もちろん。だってわたし、もうハタチだから。結構好きなの」

 そうか、陶子は僕より一つ年上なんだ、と今さらながら知った。

「スーパーが家のすぐ近くにあるの。そこで買い物しよう」

「うん。陶子って意外と、不真面目なんだね」

「雪日くんだって。授業さぼってどこか行こうだなんて、立派な不真面目だよ」

「立派な、不真面目」

 僕は笑った。

 陶子と連れ立って、彼女の家に向かった。自転車を押す僕の隣を、陶子が歩く。リュックの肩紐を両手で握って、足を一歩一歩前に投げ出すように歩く彼女の歩き方は、てくてくと効果音がつきそうだ。長い髪の毛が彼女の歩みに合わせてたんたんたん、と揺れる。

 途中、スーパーで酎ハイ三缶とカツゲンを一パック買った。陶子の家はスーパーのすぐ裏だった。二階建てのアパートの一階、ワンルーム

「散らかってるけど、気にしないで」

 ずんずん進んでいく陶子を追い、お邪魔します、と言って僕も部屋の中に入った。

 部屋は確かに散らかっていた。まず、服が多い。ハンガーラックにかかりきらないワンピースやTシャツなどが、床にかまくらのように積まれている。空のペットボトルやカップ麺の容器が、これはなぜか綺麗にベッドの下に並べてある。ローテーブルの上には郵便物やチラシなどが無造作に置かれてある。

 物珍しそうな顔をしていたのか、陶子が不安げな表情で僕を見た。

「部屋、汚くてびっくりした? わたし、昔から片付けって苦手で……」

「いや、女の子の部屋って初めてだから。ワイルドでいいと思う」

 僕が言うと、陶子は目を丸くして、「ワイルド!」と繰り返した。彼女からは不安の表情が消え、パチパチと弾ける泡のような笑顔になった。

「そんなフォロー、されたことない」

「本当にそう思ってるよ」

「雪日くんって、面白いね」

 陶子はキャハハ、と高い笑い声を上げる。

「さ、飲も飲も」

 そう言って、彼女はローテーブルの上の紙類を床に下ろし、クッションを二つ、服の山の中から取り出した。散乱している細々とした日用品は、まとめて隅に追いやる。

「そう言えば、つまみを買うの忘れちゃったね」

 酎ハイの缶をプシュッと開けながら、陶子が言う。

「確かに。お菓子とか、何かある?」

「ない。何もない」

「冷蔵庫の中にも?」

「それなら多少はあると思うけど」

「ちょっと見てもいい?」

「どうぞ」

 僕は台所の手前にある冷蔵庫のドアを引いた。二層式の小さな冷蔵庫の上段にはもやしが一袋と豚肉の細切れが一パック、それから卵が三つ、ドアポケットに収まっていた。

「陶子って、料理はするの?」

「料理って言っていいのかわからないけど、一応炒めるのと焼くのはできる。でも何かと何かをかけ合わせることはできないの。そこにあるもやしと豚肉も、それぞれ単品で炒めようと思って買ったやつだし」

 陶子は奇妙なことを言った。僕が首を傾げていると彼女は、

「つまりね、二種類以上の食材を一緒に調理することができないの。味付けができないって言うのかな。もやしも豚肉も卵もそのほかのものも、全部ただ焼くだけ。塩もコショウもソースもかけない。ちょうどいい分量がわからないの」

 と付け足した。

「それは料理の本を読んで、レシピ通りに作っても?」

「そうね、レシピ通りに作ることもわたしには難しいの」

 そう言って、陶子は唇を噛んだ。

「わたしにはできないことが本当に多いの。嫌になるくらい」

 彼女はため息をついて、天井を仰ぐ。

僕は今自分にできることを必死で探した。慰めるにも励ますにも、適切な言葉が見つからない。でも、彼女のために何かしたかった。このまま黙っていたのでは、彼女はきっともやもやとした気持ちを抱えてしまうだろう。けれど、下手に慰めることは逆に彼女を傷つけてしまう気がした。

「よかったら、僕が作ろうか」

 苦し紛れに口にした言葉に、陶子の表情がぱっと明るくなった。

「雪日くん、料理できるんだ!」

「まあね。これでも居酒屋の厨房でバイトしてるし」

「そうなんだ、すごい! 作って作って。調味料は塩コショウと醤油くらいしかないけど」

「多分なんとかなるよ」

 僕は腕まくりをして、台所に立った。

まず卵を二つボウルに割り入れ、醤油を少し垂らしてシャカシャカととく。次にフライパンを火にかけ、サラダ油をひく。フライパンが熱くなってきたら豚肉を炒める。豚肉はもともと細切れになっているので、包丁とまな板は使わなかった。大体色が変わったらもやしを投入。シャキシャキ感を残したいから、さっと炒める。最後にといた卵を流し入れ、混ぜ合わせる。塩コショウで味を整えて、完成。

「できた」

「わあ、美味しそう!」

「本当はみりんとかがあればもっと美味し口なると思うんだけど」

「十分十分。食べよ!」

 陶子はほかほかと湯気を立てるもやし豚肉卵炒めの皿を大事そうに両手で持って、ローテーブルまで運んだ

「乾杯!」

 缶酎ハイとカツゲンのパックを軽くぶつけ合い、ささやかに乾杯をする。陶子が酎ハイをぐびぐびと飲み、勢いよく息を吐き出す。

「昼間から飲めるって最高!」

 それから僕の作った炒めものを一口食べ、

「美味しい! 雪日くん、さすが」

 と目を細めて笑った。

簡単な料理だけれど、こうやって陶子が笑ってくれるのなら作った甲斐があった。味はやっぱり少し物足りない感じだが、卵はふわふわだし我ながらうまくできたと思う。僕はカツゲンのパックにさしたストローを噛みながら、陶子の顔を見つめた。鼻の付け根と目の下に薄く、僕と同じそばかすがある。自分のそばかすはあまり良く思ってこなかったけれど、陶子の顔にあると途端に素敵に見えるから不思議だ。彼女のふわっとした長い黒髪と離れがちな大きな瞳に、そばかすはとても良く似合っていた。

「ああ、雪日くんがわたしのお嫁さんになってくれたらいいのになあ」

 陶子の言葉に、僕は思わずむせる。陶子はくしゃっといたずらっぽく笑う。二本目の缶を開けながら、

「なんてね」

 と言って舌を出す。冗談だと分かっていても、僕は顔が熱くなるのを感じた。

 

 料理がなくなり、カツゲンも飲み終わった頃、陶子の口数が次第に減ってきた。彼女は三本目の酎ハイも空にし、手持ち無沙汰にプルタブをいじっていた。頬が真っ赤に染まっている。酔っているのだろうか。

「大丈夫?」

 膝を抱えいつまでも喋らない陶子に、僕はそう声をかけた。陶子は重たそうに顔を上げ、僕の目をじっと見つめた。それからふ、と目をそらし、弄んでいた缶をテーブルの向こうに遠ざけながら、

「雪日くんって、どんな子が好みなの」

 と呟くように言った。

「え……」

 脈絡のない質問に僕は面食らった。答えを探している間、陶子は暗い目で僕を見ていた。

「わからない。好みとか、考えたことがないから」

 正直に答えた。けれど、それは陶子の望んでいた回答ではなかったらしく、彼女は口を尖らせ不満そうな顔をした。

「雪日くん、前にわたしのこと綺麗だって言ったよね。あれは嘘なの?」

「嘘なんかじゃないよ。本当にそう思ったから言ったんだ」

「じゃあ今は?」

「今も、思ってる」

 そう言うと、陶子はくるりと体を僕のほうへ向け、手を伸ばしてきた。彼女の右手があぐらをかいた僕の左膝に置かれる。彼女はゆっくりと身を乗り出して、僕に顔を近づけてくる。息遣いを感じる。彼女の薄桃色の唇が僕の唇に重なりそうになったとき、僕は思わず顔を背けてしまった。彼女の両肩を掴み、体を引き離す。彼女の顔全体が見えるようになった。真っ赤な頬と見開かれた目、半開きの口。彼女は明らかにショックを受けた表情をしていた。

「ご、ごめん」

 僕は思わず謝った。何に対して悪いと思ったのかは、咄嗟にはわからなかった。陶子の目にはみるみるうちに涙が溜まった。

「どうして……」

「陶子」

「雪日くんは、誰にでも綺麗だとか可愛いって言うの?」

「そんなわけない」

「じゃあどうして! わたしのことが好きなんじゃないの?」

「陶子……」

「なんとも思ってないなら、思わせぶりなこと言わないでよ!」

 陶子は僕の手を振り払い、背中を向けた。膝に顔を埋め、しゃくり上げている。名前を呼んでも、返事をしてくれない。僕の言動が、陶子を傷つけてしまったのだ。

 どうして僕はさっき、顔を背けてしまったのだろう。陶子のことが嫌いなわけじゃない。それは絶対にない。陶子とキスがしたくなかった? いや、違う。僕は陶子を魅力的な女の子だと思っている。一緒にいたいし、もっと彼女のことを知りたい。それなのに、どうして。

 僕は自分のことがわからなくなってしまった。彼女を傷つけてしまった自分に、ひどく嫌気がさした。彼女はまだ泣いていた。

 

「それ、は、大事、ってこ、と、です、ゆ、きか」

 

 突然、声がした。長い間聴くことのなかった、懐かしい声。僕は部屋の中を見渡した。どこにもいない。声は耳から聞こえたのではなく、僕の心の中から湧いてきたのだ。

 そうか。僕は陶子のことが大事なんだ。大事だから、簡単にキスをしてしまいたくなかった。流れに任せて、勢いで、なんてことにはしたくなかった。

 ネージュ・ララマン。僕の友達。君はまだ、どこかにいるのだろうか。姿が見えないだけで、僕の近くにいるの? 会いたいよ。

「陶子、聞いて」

 僕はそっと陶子の背中に話しかけた。彼女は振り向かない。けれど、小さくしゃくり上げながらも、僕の次の言葉を待っているような気がした。僕は自分自身にも語りかけるように、丁寧に言葉を選んで話し出した。

「僕にはね、大切な友達がいたんだ」

 

 ***

 

 僕は人には見えない生物が見える。それはいつも突然現れて、僕の目の前を右往左往したり浮遊したり横切ったりする。犬とか猫とか象とかトカゲとか、もちろん虫なんかでもない。この世界に存在している生き物ではなくて、何と言うか、もっと繊細な隙間の端くれみたいなところでひっそり息をしている、ものたち。でも確かに、生きている。

 僕が物心ついたのは三歳くらいのときだけれど、その頃にはすでに見えていた。食卓の醤油瓶の陰、食器棚のグラスの中、おもちゃ箱の隙間、扇風機の羽の上。あらゆるところに生物は現れた。外でも風に乗って流れていく彼らをよく見た。

 僕は母さんに見えるものすべてを得意げに話した。最初のうちはにこやかに頷いてくれていた母さんだったが、僕が人前でも同じように話していると、次第に顔をしかめるようになった。

「雪日、そういうことはあんまり言ってはいけないのよ」

「どうして?」

「みんなに笑われちゃうから。変な目で見られちゃうから」

「へんなめ?」

「みんな雪日のことを嫌いになっちゃうってことよ」

 母さんは僕の頭を撫でながら、優しく諭すように言った。

「だからね、もう見えても言わなくていいからね」

 見えても言わなくていい、から見るな、に変わったのはいつのことだったろう。気がつけば母さんは、僕に普通を強いるようになっていた。

「あなたは何も見えないの。変なものは見てはいけないの。あなたは普通の子なんだから」

 そう言って、僕の視線に目を凝らすようになった。

 ネージュ・ララマンと出会ったのは、ちょうどその頃だった。庭の片隅に突っ立っている不恰好な大きい生物。ガラクタの寄せ集めみたいな風貌で、カクカク動く。電池の切れそうなラジオみたいに喋る。この不可思議な生物は初めて見たとき、あまりに自然に僕の名前を呼んだから、僕はずっと前からこのへんてこな生物のことを知っている、きっと仲良くなれると思ったのだ。

 

 ***

 

 長い長い話をした。ネージュ・ララマンにかかわることのすべて。僕に話せることのすべて。陶子はいつの間にか膝を抱えたまま僕のほうに体を向けて、静かに聞いていた。頬には細く涙の跡ができていた。

「ネージュ・ララマンは今、どこにいるの?」

 陶子がそれまで固く閉じていた口を開いた。

「それは僕にもわからない。でも、どこかにいるはずなんだ。僕が見えなくなっただけかもしれない」

「いそうな場所に心当たりはないの?」

「思いつかないな。僕が中学に上がる前にはもういなかった気がする」

「それならどうして今になって思い出したの?」

 陶子の質問に、僕はしばらく考えた。今になってと言うより、ネージュ・ララマンのことは多分ずっと忘れたことなんてなかった。心のどこかにいつもいたのだ。けれど、積極的に思い出すことはしてこなかった。なぜだろう、とても大切なことなのに。

「ネージュ・ララマンが僕の前からいなくなった日のこと、思い出せないんだ。断片的には覚えてる。でも肝心なところが抜け落ちている気がする。どうして今、こんなに気になるんだろう。忘れたことは一度もないけど、今になってこんなに会いたいのはどうしてなんだろう」

 僕はネージュ・ララマンの歪な姿を思い浮かべながら言った。彼の姿はいくらでも思い出せる。おどけて笑う四角い笑顔までも。

「会いに行こうよ」

 ふいに陶子が大きな声でそう言った。僕は驚いて彼女の顔を見る。

「え?」

「雪日くんの記憶の断片をつないで、会いに行けばいいじゃない。会えるかはわからないけど、探すことに意味があると思う」

 陶子の目はさっきの涙でまだ潤んでいて、キラキラと輝いていた。澄んだ水のような翳りのない瞳。

「一緒に、行ってくれる?」

 僕は陶子の瞳を見つめたままそう言った。目が離せなかった。

陶子は思い切り頷いて、

「行きたい!」

と言った。ふわふわの髪の毛が弾みで僕の頬を撫でた。僕はこのとき初めて、陶子のことが好きなのだと思った。

 

 ***

 

 ネージュ・ララマンと最後に一緒にいた記憶は、深い雪の中だった。辺りには何もなくて、ただ真っ白な雪景色が広がっているだけだった。空は晴れていた。

 記憶の断片をつないでネージュ・ララマンに会いに行く。そう決めたあの日から、雪が降るまで一ヶ月ほど待った。その間、僕は真面目に授業を受け、週に三日バイトへ行き、ときどき紺野さんと話し、僕の覚えている景色と実際の場所を照らし合わせる作業を陶子と共におこなった。

 気まぐれにしか降らなかった雪がようやく根雪になった頃、探していた景色が見つかった。パソコンの画像と僕の記憶の中の情景がぴたりと重なったとき、忘れていたいくつかの情報を思い出した。

 小学四年生の冬休み、僕は母さんとここを訪れていた。そこは母さんの実家がある町だった。今では寄りつきもしなくなったけれど、

母さんは北海道の出身なのだ。

 母さんの実家に遊びに来て、雪の中でネージュ・ララマンと駆けまわった。そこから先は覚えていない。でも、十歳の冬を境に彼は僕の前に姿を現さなくなったことは思い出した。

「ここだと電車で行くことになるね。一日がかりだ」

 パソコンで行き方を調べながら、陶子が言った。彼女の部屋で作戦会議をしていた。

「次の土日に行く?」

「そうしよう」

 僕たちは頷き合った。

 

 土曜日の朝、JRの駅で陶子と待ち合わせをした。駅の構内は広いから、あらかじめ集合場所を決めておいた。駅には目印となるようなオブジェが出口ごとに設置されている。僕たちは南口の溶けた白いドーナツのような形のオブジェの前で落ち合った。

 陶子はベージュのダッフルコートにジーンズ、黒いブーツにバックパックといった出立ちで時間通りにやって来た。

「あったかそうだね」

 僕が言うと、

「寒がりなの。冬は水分補給がうまくできないから嫌い」

 と顔をしかめて笑った。

 僕たちは切符を買い、券売機の隣にあるミスドに立ち寄った。朝ご飯代わりに車内でドーナツを食べることにした。僕はダブルチョコレートとフレンチクルーラー、陶子はゴールデンチョコレートポンデリングとエビグラタンパイをそれぞれ買った。

「たくさん食べるんだね」

「だって甘いものを食べたあとは、しょっぱいものが食べたくなるでしょ」

「甘いほうをどっちか一個にするっていう選択肢は」

「ない! ゴールデンチョコレートポンデリング運命共同体なの」

「食いしん坊なだけじゃないか」

 僕が笑うと、陶子は頬を膨らませた。

 キオスクで飲み物も買い、改札を通る。エスカレーターを上り、八番線に向かう。電車は車輪を軋ませながらホームに入って来た。

「特急って初めて乗る」

 乗車間際、陶子がそう言った。

「雪日くんは乗ったことあるんだよね」

「そうだね、小学生の頃乗ったと思う。あんまり覚えてないけど」

「そっか」

 陶子は僕の顔をちらりと見て、先に特急に乗り込んだ。

 指定されたシートに二人並んで座る。陶子が窓側、僕は通路側だった。発車と同時に陶子はミスドの袋を開けた。一口食べるごとに水を飲む。そうしないと、陶子の体は乾いてしまうのだろう。ただでさえ、ドーナツは口の中の水分を奪うから。

 フレンチクルーラーの最後の一口を口に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら窓の外に目をやると、街並みが途絶え、真っ白な田園が広がっていた。過ぎてゆく雪景色は、僕のネージュ・ララマンに対する特別な思いを浮かび上がらせた。雪、フランス語でネージュ。彼の姿はちっとも雪らしくないけれど、僕と同じ名前なのだ。陶子が言っていた、ゴールデンチョコレートポンデリング運命共同体ならば、僕とネージュ・ララマンもそうだったのかもしれない。

「ねえ、もしネージュ・ララマンに会えても、雪日くんには見えるけどわたしには見えないのよね」

 陶子がベットボトルのキャップをひねりながら言った。

「そうかもしれない。今までも僕以外の人には見えなかったから」

「ちゃんとわたしにも教えてね。ここにネージュ・ララマンがいるよって」

「もちろん」

「それで、わたしのことを紹介してね」

「うん。僕の大切な人だよって紹介するよ」

 僕が言うと、陶子は薄く頬を染めた。そして、

「雪日くんって、本当にときどきキザよね」

 と口を尖らせた。その表情がどこか嬉しそうに見えて、僕は思わず笑みがこぼれた。

 話しているとあっという間に乗り換え駅に着いた。ここからさらに三十分ほど電車に揺られる。今度は特急ではなくて普通列車だ。ガタンガタン、と音を立て電車は進む。陶子はさっきたくさん食べたせいか、僕に寄りかかって眠ってしまった。すぐ目の前に陶子のつむじがあって、僕は妙に緊張してきた。僕も彼女に寄りかかっていいものなのか、でもせっかく気持ちよさそうに寝ているし起こしてはだめだ、と身の置き場に困った。

 このままずっと目的地に着かなければいいのに、と思った。ネージュ・ララマンには会いたい。そんなの当たり前だ。でも、陶子の長い睫毛がかすかに震える様子をじっと見ているこのひと時も、同じくらい愛おしかった。

 

「……な、……を、……、……、ゆき、か」

 

 ネージュ・ララマンの声がまた聞こえた気がした。何と言っていたのかは覚えていない。昔、彼が最後に僕に言ったであろう言葉。どうしても思い出したい。

 目的地のアナウンスが流れた。電車が一際大きく揺れ、弾みで陶子が起きた。

「わたし、寝てた?」

「気持ちよさそうに寝てたよ」

「寝顔見た?」

「うん」

「やだー」

 陶子は手のひらで両頬を押さえ、身を捩った。

 電車を降り、改札を出た。白い石造りの小ぢんまりとした駅舎は、映画に出てきそうな佇まいだった。太陽の光が屋根に積もった雪を照らして、眩しいほど輝いていた。

 スマホで調べると、記憶の中の雪野原までは駅から徒歩三十分程だった。近くまでバスも出ているらしいが、陶子に聞くと「歩きたい」と言った。

「見て、三角屋根。お菓子のおうちみたいで可愛いね」

 陶子が指を差した先には、赤や緑のとんがった屋根が建ち並んでいた。大学の近くは高くて平らな建物ばかりで、背の低いとんがり屋根は滅多に見ないから、なんだか新鮮に感じた。陶子の言うように、周りをホイップクリームで囲まれたお菓子の家に見える。

「寒い?」

 僕が訊ねると、

「平気」

 陶子はそう言ってコートのポケットから両手を出し、道路の脇に積まれた雪を掬い上げた。

 市街地を抜けると、ほとんど除雪がされていない道が続いた。狭いので一列になって歩いた。僕が先につけた足跡の上を、陶子が歩く。進むのに必死で、僕たちに会話はなかった。途中、吹き溜まりに足を取られながらも目的地の雪野原までやって来た。

「わあ、ひろーい! 雪がふかふか! 真っ白!」

 陶子は白銀の大地を見るや否や、子犬のように駆け出した。爪先が冷えて感覚がなくなりかけていたけれど、僕は彼女を追いかけた。

 記憶の雪野原のただ中に、僕は今いる。雪が広がって広がって、有限であることを忘れてしまいそうだ。飲み込まれるのとも違う、しっかりとした意志を持って、この壮大な雪にまみれている。きっと幼いあの日ネージュ・ララマンと見た夜空の星よりも柔らかい雪の粒が、僕と陶子を隔てていた。僕は堪らず陶子のそばへ駆け寄った。

 陶子、と名前を呼ぼうとすると、彼女はいきなり僕の両肩を強く押した。バランスを崩し、僕は雪の上に倒れ込んだ。驚いてそのまま仰向けでいると、視界の端からひょっこりと彼女が顔を出した。にっと歯を出して笑っている。それから、彼女も僕の隣に大の字になって倒れた。

「一度やってみたかったの。雪の上に寝っ転がるやつ」

 空を仰ぎながら陶子が言った。

「ねえ、ふかふかであたたかくて、空は晴れていて、気持ちがいいね」

 手を高く伸ばした陶子の腕から、さらさらと雪が舞う。僕の顔にかかり、束の間ひんやりとした。

 ネージュ・ララマンとも、こんなふうにしたのだろうか。

 記憶の中の空は晴れ渡っていた。ちょうど今日みたいに。雪野原に来ても、彼のことをはっきりとは思い出せない。どうしてこの場所が彼と一緒にいた最後の記憶なのだろうか。僕は歯痒さに目をぎゅっと瞑った。

 隣で陶子が起き上がった気配がした。横を向くと同時に、顔の上にどさっと雪の塊が落ちてきた。

「うわっ」

 思わず声を上げると、もう一発お見舞いされた。

「雪まみれの雪日くん」

 そう言って陶子はキャハハッと笑った。

「やったな?」

 僕はさっきまでの感傷を忘れ、大きな雪玉を作って陶子に投げつけた。彼女はひらりと身をかわし、手に持っていた雪玉を二つ投げてきた。二発とも僕に当たり、着ていたコートの前面が白くなった。

 僕たちは走り回りながら雪玉を投げ合った。コントロールが悪いのか、僕の雪玉はちっとも陶子に当たらなかった。陶子は雪玉を作って投げるという動作が早くて、一度に何発も飛ばしてくる。そのうち一発は必ず僕に当たった。

「雪日くん、下手くそー」

 陶子に馬鹿にされた僕は意地になって大きな雪玉を作り、彼女がしゃがんだ隙に振りかぶった。ソフトボール大のそれは彼女の頭めがけて飛んでいき、こちらを向いた彼女の顔面にどかっと当たった。僕もさっき顔の上に雪を投げられたので、これでおあいことばかりにガッツポーズをしてやった。

 ところが、陶子は顔を押さえたまま動かない。

「陶子?」

 僕は不安になって、彼女の様子を見に行った。

「大丈夫?」

 そう問いかけたとき、パタタッと雪の上に真っ赤なものが落ちた。血だった。

 陶子は鼻を押さえながら呆然としていた。それを見ている僕も、時が止まったように硬直した。彼女の両手が赤く染まっていた。雪の上に落ちた血はじわりと広がり、白とのコントラストに鳥肌が立った。

 

「危ない、雪日!」

 

 突然、つんざくような声が耳を襲った。目を見開いて辺りを見渡しても、どこまでも白い雪野原と血を流す陶子の姿しか映らない。

 

「ネージュ・ララマン!」

 

 幼い声も聞こえた。変声期前の高いその声は、間違いなく僕のものだ。

僕はわかった。二つの声は、僕の内側から発せられたものだった。耳に直接聞こえたわけではなく、僕の記憶が鼓膜を蹴り飛ばしていたのだ。それに気づいた途端、僕はもうあの日の中にいた。

 

 ***

 

 見渡す限り白一色の雪野原。

 あの日、僕は母さんの実家から距離のあるこの場所まで、遊びに行ってくると言って出かけたのだ。ネージュ・ララマンと一緒に。「冒険、です、ね、ゆき、か」

 彼は目を糸のように細めて楽しそうに言った。

 雪の中でスキップをした。足がもつれてうまくできなかった。雪の上に倒れ込み、二人で笑った。ネージュ・ララマンが寝っ転がった跡はでこぼこして不思議な形をしていた。

 こんなに積もった雪を見るのは初めてだった。はらはらと降って薄く積もっても、息をする間に溶けていってしまう。そんな雪しか見たことがなかった。僕とネージュ・ララマンはじゃれあって、塊になって転げ回った。雪まみれになって、指先はカチカチに冷たくなったけれど、体の中は火照って熱かった。雪は冷たすぎるほど燃えるように熱く感じるものなのだと知った。

 雪だるまを作ろうと、ネージュ・ララマンと雪を固めていると、遠くに人影が揺れた気がした。ネージュ・ララマンは気づかずに一生懸命雪を盛り上げている。僕は手を止め、目を凝らした。やっぱり人が立っている。僕たちが歩いてきた道の先に。じっとこちらを見ているようだけれど、遠くてよくわからない。

「雪日?」

 ネージュ・ララマンが僕を見上げた。そのとき、向こうでキラッと黒い何かが光った。

 

 パンッ

 

 乾いた音がした。

「危ない、雪日!」

 ネージュ・ララマンの叫び声が耳をつん裂いた。同時に彼が僕を突き飛ばした。

 目の前に真っ赤なものが飛び散った。細い線のように見えたけれど、雪の上に落ちたそれはじわりじわりと雪の白を侵食して広がった。僕は何が起こったのかわからなかった。音がしたほうに目をやると、さっきの人影はもうなかった。

 ネージュ・ララマンの体からは、赤い液体がどくどくと溢れていた。彼の周りの雪は赤に浸されていた。

 これは、血だ。

 そう気づいたとき、僕は思わず叫んだ。

「ネージュ・ララマン!」

 彼の体に触れる。温度が感じられない。僕の手が氷みたいに冷たいからだろうか。

「ネージュ・ララマン、ネージュ・ララマン!」

 僕は夢中で叫んだ。彼の細っこい体のどこにこんなに血が潜んでいたのだろう、と思うくらいにあとからあとから溢れて止まらなかった。

「ネージュ・ララマン、ねえ、大丈夫? ネージュ・ララマン!」

 ネージュ・ララマンの表情からは何の感情も読み取れなかった。苦しそうにも辛そうにも見えない。でも笑っていないし、嬉しそうでも楽しそうでもない。電池が切れたおもちゃみたいに、ぐったりと無表情だった。

 僕はネージュ・ララマンを抱き抱えた。だらんと腕を垂らしたまま、彼は口を開いた。

「ゆ、きか……」

「ネージュ・ララマン!」

「今日、の、こと、は、忘れ、るので、す……」

「ネージュ・ララマン……」

「忘れ、るの、ですよ……」

 ネージュ・ララマンの口は大袈裟なほど震えていた。僕は泣いていた。忘れるというのがどんなことなのか、その言葉を口にする者がこのあとどうなるのか、僕は何も知らなかった。知りたくなんかなかった。

「ねーじゅっ、ららまん……」

 僕はしゃくり上げながら、彼の名前を呼んだ。

「ゆ、きか、は、わた、しの、たいせ、つな、人……ずっと、ずっ、と……」

 ネージュ・ララマンは震えながら赤く染まった手のひらを僕の頬に当てた。

「大切な、人を、見つけ、るのです、ゆき、か」

 それがネージュ・ララマンの最期の言葉だった。彼は力尽きたように、動かなくなった。

辺りはしんと静かだった。雪が音を吸い込んで消しているみたいだった。真っ白と真っ赤。決して調和するはずのない二つの色が、お互いを避け合いながら一つにまとまっていた。

 

 僕は泣きながら母さんの元へ戻った。撃たれたとうわ言のように繰り返す僕に母さんは、

「あなたは普通なの、大丈夫、どこもおかしくなんかない、大丈夫よ」

 と何度も言い聞かせた。

翌日、銃を持った男がこの付近で捕まった。男は、子供を銃で撃った、と言っていたそうだ。

 僕は無傷だった。だって、ネージュ・ララマンが助けてくれたから。彼はさよならさえも言わないまま、雪に溶けるようにしていなくなった。忘れるつもりなんてなかったのに、僕はこの日のことを記憶の隅に追いやってしまった。

思い出せて、よかった。そうじゃなかったら僕は、永遠に君を失っていたから。

 

 ***

 

 陶子の鼻血が止まるのを待って、僕は話し出した。

「あのね、陶子。ネージュ・ララマンはもういないんだよ」

 涙は出なかった。悲しくはなかった。

「思い出したんだ。僕と彼の話を、してもいいかな」

 陶子は僕の目をまっすぐに見て、頷いた。鼻の下にうっすらと血の跡がついている。

「僕はね、小さい頃からへんてこなものが見えたんだ。でも他の人にはずっと内緒だった」

 雪の上に散らばった陶子の血は日の光に照らされ、眩いほどにキラキラと輝いていた。それはまるでいつの日にか見た光の血のように透き通っていて、ほんの少し甘い匂いがした。

「見てはいけない、見えないのが普通なんだと言われ続けてきた。でもどうしたって、僕には見えるんだ」

 陶子の顔にも光が当たっている。透明なベールが彼女の周りを覆っていた。真剣な眼差しで僕の目を見つめ返す彼女を、時折ベールが揺らめきながら隠そうとする。

「ネージュ・ララマンは、僕の友達だった。彼の最期を忘れるなんて酷いよな。僕はとても弱かったんだ。彼が僕を守っていなくなったこと、きっと耐えられなかったんだ」

「今は耐えられるの?」

 陶子が口を開いた。透明なベールがさらりと捲れた。

「うん」

「どうして?」

「それは多分、大切な人ができたから」

 僕は一言ずつ抱きしめるようにゆっくりと言った。陶子の瞳が揺れた。

「ネージュ・ララマンは最期に言ったんだ。大切な人を見つけてって。彼は僕のせいで消えてしまったのかもしれない。でも、今は思うんだ。僕が大切な人に出会えるように、場所を空けてくれたんじゃないかって」

 陶子は僕の目から視線をそらした。僕のおでこを見る。眉毛のあたりを見る。鼻を通って唇を見る。そして、再び目を見つめた。

「僕は君と出会って、初めて自分を認められたような気がする。自分は特別な存在なんだって思えた。自分を認めた上で大切な人ができたなら、その人は寂しさを埋めるとか寄りかかるための相手じゃなくて、一緒に歩いて行ける人なんだって思うんだ」

 陶子の唇が震えていた。瞳にはたくさんの雫が、今にもこぼれそうに溜まっている。ベールはいつしか僕と彼女を包むように、風にはためいていた。

 出会ってくれてありがとう、と言ったら彼女は堪え切れずに泣いてしまうだろうか。さすがにキザかな、と躊躇っていると、

「雪日くん……」

 鼻水混じりのぐすぐすとした声で、陶子が僕の名を口にした。

「ん?」

陶子からついに溢れた涙は柔らかな頬のラインを伝って、彼女の手の甲にぽとりと落ちた。言葉の続きを待っていた僕は、ああ、と気づいた。

陶子も僕と同じ気持ちなんだ。

 言われなくてもわかってしまう愛おしい特性に、僕は心の中でありがとう、と呟いた。